新渡戸稲造の『修養』を再読する

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私が新渡戸稲造(1862-1933)の『修養』を読み返そうと思ったのは、中訳本が北京の中央編訳出版社(2009年5月)より発行されたからである。翻訳者は王成(おうせい)と陳瑜(ちんゆ)。私の関心はもっぱら現在の中国語の文脈の中で、『修養』がどのように解読されているのか、あるいはどのように『修養』を解読すればいいのかにあった。

中国で流行する“成功本”に一石を投じる一冊

中訳本の帯には次のような一文が記されている。「これは“やる気を促す本”である」。正直なところ、この一文を目の当たりにした時には、あまり気持ちの良いものではなかった。なぜなら眼下の中国の書店には、実にたくさんの類似の書籍が溢れているからだ。これらは各種業界の「成功者」の“サクセスストーリー”であり、ほぼすべてが「名声」を得ることを「成功」の基準としている。

しかし、次の一文を見て、すこしばかり胸をなでおろした。帯には「事業で成功することを説く書籍と違い、本書は人格的にいかに成功するかを説くものである」と。この一文は確かに必要である。なぜなら『修養』は多くのところでいかに“立志”すべきかを説くだけでなく、第二章では“立志”を表題に立てている。「事業の成功」を説いてないばかりではなく、逆に「功名富貴(こうめいふき)を修養の目的としてはならない」(『修養』中訳本より)として、全編にわたって、名利が心身を蝕んで壊していくことを繰り返し強調している。修身とは「己に克つ」ことであると説いている。つまり、『修養』は“反立志書”とは考えられないだろうか。

“己に克つ”という人格的成功

新渡戸稲造は「己に克つ」境地に達することは相当に難しく、「自力」で及ばない能力であったことを知っていたのだろう。だからこそ、キリスト受難の物語を引用して鼓舞し(『修養』中訳本P.264より)、「他力」―「人を超えた力」(『修養』中訳本P.264)を信じて多くのことを語っている。人は「人と人との間だけ」で生きているのではなく、「人と人の上にも関係」があり「人の上の存在」を意識して「関係を維持すること」(『修養』中訳本40-41頁)で、世俗や名利を超えて、栄辱に揺さぶられず、侮辱や苦痛を受ければ受けるほどに勇気や信念と感激の情の発することができるとしている。(『修養』中訳本P.264、P.342)。

新渡戸稲造のこのような考え方は、述べるまでもなく信仰していたキリスト教によるところが大きい。しかし同時に彼は「人の上の存在」は、「神だけに限らず、仏教のブッダであっても阿弥陀仏、神道の神々」など宗教的な超越的存在であるとしている。(『修養』中訳本P.41)。

『修養』は近代化を追求してきた日本の思想の系譜にあって、荘厳かつ敬虔な求道精神である「己に克つ」ことを主張している。今日、私たちは個人主義を根本とする現代的な時代の中にいるだけに、『修養』を読み返すことには特別な意味があると考えている。

(2012年6月26日 記、原文中国語)

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