保守派の中国も改革派の中国もない、あるのは一つ、解放軍の中国

田中 直毅【Profile】

[2014.06.19] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS |

今年、中国の6・4動乱(天安門事件)から25周年を迎えた。この25年間に現代中国の可能性についての「命題」が数多く消滅し、中国自体が大きく変質してしまった。それが何であるかについてここで改めて確認しておきたい。

消失した命題は、たとえば「経済発展につれて政治の現代化も実現する」である。あえてもう一つ命題を付加したい。「結社の自由の公認は中国経済の発展にとって論理的必然性を有する」である。中国経済の発展のためには付加価値生産性の増大が必要である。経済成長を労働投入と資本投入の2つだけに帰着させてはならない。成長寄与要因としての付加価値生産性を拡大させるためには、研究開発や人的資本の高度化が必要なことは論をまたない。しかしそのためには、結社の自由は不可欠である。ところが6・4動乱以降、政治の現代化は基本的に否定され、その結果、結社の自由に至っては、その可能性がようとして展望できない。間違いなく、6・4動乱が潰したものは中国にとって極めて根幹的なものであった。

天皇訪中時にはすでに中国の変質は始まっていた

しかし国際社会ではもっぱら政治的自由の実現に注目が集まっている。だが中国について何より注目しなければならないのは、6・4動乱の結果、中国共産党自体が政治的な拘束を受けるに至ったことである。

鄧小平は6・4動乱に立ち向かうに当たって、「やらなければ、やられる」との認識を持っていた、といわれる。その結果、軍事的手法で問題を始末した。中国人民解放軍の兵士が人民に銃口を向けることはないと考えられていたし、当の兵士たちも考えてはいなかったであろう。そうした当時の兵士の証言も今日となればいくつかは散見される。しかし、実際には党の軍隊である人民解放軍の兵士たちは人民に銃口を向けたのだ。人民による革命の主導者としての体裁を中国共産党は失ったといえよう。

支配の根底が揺らいだことから、「共産党主導による抗日戦争勝利」という誰しも否定することができない赫々たる歴史的事実に戻るしか、支配の正統性は維持できないと考える共産党の指導者たちがいたことは間違いない。この時から反日教育が開始される機運が生まれたといえる。

1992年に平成天皇の中国訪問が行われた。6・4動乱からわずか3年しか経過していない段階での天皇訪中については、日本の内部でも賛否を巡って諸説があった。「なぜ首相は天皇訪中という意思決定を行ったのか」と当時の内閣総理大臣であった宮澤喜一氏に私的な会合でたずねたことがある。彼は次のように私に述べた。「中国の専門家にありとあらゆる状況を想定して質問を繰り返したが、5年後10年後、時間を経るにつれ今日よりも日中関係は悪化する、という考え方が基本的であった。天皇に中国を訪問していただくとすれば今の時点しかない。天皇の訪中なくして、日中関係に一つの区切りを入れることはできない。ギリギリの選択として国交回復から20年目の節目にあたる1992年の天皇訪中という意思決定を行った」。

1992年の天皇訪中は6・4動乱によって追い込まれた中国に対する、一種の救済策だったという類の表現がなされることもあるが、私が知る限り、状況はそれほど簡単なものではなかった。すでに日中関係は、日中国交回復以来の友好関係から、今日見られるような緊張関係へと大きく変質を始めていた。そうした状況の中で、日本側で仕切れる範囲のことについては仕切っておくべきだ、という意思のもとに天皇訪中が実現したというのが実際のところだろう。

アメリカは勘違いを続けた

6・4動乱によって、党は市井の言葉でいえば軍に明確な「借り」を作ったことになる。元々、中国人民解放軍は共産党の軍隊である。私兵であるとすれば軍が党の意思に反することはないはずだが、6・4動乱以降、この党と軍との関係に明瞭な変化が起きたといえるだろう。しかし、このことについての認識がすぐに世界に広くいきわたっていたとは言えない。その典型例がアメリカの対中認識である。

