“第3極”「日本維新の会」分裂、混迷深まる野党再編

政治・外交

日本の政界は、衆参両院で圧倒的な勢力を保持する自民党に対し、連携すらできない野党陣営という「1強多弱」時代となっている。特に民主党政権崩壊後、“第3極”勢力の中核として期待されてきた「日本維新の会」が2014年6月、同党の共同代表制導入から約1年半で分裂した。野党第1党の民主党も内紛を繰り返しており、日本維新の会の分裂で、自公連立政権に対抗する野党再編は一段と混迷の色を濃くしている。

「維新の会」と「次世代の党」に分裂

日本維新の会は2014年6月22日の臨時党大会で分党を正式に決定、共同代表であった石原慎太郎元東京都知事を中心とするグループ(衆参22人)と、橋下徹大阪市長を中心とするグループの「日本維新の会」(38人)にいったん分裂した。

次世代の党結党大会で乾杯する石原慎太郎最高顧問(中央右)、平沼赳夫党首(同左)ら。(2014年9月16日、東京都内のホテル、写真提供=時事)

その後、石原グループは同年8月1日、新党「次世代の党」を結党、党首に平沼赳夫氏を選出、石原氏は最高顧問に就任した。勢力は衆院19人、参院4人の23人。

一方、橋下グループは9月21日、みんなの党から分裂した「結いの党」(江田憲司代表)と合流し、新党「維新の会」を結党、共同代表に橋下、江田両代表を選出した。勢力は衆院42人参院11人の計53人だ。

野党再編論争、理念・政策の対立が分裂の要因

分裂は、野党再編をめぐる路線論争と、「自主憲法制定」や原子力政策をめぐる理念・政策上の対立によるものだ。同時に、大阪を拠点とする橋下氏と東京を拠点とする石原氏の“東西対立”が背景にあった。

橋下代表は、2013年7月の第23回参院選で“敗北”宣言した後、自民党に対抗する第3極構築のため、みんなの党から分党した「結いの党」との合流を推進した。しかし、石原代表は、“護憲政党”の結いの党とは合流できないと反発、「自主憲法制定」を綱領に掲げるように主張した。石原代表は野党再編連携より自民党との連携を重視した。

原子力政策でも、石原代表が着実な推進を主張したのに対し、橋下グループが反発し、調整がつかなかった。さらに、橋下グループはもともとが「大阪維新の会」であり、東京を拠点とする自民党の離党組で結党した「太陽の党」とは肌合いが合わないという事情もあった。

結局、日本維新の会の分裂は、理念や政策の違いを棚上げし、国政選挙戦術を優先したことのツケが回った結果だといえる。

2012年総選挙で、第3極政党に大躍進

「日本維新の会」の躍進の始まりは、2008年1月、橋下氏が熱狂的な支持を集めて大阪府知事に初当選したことにある。2009年総選挙で民主党政権発足という政権交代が起こり、大阪府議会では松井一郎(現幹事長)ら自民党府議らが相次いで離党し、2010年4月に橋下氏を代表に「大阪維新の会」を旗揚げする。翌年の統一地方選では、”橋下ブーム”に乗って、大阪の府議・市議両選挙で「大阪維新の会」が大勝する。

2012年9月に「日本維新の会」と党名を変更、11月には石原氏が率いる「太陽の党」が合流する。民主党政権の混乱の中で行われた同年12月の第46回総選挙で、同党は54議席を獲得、第3党に躍進し、2013年1月に、石原、橋下両氏による共同代表制に移行した。まさに破竹の勢いというべき躍進ぶりだった。

石原、橋下共同代表制、1年半で崩壊

囲み取材に臨む橋下徹大阪市長。(2013年5月24日、大阪市役所、写真提供時事)

しかし、躓(つまず)きは意外に早く訪れる。契機は、橋下共同代表による2013年5月の「従軍慰安婦」発言問題だった。同党に対する風当たりが強まり、翌6月に行われた東京都議選では、石原代表の地盤にもかかわらず、獲得議席は改選前(3議席)に届かない2議席と惨敗した。

さらに、同年7月の参院選では、日本維新の会として44人の公認候補を擁立したものの当選は8人と低迷、非改選を含め9人にとどまった。橋下代表は、「代表という立場で誇れるような結果ではない」と敗北宣言し、辞意を表明したが、幹部から慰留され撤回した。同年12月には、東国原英夫広報委員長が、「理念、政策、方向性が変質・変容している」として議員を辞職するなど混乱が続いた。

結局、橋下代表は2014年1月、 橋下グループを中心に、「結いの党」と合流を視野に入れた政策協議をスタートさせた。石原は、結いの党が「護憲政党でない」として合流の可能性を否定した。調整がつかないまま、石原、橋下両代表は5月28日に会談し分党で合意、6月に臨時党大会で正式決定した。

「結いの党」との合流にも危さ

日本維新の会と合流した「結いの党」も、また合流に至る過程は曲折を経ている。自民党を離党した渡辺喜美氏と無所属だった江田氏らが中心となり2009年8月8日に、「みんなの党」を結党したが、渡辺代表と江田幹事長との党内対立が激化し、江田幹事長は2013年8月に解任された。このため、同年12月9日、江田を含めた衆院8人、参院6人の計14人の議員がみんなの党を離党し、無所属の1人を加え15人で「結いの党」を結党した。江田氏らは、「1強多弱」の政界構造を変革するために、2015年の統一地方選などを見据えた野党再編が不可欠であるとして、日本維新の会に強く働きかけ、2014年1月から両党の合流を視野に政策協議をスタートさせた。

しかし、日本維新の会と結いの党は、党名や党本部の設置場所をめぐり対立。橋下、江田両代表も1年の暫定的な体制とするなど様々な課題を抱えている。

日本維新の会の歩み

2010年 4月 橋下氏を代表とする地域政党「大阪維新の会」発足
2011年 11月 大阪府知事・大阪市長ダブル選挙で、橋下氏が市長に、松井一郎氏が府知事に当選
2012年 9月 「日本維新の会」結党,綱領「維新八策」発表。
自民、民主、みんなの党から13人の議員が参加する
11月 石原慎太郎元都知事が率いる「太陽の党」が合流
12月 第46回総選挙(12月16日) 54議席獲得で野党第2党に躍進
2013年 1月 石原、橋下両共同代表制に移行
5月 橋下代表の「従軍慰安婦」発言。みんなの党が参院選での選挙協力を解消
6月 都議選で34人擁立するが、獲得2議席で惨敗
7月 第23回参院選(7月21日)、8議席と低迷、橋下代表が一時辞意を表明するが撤回
9月 大阪府堺市長選で、擁立した市長候補が惨敗
12月 東国原英夫広報委員長が「党が変質・変容した」と、会派離脱し議員辞職
2014年 1月 「日本維新の会」と「結の党」が合流を視野に政策協議を開始
3月 橋下市長、出直しの大阪市長選で再選
5月 石原、橋下両代表が会談で、分党することを合意
6月 臨時党大会で分党を正式決定
8月 石原グループが「次世代の党」を結党
9月 「維新の会」結党、結の党が合流

 

タイトル写真=新党名を発表する松野頼久氏(前列中央右)、江田憲司氏(同左)ら。(2014年9月10日、衆院第1議員会館、写真提供=時事)

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