もてなしの中の和菓子

文化 旅と暮らし

最近、菓子類全般をまとめて「スイーツ」と呼ぶようだが、和菓子は「スイーツ」の仲間には入れてほしくないと私は以前から思っている。

この春、京都の老舗菓子店の皆さんと日本の菓子文化について座談会をさせていただく機会を得た。和菓子が季節の花鳥風月をモチーフにすることは言わずもがなだが、その繊細な技は見る度に瞠目(どうもく)する。四季折々の野山や水辺の自然をそのまま菓子に映したように、風や日の光までも感じる。日本の職人の仕事が繊細なのは、単に手先が器用だからではなく、日頃から自然を良く観察し、四季の移ろいと共に生活しているからだという。

インタビュアの「菓子とは何ですか?」という最初の問いにある菓子舗の主人が次のように答えた。「ただ単に甘いもの、おやつではありません。一連のもてなしの流れの中の一つなのです」。京都では来客の折には訪問時間に合わせて玄関前に水を打ち、玄関に香を焚く。来訪時に濡れ過ぎていても乾き過ぎていてもいけない。香はあまり早く焚き過ぎて香りがなくなっていても意味がないが、煙が立っていては客人に失礼だ。いずれもタイミングが大切だ。季節の花を生け、季節あるいは客人やその日の話のテーマに合わせた軸を掛けるのも大事なもてなしだ。

余白をたっぷり楽しむお菓子

客人が到着したらお茶を出し、いよいよ和菓子の出番だ。和菓子には四季折々のモチーフが使われ、風雅な菓銘(かめい)(※1)がつけられている。客人はまずその意匠の美しさを愛(め)で、次に銘を訊(たず)ね、しばし主人と会話を楽しむ。和菓子の銘には古典文学を背景とするものもしばしばあるので、どれだけ会話を弾ませることができるかは、もてなされる側の器量しだいということになる。そしてようやく口の中へと菓子を運ぶのだ。視覚で楽しみ、銘から想像して物語を紡(つむ)ぎ、いよいよ味覚の世界へと入っていく。和菓子は出された瞬間にパクリと頂くものではない。余白をたっぷりと抱えた大人の菓子なのだ。

立ち尽くしてしまった「裏桜」

おもてなしの最後は見送りだ。京都のお宅や飲食店を訪ねた時、帰り際に見えなくなるまで見送られた経験のある人は多いと思う。まさかと思いながら角を曲がる時振り向くと、京都の人はたいてい佇(たたず)んでいる。日本人のもてなしには、相手への気遣いや敬意、思いやり、自然や四季の移ろいを愛でる美意識、余白を察する文化などが凝縮されている。菓子がそういった一連のもてなしの流れの中の一つにあると思えば、「スイーツ」などと安っぽいくくりでは呼べなくなるだろう。

さて、20年程前の春、京都のある老舗菓子舗で美しい和菓子を見つけた。薄ピンクの桜の花びらをかたどった求肥(ぎゅうひ)で白餡を包んである。さて、読者の皆さんはどんな菓銘を想像されるだろうか?主人に銘を訊ねると「裏桜です」と言う。桜の花に日が当っている様子を裏から透かし見た姿なのだという。その姿、銘…日本文化の奥深さに、私はしばらく「裏桜」の前に立ち尽くしていた。

(2013年5月8日 記)

(※1) ^ 和菓子には、短歌や俳句・花鳥風月・歴史や名所に由来した「菓銘」がつけられる。

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