40年後の日中関係のために

社会 文化

日中5回の戦争の歴史から

2012年は、日中国交正常化が実現してから40年目にあたる。人の一生で言えば「不惑」の歳で、自分の生き方に迷いのない年齢である。しかし、国家関係は一人の人間のように簡単には成長、発展しない。現在の日中関係は不惑どころか、惑い、ためらい、不満、反発が渦巻いている。しかし、そういう状況だからこそ、今我々は、40年後の日中関係のためにこれから何を留意し、何をなすべきかを考えねばならない。

日本と中国は、過去2000年近くにわたって政治的、経済的、文化的関係を結んできた。この関係は、世界の中できわめてユニークな関係である。我々は、この2000年の歴史から教訓を学ぶことが大切である。

過去2000年近くの間に、日本と中国は、5回戦争を行った。唐と日本の戦争(白村江または錦江の戦い)、元冠(蒙古の日本進攻)、明軍との戦い(秀吉の朝鮮進攻と明の介入による戦闘)、19世紀の日清戦争、1930年代以降の日中戦争の五回である。

これらの戦争の背景を分析してみると、現在の世代が教訓として学ぶべきことが、少なくとも2つあることに気付く。

発端は常に朝鮮半島の勢力争い

一つは、いずれの戦争も、始まりは、朝鮮半島における勢力争いから始まったことである。1930年代の日中戦争は、満州(東北地方)の権益の問題が導火線であるように見えるが、その背後には、日本の朝鮮半島支配の安定化(朝鮮独立運動の阻止と日本における革新勢力の台頭阻止)という歴史的流れがあった。

このことは、朝鮮問題についての日中間の対話が、現在及び将来において、いかに重要であるかを物語っている。

よって、日中間で(政府間ではなく、いわゆる第三トラックのような形で)朝鮮半島の未来の有るべき姿について、中国はどう考え、日本はどう考えているかの対話を深め、それを広げていかなければならない。

歴史の考察から出てくる第二の教訓は、国内政治との関係である。白村江の戦いは、日本における天皇権力の確立という内政上の動機と結び付いていた。元の日本侵略は、大量の宋の残党(軍隊)をどう処理するかという、元の内政上の動機と深く結び付いていた。秀吉の朝鮮半島進攻は、国内の大名統制と日本国内の統一の強化という目的と連動していた。

日清戦争も、清朝が内政上、あくまでも王朝の権威を守ろうとする守旧主義に流れていたことが大きく影響した。日中戦争は、満州支配や邦人保護についての日本の国民感情に日本の政治が流されて、軍国主義に走ったことと、中国内部の政治的対立と内戦が日中間の冷静な交渉を困難にしたことが、大きな要因であったことは疑えない。

民衆に迎合せず長期的な視野で

こうした過去の歴史に鑑みれば、日中両国は、お互いの関係を、内政に利用、悪用してはならない。よく民主的社会やネットの発達した社会では、民衆の不満や感情を抑えられないという人がいるが、これは、政治をポピュリズムまたは衆愚(しゅうぐ)政治化する考え方である。政治指導者は、民衆に迎合するのではなく、40年、80年先を考えて、民衆に対して有るべき国の姿を訴えなければならない。そのためにも、日中関係を2000年の歴史の流れのなかで考えねばなるまい。(2012年6月23日 記)

日清戦争