日露通好条約:“歴史の旅”に思う

原野 城治【Profile】

[2013.03.01] 他の言語で読む : ENGLISH | Русский |

冷え切っている日露関係だが、2月下旬に訪露した森嘉朗元首相とプーチン大統領との会談は、久しぶりに関係改善に期待を持たせる会談となった。

こうした中、日露友好フォーラム(会長・安倍晋三首相)の主催による、在日ロシア大使館員らとの伊豆の下田、戸田(へだ)への日露“歴史の旅”に参加した。

風光明媚な戸田から望む富士山。

 

ペリーの条約締結に発奮したプチャーチン


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下田と戸田は、幕末に日魯通好条約(1855年、現在は日露通好条約)を提携したロシア特使のエフィミー・ヴァーシリエヴィチ・プチャーチン(1803~83年)のゆかりの地だ。

ロシア帝国ニコライ1世の命を受けプチャーチンが長崎の出島に入港したのは1853年8月。しかし、徳川幕府との外交交渉は難航したため、いったん中断し、再び1854年8月に函館に入港した。

しかし、その5ヵ月前に、黒船で威圧したペリーが幕府と日米和親条約を締結していたことを知ったプチャーチンは、同年9月、旗艦「ディアナ号」を大阪湾内に進める行動に出た。これは「摂海侵入」といわれる事件で、天皇のいる京都まで50キロというところまで迫ったため、朝廷や幕府に大きな衝撃を与えた。

幕府は混乱と危険回避のため、プチャーチンに下田行きを指示。旗艦「ディアナ号」は1854年10月に下田港に入港、幕府側との交渉に臨んだ。

安政東海地震で、「ディアナ号」大破の試練

戸田港に飾られた「ディアナ号」の錨(いかり)。

しかし、プチャーチンを待っていたのは、入港1ヵ月後に発生した安政東海地震とそれによる大津波だった。「ディアナ号」は舵と船底を大破した。しかし、6メートル以上の津波の中で、ロシア兵は日本人数名を救出、看護した。このことが、ペリー米提督とは違って、幕府に好印象を与えた。

プチャーチンは、下田港での旗艦の修理をあきらめ、下田からは半島の反対側にある戸田での修理を決断する。しかし、旗艦は戸田への曳航(えいこう)中に浸水、乗組員500人は陸路で戸田へ向かわざるを得なくなり、しかも旗艦自体はその後破損して駿河湾内に沈没してしまう。

だが、プチャーチンはめげなかった。幕府に戸田での代船の建造を申し出る。

言葉の壁越え、洋式帆船「ヘダ号」を完成

洋式帆船「ヘダ号」の模型(戸田造船郷土資料博物館)。

日本の造船技術は今でこそ世界のトップクラスだが、当時、鎖国下であり外洋帆船を作る能力はなかった。しかも、ロシア語という言葉の壁が立ちはだかる。説明ではなかなからちが明かずに、乗船していたロシア人技師は実物大の設計図を作らせ、それに合わせ船大工が材木を切りだし、作り上げていったという。

作業開始から2ヵ半で、日本初の本格的な洋式帆船が完成する。全長24.6メートル、100トンに満たない旗艦の誕生だったが、当時のことを考えれば突貫工事で作り上げた技術力は驚異的なものだった。

まさに、日露協力のあかしであり、プチャーチンは船名を「ヘダ号」とする。

日露通好条約こそ、北方領土4島返還の原点

この間、プチャーチンは戸田の宿所である宝泉寺(静岡県沼津市)の高台から、海を眺めていただけではない。外交交渉を精力的に再開し、1855年2月に日露通好条約を締結することに成功した。

日露通好条約を締結した日露の人物像。

大事なことは、この条約によって、日露の国境線が確定したことだ。「北方領土返還」の原点がここにある。条約によって、択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間に境界を置き、択捉、国後、歯舞、色丹の「北方4島」は日本領とした。日本政府が北方4島の全面返還を要求する法的根拠がここにある。一方、得撫島以北の千島列島はロシアに属し、樺太(カラフト)については日露両国民の「雑居」を容認することになった。

ちなみに、プチャーチンはその後、1858年に神奈川に再入港し、日露修好通商条約を締結している。

記念品が残る宿所・宝泉寺

プチャーチンの宿所である戸田高台の宝泉寺には、執務に使われた、元来は仏具である机と椅子がいまも昔のまま保存されている。近くには約500人のロシア人水兵のための4棟の長屋が建設された。また滞在中、水兵2人が死亡、その墓もお寺の敷地内に作られ、時折訪れるロシア人観光客が祈りを捧げているという。

今回、一緒に旅した在日ロシア大使館のロシア連邦交流庁駐日代表部、ヴィノグラドフ・コンスタンチン部長も、あいさつの中で日露の歴史をしっかり守り続けていることに謝辞を述べるとともに、こうした息の長い日露協力の大切さを強調した。(残念ながら、旅行を一番楽しみにしていたアファナシェフ駐日ロシア大使はロシアからの賓客対応のため参加されなかった。)

条約締結を終えたプチャーチンは第二陣の「ヘダ号」で48人のロシア兵と帰国する。第一陣の水兵159人は、下田でチャーターした米国船で帰国の途についた。しかし、第三陣の約270人の乗組員はドイツ船で帰国中、クリミア戦争でロシアと戦っていた英国に拿捕(だほ)され捕虜となっている。運命とは分からないものだ。

プチャーチンが宿所とした宝泉寺(写真左)。プチャーチンが使用していた机と椅子が今も残されている(写真右)。

 

近現代の歴史を知らな過ぎる日本人

日露関係は日露戦争(1904~05年)で悪化したが、戸田の村民は日本の国情を理解し紳士的に交渉を進めたプチャーチンの遺品を大事に保存し続けた。条約締結の功績で1859年に伯爵、海軍大将・元帥に昇進。その後教育大臣になり政治家として活躍した。

1881年には、日露友好に貢献したとして勲一等旭日章を受章しているが、外国人としての同章受章はプチャーチンが最初だった。

戦後の1969年、ソ連は戸田の郷土資料博物館建設のため500万円を寄付している。そして、日本政府は“プチャーチン来航150周年”の年にあたる2005年11月に訪日したプーチン大統領(1期目)に、「ヘダ号」の模型を寄贈した。

北方領土問題は日本にとって譲れない問題だ。だが、今回の下田、戸田への旅を通じて思うことは、現在の日本が近現代史の大事な出来事をあまりにも知らな過ぎることであった。

そして、プーチン大統領が再度の来日をされるときには、是非、伊豆下田と戸田を訪れてほしいと感じた。

(2013年2月24日 記)

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  • [2013.03.01]

政治ジャーナリスト。1972年時事通信社入社。同社政治部記者、パリ特派員、解説委員、秘書部長、編集局次長、ジャパンエコー社代表取締役を経て、2011年から16年3月までニッポンドットコム代表理事。2006年より日本国際問題研究所評議員。2008年「イタリア連帯の星」カヴァリエーレ章受章。2009年TBS番組コメンテーター。

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