41歳の“レジェンド”がもたらしたジャンプ王国ニッポンの復活
ソチ五輪レポート④

矢内 由美子【Profile】

[2014.02.27] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL |

熱戦の続いたソチ五輪が閉幕した。日本は金1、銀4、銅3と計8つのメダルを獲得。国外開催の冬季五輪では過去最多のメダル数だった。中でもうれしいトピックスだったのは、ジャンプ陣の復活だ。長野以来16年ぶりのメダル獲得の裏にあった選手の思いとは————。

「カミカゼ」から「レジェンド」へ

個人ラージヒルで銀メダル、団体で銅メダルを獲得した葛西紀明は、日本選手団の最年長の41歳。92年アルベールビル五輪から実に7度の五輪を経験した大ベテランだ。

銀メダルを手にインタビューに応える葛西選手。

長野では金メダルを獲得した団体のメンバーから外れていたため、ソチでのメダル獲得は葛西自身にとって94年リレハンメル五輪以来20年ぶりだった。

「個人戦はもう少しで金に届きそうだったので、6対4で悔しさがあったが、団体戦は若い選手にメダルを獲らせてあげたい気持ちがあったのでうれしかった。本当に泣けた」

20年前、切れ味鋭い踏み切りとV字飛型の美しさから「カミカゼ」と呼ばれた男は今、「レジェンド」の異名を持つ。

ソチ五輪ジャンプ会場の取材エリアでは、日本のみならず欧州のテレビ各局に次々と呼び止められ、インタビューに応じた。夏冬を通じても、これほど世界各国から取材を受ける選手はいないのではないか。ノルディック競技がいかに欧州でメジャーであるかを物語る光景だった。

そう思えば、日本ジャンプ陣が16年間メダルから遠ざかっていたのは、ある意味不自然なことではない。

度重なるルール改正に泣いた不遇の16年

ジャンプが盛んな欧州の国々では、選手・科学・道具が一体となってさまざまな工夫をし、競技力を高めてきた。ところが、長野五輪で一度は栄華を極めた日本は、度重なるルール改正への対応に遅れを取っていた。しかし、不断の努力が実り、もう一度追いついた。裏を返せばそういうことなのである。

葛西は言う。「長野の頃と比べると今の世界のレベルは格段に違う。思えば、毎年変わるルールの中でやってきて、ルールに対応するのがすごく楽しい16年だった」

ソチ五輪ジャンプ会場の舞台裏。

日本ジャンプ陣は、今から42年前の72年札幌五輪で、金銀銅を独占している。笠谷幸生が金、金野昭次が銀、青地清二が銅という快挙は日本中を熱狂させ、「日の丸飛行隊」は日本に於ける冬季五輪のシンボルとなった。

その後は勝てない時期が続いたが、それでも80年レークプラシッド五輪で八木弘和が銀メダルを獲得して伝統をつなぎ、94年リレハンメル五輪団体で銀メダルを獲得して復活の狼煙を上げた。

すると、その4年後の長野五輪で原田雅彦ら団体が金メダル、個人でも船木和喜が金メダルに輝き、日の丸ジャンプ陣の活躍は多くの人々の心に刻まれることとなったのである。

今回の団体銅メダルメンバーの中で、伊東大貴と竹内択は少年の頃に長野五輪を生で見て、感銘を受けたという世代だ。

「日の丸飛行隊」の重圧

28歳の伊東は、葛西をはじめとする、大勢のジャンパーを輩出してきたことで知られる北海道下川町出身だ。長野五輪のときは小学校6年生歳。当時、ジャンプ少年団に所属していた伊東は、夏は野球、冬はジャンプという日々を送っていた。

「正直に言うと野球の方が好きだったので、長野五輪前は、春から中学校に入ったら野球部に入ろうとやる気満々だった。けれども、長野五輪を見てからジャンプ一本にした」

めきめきと頭角を現した伊東は、高校を卒業後すぐにワールドカップに出場するようになったものの、それは日本の低迷期とぴったり重なっていた。

 「先輩たちが活躍してジャンプをメジャーにしてくれていたのに、僕が出るようになってからは結果が出ず、どんどんマイナーなスポーツになってしまっていた。06年トリノ五輪と10年バンクーバー五輪に出たがメダルを取ることができず、いろいろな方を裏切ってしまっている気持ちがあった」

