ザッケローニの攻撃的なサッカー

矢内 由美子【Profile】

[2014.06.09] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL | العربية |

大会直前、ザンビアに逆転勝利

ザンビア戦の後半、逆転ゴールを決める本田圭佑(ACミラン)。写真提供=時事

5大会連続5度目のワールドカップへ向かうサッカー日本代表が、米フロリダ州での事前合宿を終えた。大会前最後の親善試合となった2014年6月6日のザンビア(2012年アフリカネーションズカップ優勝国)戦で逆転勝利。昨年11月のベルギー戦以来続いている連勝を5に伸ばしてブラジルに入ることになった。

2010年秋から日本代表の指揮を執ってきたアルベルト・ザッケローニにとっては、初めてのワールドカップ舞台。イタリア人指揮官はこの4年間、どのようなアプローチで日本代表を束ねてきたのか。

満足なし、しかし確かな手応え

6日のザンビア戦は4-3というハイスコアゲームだった。日本は前半9分の失点を皮切りに、前半のうちに2点を失う苦しい展開。本田圭佑(ミラン)の2得点、香川真司(マンチェスター・ユナイテッド)の2試合連続ゴール、今回のサプライズ招集である大久保嘉人(川崎フロンターレ)の5年半ぶりのゴールと、役者たちの活躍で逆転勝ちを収めはしたものの、手放しで喜べる内容ではなかった。

なぜか。それは相手に先制点を与えてしまったから。そして失点が多かったからだ。

しかし、ザッケローニは満足感こそ示さなかったが、決して悲観的な表情を見せることはなかった。「守備は当然このままでは良くない。本番までに修正する必要がある」と言いながら、こう続けた。

「我々のチームは今日、自分たちのロジックに従ったプレーをすることができなかった。だから逆転勝ちしても満足してはいない。けれども、試合には試合ごとのストーリーがある。今日のストーリーは今日で完結する」

ザックは“カテナチオ”(守備文化)を捨てたのか?

米国へと出発前に花束を受け取るザッケローニ監督。(写真提供=時事)

指揮官の言う「ロジック=論理」とは、サッカーでよく使われる「ディシプリン=規律」の意味に近い、チーム戦術の方向性だ。ただし、ザッケローニが選手に授けているのはあくまで方向性。ディシプリンと言わずにロジックという言葉を選んでいることからも分かるように、ザッケローニのチーム作りは、決まり事でがんじがらめのサッカーを押しつけるのではなく、選手の創造性を尊重するスタイルなのだ。

ザックジャパンは連動した守備で相手を囲い込みながらしてボールを奪い、しっかりとボールを保持しながら、コンビネーションプレーでゴールに向かっていくというスタイルを持っている。一方で、攻撃的な戦い方を選んだことで、守備時にリスクが起きやすいのも事実。ある程度の失点は覚悟しなくてはいけないという戦い方でもあるのだ。

ここで疑問に思うのはザッケローニが“カテナチオ”と呼ばれる守備文化の確立されたイタリアの人であるにもかかわらず、なぜ失点のリスクをこれほど容認しているかということである。

夢を断たれたザッケローニがつかんだ栄光

ザッケローニは1953年4月1日、アドリア海に近いイタリア北部ロマーニャ地方で生まれ、サッカーに親しみながら育った。ところが、16歳のときにかかった肺の病気がきっかけでサッカー選手になる夢を断たれ、指導者の道を歩むことになる。29歳だった82年に初めてセリエDのチームの監督を任されると、その後いくつかのチームを指導。チームが変わるたびに、リーグのカテゴリーはセリエC、Bと上がっていった。

初めてセリエAの監督になったのは95年のウディネーゼ。ザッケローニは堅固なゾーンディフェンスをベースに、ドイツ人FWビアホフらの能力を最大限に引き出す戦術で快進撃を続け、セリエAの最優秀監督に送られるゴールデンベンチ賞を受賞する。上昇階段をさらに駆け上がったのは98年。名門ミランの監督へと上り詰め、そのシーズンにミランは優勝。ザッケローニは46歳にしてキャリアの頂点に立ち、以後もセリエAのクラブを渡り歩くのである。

こだわったのは選手との“対話”

ブラジルに到着し、意気込みを話すザッケローニ。(写真提供=時事)

サッカー強国イタリアで25年間も指導を続け、成功を収めた監督とあれば、新しく赴いた国でも同じやり方を持ち込もうとするのが当然と言えるだろう。

しかし、ザッケローニはそうはしなかった。初めて日本に来た2010年秋。日本代表監督の就任会見で彼は言った。「この仕事は私にとって新たなチャレンジだ」。そしてこう続けた。

「日本代表監督になったからには、完全に日本人の気持ちにならないといけないと思っている」

もっとも、文化レベルとも言える高い守備意識を持っている人間が、それを手放すのは口で言うほど容易くはない。ザッケローニにとってこの4年間は、日本選手の意識や志向とのギャップをことある毎に感じる日々だったのだ。

けれどもザッケローニは、自分の考えを上意下達で叩き込もうとはしなかった。すべての選手に対して常に自ら歩み寄ってはマンツーマンでコミュニケーションを取り、対話という労力を割きながらチーム作りを行っていったのだ。

“日本人”の気持ちで選んだ攻撃的なサッカー

強い自我の持ち主である本田が言う。

「監督とはこの4年間、妥協のないすり合わせを行ってきた。それは、例えばパスをつなぐこと。監督はもともと日本選手の感覚を最初は理解していなかった。でも、僕はつないで攻撃的にやりたい。だから過去3年くらいの間で、監督には何度もそれを言ってきた。今は互いに歩み寄り、やり方をフィックスしている」

サッカーの世界では監督の教えは絶対だ。けれどもザッケローニはトップダウンに固執せず、選手の考えに耳を傾けた。

5月12日に発表されたワールドカップメンバーは、攻撃的なサッカーを貫こうという意志の見える構成だった。ザッケローニは「最も頭を悩ませたのはボランチ(守備的ミッドフィールダー)。このポジションの選手を4人にするか5人にするかで迷ったが、4人にした」と明かした。そして、5人から削った1枠を、FWを増やすことに使った。それが大久保のサプライズ招集という形になった。

FW登録は総勢8人。「日本人の特徴を考え、攻め勝つというメッセージを発信したかった」という説明は力強かった。もちろん守備の重要性から目をそらすのではない。ただ、就任当初に「日本人にならなければ」と語った通りのことを実行してきたのは間違いない。

ブラジルワールドカップは、日本を理解しようという努力を続けてきたイタリア人指揮官の集大成でもあるのだ。

(2014年6月8日 記)

  • [2014.06.09]

スポーツライター。1966年6月23日、北海道生まれ。北海道大学卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、テニス、五輪、サッカーなどを担当。2006年に退社、以後フリーランス。著作は『Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代』(講談社/2009)、『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書/2011)など。

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