魯迅の蔵書から見た多元的知の連鎖

社会 文化

1902年3月24日、魯迅(本名周樹人、1881-1936)は南京から「大貞丸」に乗船し、上海経由で日本へ赴いた。4月4日、横浜に到着し、同月東京の弘文学院にて留学生活を始める。今年はちょうど百十周年という節目の年を迎える。中国や日本でそれに関する記念行事が企画されているかどうか、私にはよく分らない。しかし、魯迅の日本留学は彼の個人精神史、さらには中国近代の文化・思想史において大きな出来事であったことに違いはない。

「西学」世界への通路としての日本

魯迅の日本留学は、ただわが道を行く個人的な選択だったのではなく、その背景には時代の流れがあった。すなわち、西洋列強と明治政府の圧力をうけ、敗北を重ねた清朝が、自らの政治制度と社会制度の改革を図っていく中で、外国への留学生派遣が改革の一環として推進された。とりわけ「東洋」すなわち日本への留学が積極的に進められた。

「洋務派」官僚のリーダーであった張之洞(ちょうしどう、1837-1909)は著書の『勧学篇』(1898)で、「西学は甚だ煩雑であるが、その切要(せつよう、肝心)ならざる部分は既に東人に刪節(さんせつ、削って簡略にする)され改められた。中・東の状況や風俗が相近く、真似して行うことが簡単である」と力説し、彼の言った「西洋は東洋に如かず」は当時、留学の行動指針とされたようであった。

そもそも魯迅は張之洞のような官僚に好感を持っていなかったが、彼の蔵書から見ると、ある種、張に示された道を歩んだと言わざるを得ない。北京魯迅博物館研究室編の『世紀之交的文化選択・魯迅蔵書研究』(湖南文芸出版社、1995年)によると、魯迅の蔵書は4000点あまりが残されているが、そのうち日本語の書物は995点あり、ほぼ4分の1を占めている。魯迅にとって、日本語書物が知的な資源としてどれほど重要であったか、この数字からうかがうことができる。

しかし、日本文学の書物はわずか136点であり、ヨーロッパやロシア・ソビエトの思想、文化、文学に関する書物の数がはるかに上回っている。このように魯迅が東洋=日本を「西学」世界へ通じる道、「通路」として扱っていたと言っても過言ではないだろう。

多元的知の環境と知の生産

日本は通路と見なされていたが、その通路は決して透明なパイプではなかった。魯迅が日本語を通じて受け入れたヨーロッパやロシア・ソビエトの思想、文化は、当時の日本の知識環境に影響されたものだった。1920年代後半から1930年代初頭にかけ、魯迅は革命後のロシアに関心を寄せ、ソビエト文芸理論の書物を大量に購入したが、その多くは日本語訳のものであった。ロシア語を解さない魯迅にとっては当然のことだろう。

魯迅はプレハーノフ(1856-1918)やトロツキー(1879-1940)、ルナチャルスキー(1875-1933)の文芸論の中国語翻訳について真剣に取り組んでいたが、いずれもスターリン体制が固まるにつれ主流から外された理論家である。魯迅はトロツキーを「深く文芸を解する批評家である」と評価し、とりわけ彼の「同伴者作家論」に共感を覚えたようであった。トロツキーがソビエトから追放されたことを知っても、依然として彼の文芸論を紹介し、度々文章の中に取り入れた。

興味深いことに、魯迅はこの時期、日本の白樺派作家武者小路実篤(1885-1976)や有島武郎(1878-1923)の文芸論の翻訳にも積極的に携わっていた。長堀祐造が『魯迅とトロツキー』(平凡社、2011年)の中で注目している「魯迅による有島作品翻訳が魯迅のトロツキー文芸理論受容期とも重なり合う」とは、偶然の一致ではなく、特別な意味を持ったに違いない。本文の趣旨に沿って言えば、魯迅が多元的知の環境に直面していたからこそ、選択の幅が広くなり、自らのユニークな文芸論を構築することができたと言えよう。

(2012年4月18日 記)