通り「魔」ではない 人間による「無差別殺人」

加藤 祐子【Profile】

[2012.06.27] 他の言語で読む : ENGLISH | ESPAÑOL |

大阪ミナミのど真ん中、心斎橋で痛ましい連続刺殺事件が起きた。私は昔、新聞の事件記者としてこのミナミ地区を毎日歩き回っていたので、現場となってしまった通りの様子はよく分かるし、表通りの人ごみから逃れて少しホッとしたようなあの裏道の感覚はまだ自分の中に残っている。それだけに、殺意をもってナイフを振り回す人間があの通りに出現したらどれほど恐ろしいか、書きながらもぞっとする。

今回の事件に限らないが、こうした連続殺人事件が起きると、多くのマスコミはそれを「通り魔事件」と呼ぶ。

私が事件記者だった時、「通り魔」という言葉は使わないようにと教わった。事件を「不要に扇情的に誇張するな」というのがその理由だった。私が所属していた新聞は今回もほとんど「通り魔」という表現を使っていない。「通り魔事件」ではなく、「大阪無差別殺人」「ミナミ無差別殺人」と呼んでいるし、容疑者は「通り魔」ではなく、「無差別殺人の容疑者」だ。

それでいいではないか。

私は「通り魔」という言葉が嫌いだ。それは犯人が人間だからだ。魔物ではない。人間が何かのきっかけで、刃物を振り回し、往来で無差別に人を刺し殺せる生き物に変わってしまうからこそ、恐ろしいのだ。

小説、演劇における人間の「魔」

人気作家・京極夏彦氏の受け売りをするなら、人は誰しも何かの拍子にこうして「魔が差して」「魔」と化してしまう危うさを秘めているが故に恐ろしいのだと、そういう理解もできるかもしれない。しかし、悲惨な事件の報道に最初からそうした文学性をからめることが必要とも、有益とも、私には思えない。

あるいは哲学者・井上円了が『妖怪学』などで提唱したように、妖怪伝承や怪談の一部は実際の出来事が抽象化して成立したものだという考え方もある。日本での例で私がパッと思いつくのは「鬼」や「土蜘蛛」だ。鬼や土蜘蛛は古典文学や演劇では排除・退治の対象だが、時の権力に逆らった者・敗者への蔑称(べっしょう)だったという説もある。政変に敗れて左遷された先で客死(かくし)したがために「祟り神」として恐れられた後、やがて「学問の神様」に祀り上げられた菅原道真も分かりやすい例だ。つまり、神話や怪談の裏には史実がセットになっていることがよくあるのだ。

日本以外でも怪談や神話や伝承というのは概してそういうものだろう。「事件→怪談」の概念を逆手に取ったホラー映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト(The Blair Witch Project)』も、パッと思いつく。そして更に、ジョセフ・キャンベルという神話学者はかつて、世界各地の神話が描く物語には普遍性があると提唱した。

異質なモノを「魔」として排除してよいのか

つまり、日常のただ中でいきなり起きる凶悪事件を、「通り魔事件」という「魔」の物語にたちまち落とし込む行為の裏には、何か普遍的な欲求が働いていないか。報道する側にも、ニュースを受ける側にも。そうやって「自分とは違う」と一線を引き、かつ「魔物のやることだから理解できない」と線を引きたい欲求が働いていないだろうか。

その線引きは差別の第一歩でもある。異質なモノは「魔」であり「災い」であるから自分たちの「善良なる人間社会」から排除すべきだと。そうした差別や排除に通じる表現を、小説や演劇が取り上げるのはいい。しかし客観的な事件報道で必要な表現だろうか。私はなかなか納得できない。私にとっての日常だったあのミナミの街で刃物を振るったのは、妖怪や魔物ではなく、1人の人間だった。だからこそ怖いのだから。(2012年6月16日 記)

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  • [2012.06.27]

gooニュース編集者・コラムニスト・翻訳者。上智大学国際関係法学科、オックスフォード大学国際関係論修士卒業。朝日新聞記者、国連本部職員、CNN日本語サイト編集者を経て、現職。「大手町から見る米大統領選」「ニュースな英語」等のコラムを執筆。訳書にバートン・ゲルマン著『策謀家チェイニー』。

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