自分が引っ張らなければいけないと責任を感じていた10年近くの日々。ひざの負傷を押して出場したソチ五輪でようやく報われた。

「今回は今までのスキー生活の中で、最も一致団結し、一番良いチームだった。それがメダルにつながった」と、3度目の五輪で初めて笑顔を浮かべた。

難病を克服しての銅メダル

26歳の竹内は、今回が2度目の五輪だった。試合後、難病のチャーグ・ストラウス症候群に罹っている可能性の高いことを告白。一時はソチ五輪出場を諦めなければならないかもしれないという危機を乗り越えての銅メダル獲得だった。

長野県飯山市出身。彼もまた、長野五輪がジャンプを始めるきっかけだった。

「長野五輪を見たのは小学校4年生の冬。その時に衝撃を受けてジャンプを始めた。16年間、ずっとメダルを取りたいと思ってやってきて、こうやって取れて、本当に良かった」としみじみ言う。

高校時代は、マッチ・ニッカネンら多くの五輪金メダリストを生み出しているフィンランドにジャンプ留学をした。家具作りの職業学校に通いながら、3年間じっくりとジャンプ王国の技術を学んだ。

「言葉として合っているか分からないが、今回のメダルの半分はフィンランドに分けてもよいのではないかと思う」と感謝した。

幅広い年齢構成こそが日本の底力

21歳の清水礼留飛は、4人中ただ一人、五輪初出場だった。

「長野五輪の頃は4歳だったので、見に行ったようだがほとんど記憶にない。記憶にあるのはトリノ五輪くらいから」と言うが、そもそも清水の場合は、名前そのものがスキーと深く関わっている。

礼留飛とは、103年前、日本にスキーを伝えた当時のオーストリア・ハンガリー帝国の軍人、レルヒ少佐にちなんだ名前なのだ。新潟県妙高市でスキー一家として知られる清水家の思いが、今回の活躍につながったのである。

「素晴らしい先輩に、僕はただ追いつこうと必死だった。それが良かったのだと思う」

21歳から41歳までという、幅広い年齢構成で手にした銅メダルと、復権。それは、苦しい時期にも決して諦めることなく世界に挑み続けてきた日の丸ジャンパーたちだからこそなしえた業だった。

日本には雪がある。氷がある。冬という、過酷ではあるが美しい季節を持つ国、日本。ソチ五輪の感動は、スポーツの力と同時に、四季のある国ならではの醍醐味を再認識させてくれた。

(2014年2月25日 記/写真は著者による撮影)

バナー写真提供=アフロ(凱旋帰国したジャンプチーム。2014年2月20日撮影)

冬季オリンピック・スキージャンプ種目日本人選手メダリスト

笠谷幸生(かさや・ゆきお) 1972 札幌 ノーマルヒル
金野昭次(こんの・あきつぐ) 1972 札幌 ノーマルヒル
青地清二(あおち・せいじ) 1972 札幌 ノーマルヒル
八木弘和(やぎ・ひろかず) 1980 レークプラシッド ノーマルヒル
西方仁也(にしかた・じんや)
岡部孝信(おかべ・たかのぶ)
葛西紀明(かさい・のりあき)
原田雅彦(はらだ・まさひこ)
1994 リレハンメル ラージヒル団体
岡部孝信(おかべ・たかのぶ)
斎藤浩哉(さいとう・ひろや)
原田雅彦(はらだ・まさひこ)
船木和喜(ふなき・かずよし)
1998 長野 ラージヒル団体
船木和喜(ふなき・かずよし) 1998 長野 ラージヒル
原田雅彦(はらだ・まさひこ) 1998 長野 ラージヒル
船木和喜(ふなき・かずよし) 1998 長野 ノーマルヒル
葛西紀明(かさい・のりあき)
伊東大貴(いとう・だいき)
竹内択(たけうち・たく)
清水礼留飛(しみず・れるひ)
2014 ソチ ラージヒル団体
葛西紀明(かさい・のりあき) 2014 ソチ ラージヒル
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  • [2014.02.27]

スポーツライター。1966年6月23日、北海道生まれ。北海道大学卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、テニス、五輪、サッカーなどを担当。2006年に退社、以後フリーランス。著作は『Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代』(講談社/2009)、『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書/2011)など。

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