市民の“微粒子化”と彷徨(さまよ)う抗議活動

小倉 和夫【Profile】

[2013.07.24] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 |

激しい市民の抗議行動が、世界のあちこちで起こっている。それも、独裁的政治体制への革命的抗議行動でもなく、人々の感情を逆なでするような人権無視の事柄への抗議行動でもない。しかも、そうした抗議行動が自然発生的に始まり、一気に社会的に広がっていくスピードは目を見張るばかりだ。

「些細な」事柄が大騒動に発展

インドネシアでは、政府のガソリン値上げ決定に抗議し、労働者、学生らがデモを行った。(写真=AP/アフロ)

こうした抗議行動の中には、インドにおける集団女性暴行事件とそれに続くデモのように、市民の感情を刺激してしかるべき問題をめぐるものもないわけではない。また、エジプトの反政府デモのように、国家の安全保障そのものに影響しかねないものとして、市民のデモが軍事的に抑圧され、そのこと自体が連鎖的抗議行動に発展した例もある。

しかし、最近いくつかの新興国で起こった市民の激しい抗議行動は、国家の根底を動かすような案件を契機としておらず、また、一見して市民の感情を一気に爆発させるような事柄が発火点となっているわけでもない。たとえば、トルコ、インドネシア、ブラジルの例を見よう。トルコのイスタンブールにおける緑の公園の取り壊しへの反対から発生した市民の抗議行動や、インドネシアで、ガソリン価格の上昇を前に燃え上がった運動や、あるいはサンパウロのバス運賃の値上げ騒動が発火点となったブラジルの抗議デモなどを見ると、「些細な」事柄が全国的抗議行動へと発展している。これらの国に共通するのは、いずれもかなり順調な経済発展の道を歩み、しかも民主的選挙を経て登場した政権の統治下にあることだ。

市民が個々に政治と向かい合う状況に

民主的政治体制が一応定着した社会で、議会や言論を通じての政治論争ではなく、一見小さな事柄と思えることをきっかけとして、市民が街頭へ繰り出して、激しい、しかも流血騒ぎを引き起こすような形での抗議行動が展開されているのはなぜなのか。

しかも、近年経済成長がめざましく、新興国として国際的地位も向上している国々において、こうした現象が見られるのはなぜなのか。

その答えは、市民の微粒子化にある。

従来政治家と市民の間を結んでいた組織、たとえば政党や労働組合、各種利益団体などの仲介的組織が、経済発展と政治の民主化、そしてグローバリゼーションの影響によって勢力を弱め、市民はいわば微粒子化してしまい、市民が個々に政治と向かい合う状況になりつつある。

こうした状況下では、微粒子化した市民が、何かをきっかけとして、インターネットなどで合流し、一気に「彷徨(さまよ)う集団行動」に出ることになりがちである。なぜなら、経済発展と民主化の落とし子である「中産階級」は、宗教的価値観に安住しがちな貧しい大衆と、グローバル化から利益を得ている富裕層との間にはさまれて、自らの社会的アイデンティティーの不安定化に直面しているからである。

統治の正当性の証しが複雑に

こうした事態を別の角度から見ると、民主社会における統治の正当性の証しが、今やかなり複雑になってきているといえる。

第一に、選挙で正当に選ばれた政権は、そのことだけをもって統治の正当性の根拠とすることはできなくなっている。第二に、政策が効果を上げないならば、次の選挙で敗北するという意味で、政策の実効性が問われるという民主政治の尺度も、いささか色あせてきている。すなわち、選挙結果や政策の忠実な実行だけでは、政権の正統性の基礎として十分機能しない状況になっている。

微粒子化した市民は、微粒であるがゆえに「些細な」事柄に注意がいく。同時に、微粒子化した市民は、インターネットによって、輪郭のはっきしりない、一時的な彷徨う集団となる。しかし、彷徨う集団は再び微粒子化したり、違う構成メンバーの集団に乗っ取られたりする危険がある。

このような悪循環を政権が防ごうとするならば、少なくとも、経済発展の「夢」を常に掲げ、またその成果を、目に見える形で市民に提示できなければならない。それができないと、市民は貧しい大衆と一緒になって、宗教的価値観を政治に持ち込むか、軍事的あるいは政治的に「独裁的」な指導者にすがるか、あるいは国家主義的な思想に自らをゆだねて、反グローバリズムを唱導する勢力に合体しようとするであろう。

ここには、経済発展と民主主義政治の関係いかんという、古くて新しいテーマが、かつてとは別の次元で登場している。

グローバリゼーションへの反逆

よく観察すると、インドネシア、トルコ、ブラジル、いずれの国も、宗教的勢力が、社会、政治両面に強く根を下ろしている国である。ブラジル駐在の外国使節の団長(いわゆる外交団長)は、カトリックの本山、バチカンの大使と決められており、これは、ブラジルがカトリック教の国であることを自他ともに認めたことにほかならない。

インドネシアは、世界最大のイスラム教徒の国であり、また近代トルコは、建国以来、イスラムと政治との分離を主張する、世俗主義の国ではあるが、その具体的態様をめぐっては激しい政治的論争がある国である。

このように、民衆が日々の生活において宗教を大切にしている社会に、経済発展の波とグローバリゼーションの波が同時に押し寄せている。グローバリゼーションは、国境の内部の論理だけで個々の国家や政府の経済社会政策を遂行することを難しくしさせ、同時に、経済的社会的格差を拡大し、その過程で政治的「仲介団体」を破壊した。その反動として、一方では宗教的思想の復権を生み、他方では、グローバリゼーションの背後にある価値観への反逆を生んだ。

このように考えると、「市民の微粒子化」はグローバリゼーションの落とし子であり、「彷徨う集団行動」はグローバリゼーションへの反逆の一形態であるといえる。これに適切に対処するためには、グローバルな視野、すなわち、こうした市民の微粒子化と彷徨う集団行動を、個々の国々の次元でとらえず、全世界的視野で考察することが必要なのではあるまいか。

(2013年7月15日 記)

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  • [2013.07.24]

青山学院大学特別招聘教授。東京2020オリンピック・パラオリンピック招致委員会評議会事務総長。1938年生まれ。東京大学法学部、英国ケンブリッジ大学経済学部卒業。1962年外務省入省。文化交流部長、経済局長、外務審議官、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使などを歴任。2003年10月から 2011年9月まで独立行政法人国際交流基金理事長を務める。著書に『グローバリズムへの叛逆』(中央公論新社/2004年)など。

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