世界のファンを魅了した浅田真央のジャンプ
ソチ五輪レポート③

矢内 由美子【Profile】

[2014.02.24] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL | العربية | Русский |

圧巻のフリー演技、万雷の拍手とうれし涙

フィニッシュの瞬間、天を仰いで涙した。万雷(ばんらい)の拍手が降り注ぐ中、浅田真央はこくりと小さく頷いて自らスイッチを切り替えると、今度は晴れ晴れとした笑顔で両手を広げた。

ソチ五輪フィギュアスケート女子シングル。初日のショートプログラム(SP)で16位と大きく出遅れた浅田は、翌日のフリーで、これまでの自己最高スコアだった136.33点を上回る142.71をマークし、一気に10人を抜き、6位まで順位を上げた。

「SPではすごいプレッシャーを感じ、またオリンピックが怖くなってしまった。悔しいというより、言葉にならず、自分は何をやってきたのだろうと。でも、フリーでは今まで支えてくれた方々に最高の演技をして恩返しができた。うれし泣きと笑顔は同じ意味です」

圧巻のフリー演技だった。女子では史上初となる8つの3回転ジャンプを決めたのだ。その中の一つは「トリプルアクセル」。記憶にも記録にも残る名花・浅田のアイデンティティともいえるのが、トリプルアクセルだった。

少女時代から芽生えた“トリプルアクセル”への憧憬

1990年9月25日、愛知県名古屋市で生まれ、5歳のときに姉と一緒にフィギュアスケートを始めた。バレエ、体操、ダンスなども並行して行う、体を動かすことの大好きな少女。小学校のときはバスケットボールクラブにも所属しており、走るのが速くいつもリレーの選手に選ばれた。フィギュアをやっていなかったら?という質問に「陸上部に入っていたと思う」と話したこともある。

アスリートとしての素養に加え、抜群の愛らしさを兼ね備えていた浅田が最も強く抱いた夢は、フィギュアスケートで五輪に出ることだった。98年長野五輪で15歳8ヵ月のタラ・リピンスキー(米国)が金メダルに輝いた姿に憧れた。

14歳で出場した2004年の全日本フィギュアスケート選手権大会で、ジャンプを決めた浅田真央。(写真提供=アフロ)

喜々として練習に励んでいた少女の心の中に「トリプルアクセル」の存在が大きく広がっていったのは小学生の頃だ。

愛知県名古屋市は、日本の「フィギュアスケート王国」として知られる。今までに浅田を含め、実に8人の五輪選手を輩出している。名古屋市のリンクには、我が子の練習を熱心に見守る母親が大勢おり、浅田家もその例に違わなかった。

小学生になり、ジャンプで頭角を現し始めると、浅田は、かつて名古屋に空前のフィギュアブームが巻き起こるきっかけとなった選手、伊藤みどりさんを指導した山田満知子コーチに師事することになった。6種類あるジャンプの基礎はこの時期に磨かれ、小学生のうちにアクセルを含む全ての3回転をマスターした。

そこで特に力を入れていたのが、伊藤さんが女子選手として世界で初めて成功させたトリプルアクセルだった。6種類の中で唯一前向きに踏み切るアクセルは、最も難しいジャンプだ。これを跳べる女子選手は世界中を見渡しても数えるほどしかおらず、五輪で成功させたことのある選手は92年アルベールビル五輪の伊藤さんと、バンクーバー五輪の浅田だけだった。

基礎から作り直した荒療治の4年間

アスリートとは常に上を目指すものである。伊藤さんが五輪では生涯一度の成功だったのに対し、浅田はバンクーバー五輪SPで1回、フリーで2回、計3回の3回転アクセルを成功させている。これはギネスブックにも載っている。

しかし、バンクーバー五輪で銀メダルに終わっていた浅田は、「バンクーバーでは悔しい思いをした。その悔しさを晴らすため、ソチ五輪では自分の思う最高の演技をしたい」と、基礎から見直すという荒療治を自ら選択した。

滑りそのものの基礎からやり直そうと、スケーティングの指導ではナンバーワンとされる佐藤信夫コーチの元へ行った。ところが、全てを一から作り替えるのは容易ではなく、逆にジャンプに狂いが出るようになる。アクセルはことごとく失敗するようになってしまった。

一度崩れたジャンプを戻すのはこれまた容易ではなかった。徐々に踏み切りのタイミングなどを取り戻していったが、トリプルアクセルの成功率は上がらなかった。

「自分にしかできないジャンプ」で勝負したい

できないジャンプを無理に入れてミスをすることは、採点競技としては致命的なマイナスになる。しかし、浅田はトリプルアクセルを跳び続けた。何度も何度も尻を氷に打ち付けながら、手を突きながら、顔をゆがめ、それでも跳んだ。

「アクセルは自分にしかできないジャンプだから」

トップアスリートの本能と矜持(きょうじ)が浅田の胸の中にあった。こうして迎えたソチ五輪。試合前の会見で浅田はきっぱりと言った。

「小さい頃から、伊藤みどりさんにずっと憧れていた。オリンピックでは、伊藤みどりさんが跳んだトリプルアクセルを、自分も受け継いでいきたいと思ってきた。ソチ五輪でもしっかりとアクセルを決めたい」

地獄を見た21時間後に成功させた華麗なる奇跡

SPで転倒してからわずか21時間後に行われたフリーの演技。朝練習でしっかりと気持ちを入れ替えることに成功したという浅田は、ロシアのセルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」に合わせて演技した。伊藤さんがトリプルアクセルを成功させたアルベールビル五輪のフリーで使っていたのと同じ曲。冒頭のジャンプで伊藤さんと同じトリプルアクセルを継承した浅田は、その後も全てのジャンプを成功させた。ステップやスピンでも高い技術を発揮した。

浅田のソチでのフリープログラムの基礎点の結果は66.34。金メダルのソトニコワ(61.43)、銀メダルのキム・ヨナ(57.49)、銅メダルのコストナー(58.45)を大きく上回った。演技構成点(5コンポーネンツ)を合わせた点ではソトニコワとキムに及ばず3位だったが、それは点の出にくい第2グループで滑ったというハンデが響いたものだろう。最終グループで同じ演技をしていたなら、違った点が出ていたはずだ。

信念を曲げない。何度失敗しても諦めない。ときにその姿は頑固に映ることもある。しかし、トリプルアクセルへの強い思いがあったからこその浅田真央であったのも事実だ。

「バンクーバーのときの自分へのリベンジができた。自分の中での最高の演技ができた」

試合後の浅田は全てを出し切ったという、すっきりとした表情を浮かべていた。勝負師でありながら、やはり、愛らしい。それは彼女だけが持っている希有(けう)な魅力だった。

(2014年2月24日 記)

バナー写真提供=The New York Times/アフロ(ソチ五輪フィギュア女子フリーで演技を終え、天を見上げ涙を浮かべる浅田真央。2014年2月20日撮影)

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  • [2014.02.24]

スポーツライター。1966年6月23日、北海道生まれ。北海道大学卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、テニス、五輪、サッカーなどを担当。2006年に退社、以後フリーランス。著作は『Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代』(講談社/2009)、『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書/2011)など。

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