歌舞伎に見る日本人の美徳

文化

「人情噺文七元結」に見る日本人の基層

東日本大震災では、日本人の秩序ある行動や辛抱強さなどの美徳が評価された。雪の降る中被災者が整然と列を作り、わずかな救援物資を分け合う姿が、世界中の人々を感動させたのだ。なぜあのような悲惨な状況で、気高い行動がとれるのか。震災以降、私は日本人の美徳を育んだ基層が何かをずっと考えてきた。

歌舞伎に「人情噺文七元結(にんじょうばなし ぶんしち もっとい)」という演目がある。主人公の長兵衛は腕の良い左官屋だが、酒と博打(ばくち)好きが高じて借金まみれ。このままでは家が立ち行かないと、年の瀬のある日、娘のお久は吉原の廓(くるわ)屋に自らの身を売ってしまった。娘を取り戻そうと廓屋に乗り込んだ長兵衛に、女主人は、親思いのお久の健気さに免じて、大晦日までに金を返すことを条件に、お久に客は取らせず小間使(こまづかい)として預かると約束し、五十両の金を長兵衛に貸す。その帰り道、長兵衛が吾妻橋(あづまばし)にさしかかると、まさに今、川に身投げをしようとしている男に遇う。訳を聞けば、男は鼈甲問屋の奉公人(文七)で、主人に言われて出入り屋敷に売り上げを取りに行ったのだが、その金五十両をすられてしまい、途方に暮れて隅田川に飛び込もうとしていたところだという。「死んでお詫びを」という文七に、長兵衛は、お久が身を売る覚悟で工面した五十両を無理やり渡して去ってゆく。店に帰った文七が主人に五十両を差し出すと、金ならとっくに届いているという。すられたと思い込んでいた金は、屋敷に置き忘れていたのだった。翌日、主人は文七を連れて長兵衛の長屋を訪ねる。事の次第を説明し、五十両を長兵衛に返すと、長兵衛はこれも何かの縁だと文七を養子にするという。そこへ店の主人の計らいによって身請けをされたお久が帰ってくる。文七とお久は夫婦になり元結(※1)の店を開いて、めでたく話は終わる。

曖昧のままにして許し合う精神

長兵衛は一家の主(あるじ)としては頼りない男だが、家族は長兵衛を思い、決して見放さない。廓屋の女主人も、店の主人も文七も分をわきまえ、義理人情に厚く、人を思いやる余裕がある。その揺るぎないつながりに、東日本大震災で称(たた)えられた日本人の美徳を見る。どんなに辛い時も、自分のことは二の次にして人を思いやり、支え合い、何かを諦め、何かを捨て、最後は笑い合って終わる。あえて白黒をつけず、曖昧のままにして許し合う。そこに日本人の知恵と逞(たくま)しさがある。「人情噺文七元結」が成立するのは、登場人物の一人一人が自らの立場を悟り、その責任を全うしようと努めているからだ。他者を敬(うやま)い、日々懸命に生きていればこそのつながりと余裕なのだ、と私は思う。

日本の風土で育まれた“他者と補完”し合う精神

日本列島の自然環境は厳しい。古来人々は台風や地震、火山の噴火などを畏(おそ)れ、日々祈りつつ、大きな力に身をゆだねて生きてきた。同時に自然は豊かな恵みも与えてくれる。人は一人では生きられない。自然を含め他者、他の命と補完し合い、大きなつながりの中で生かされているという自覚が、その風土ゆえに育まれたのだろう。

日本最古の歌集『万葉集』(4世紀~8世紀)には、天皇から貴族や官僚、防人(さきもり)(※2)を含む庶民までの歌が収録されているが、朗笑(ろうしょう)性の横溢(おういつ)する歌が多い。日本人がいかに厳しい暮らしの中で艱難辛苦(かんなんしんく)をユーモアに変えて生き抜いてきたを思う。何かを諦め、許し、笑い飛ばすことで、苦しみや悲しみを浄化し昇華していったのだ。諦め、許し、笑いは成熟の証だ。そのような日本の風土に根差した美徳の伝統を、私は歌舞伎に見る。

他者を信じ、委ねる“許しの文化”

「言いおおせて何かある」とは、松尾芭蕉の言葉だ。言い尽くすのではなく、言いおおさないからこそ余白が生まれ、余裕が生まれる。「言いおおさない」とは、他者に委ねることであり、委ねるとは共有すること、信じることである。お久も長兵衛も廓屋の女主人も文七も店の主人も、自らの努めを全うしながら、他者を信じ、委ねている。委ねた後には、自ずと安寧(あんねい)が訪れる。許しの文化と言ってもよい。

歌舞伎には、現代社会に欠如している大事なものが詰まっている。同時にそれは世界が必要としているものでもあると思う。

(2013年9月17日 記)

(※1) ^ 日本髪などを結うときに使う紙紐。

(※2) ^ 古代日本の兵役軍人。

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