21世紀を前に中国のWTO(世界貿易機関)加盟問題が浮上したときのことである。そのとき中国側でその任に当たったのは朱鎔基首相であった。アメリカ側では、ロバート・ルービン財務長官が議会工作を行っていた。結局、ルービンはこの課題をこなすことができなかった。政権与党の米民主党の背後にある労働組合はいざというときのエスケープ・クローズの適用にこだわったからである。中国をWTOの枠組みに入れるにあたって緊急輸入制限措置の導入が不可避であると主張し、議会がこの意見を基本的に呑む構図になっていた。民主党の大統領であったクリントンもこれを制御することはできなかった。結局、この件で訪米した朱鎔基首相に実質的なゼロ回答という仕儀に至ったのだ。

ルービンが財務長官を辞した直後に私が面談すると、彼はこの中国問題が気懸かりでしょうがないようだった。彼の理解では中国共産党内には保守派と改革派が存在し、アメリカは改革派と手を握らなければならなかった。にもかかわらず、お土産ももたせずに朱鎔基を帰したことが、彼が代表する改革派を追い込むことにならなかったのかどうか、これについての見解を聞かせてほしいというのだ。

つまり6・4動乱から10年を経た1990年代の終わりの時点においても、アメリカの代表的な見解は、中国共産党の内部に2つの考え方があるのだから、その中の改革派と手を結び、反対の勢力をマージナライズすることが望ましいという図式であったのだ。しかし、すでにこのとき中国共産党と人民解放軍の関係は根底的なところで変容しつつあった。このことは胡錦濤政権になって明らかになる。

新たな党軍関係が平和的台頭を潰した

2004年の胡錦濤政権は登場とともに中国の内外で新しい国際関係を模索した。そのとき胡錦濤政権のイデオローグが唱えたのは「平和的台頭(和平崛起)」であった。これには次のような経緯がある。胡錦濤政権の登場時において、ワシントンD.C.ではこの政権を改革派政権にしたい、とする気持ちがきわめて強かった。要するに対外協調を行う中国政権の登場を待望していたのである。

胡錦濤政権の支援者と目されたあるイデオローグに対しアメリカはワシントンD.C.への招待状を送った。もちろんこうした招待は表向きは政府ではなく民間の財団が行ったのだが、このイデオローグはワシントンD.C.において次々と重要人物に引き合わされることになる。彼は北京に帰る途中に東京に寄り、ごく私的な会合において喜色を浮かべながら、「今回の訪米は成功だった。米国側はいわば寄ってたかって『これまで世界の歴史において、影響力が限定的だった国が力をつけ大きくなる時に国際情勢は不安定化する。第二次世界大戦はドイツと日本にしかるべき地位を与えなかったことが、その遠因となった。我々はそうした愚を繰り返したくない。台頭する中国にしかるべき国際社会での地位を与えることは、国際秩序を構築する上で当然の試みである。したがって中国もまたこの国際協調路線というものを本気で構築してもらわねばならない』とアメリカ側は自分に主張した」と私に話した。

北京に帰ったこの共産党を支えるイデオローグは、「平和的台頭」を主張するようになる。もちろん胡錦濤政権の指導部と合意の上でのことであったことは間違いない。

「平和的台頭」とは、中国が経済力を身に着け、より高い国際的な地位を得ることになるだろうが、それは平和裏に行われ軍事的な抗争の原因となることはない、という図式の提示であった。しかし、この「平和的台頭」の主張は、ほどなく胡錦濤政権から消えた。理由は中国人民解放軍だったといわねばならない。

軍が提起したのは台湾独立についてである。もし、中国共産党政権があくまでも「平和的台頭」といったときに、台湾独立という事態になったとしても軍は動きようもなくなる。この問題をどう考えているのかという軍からの党に対する詰問が行われた、と考えられる。私は、そうした内部証言に接したこともある。結果、胡錦濤政権は平和的台頭を退けるに至る。それ以降、胡錦濤政権からこの言葉はなくなるとともに、この政権による改革の主導という図式は次第に消えていく。

サイバーセキュリティ問題で決定的に変わったアメリカの対中観

習近平政権になるとアメリカと中国は「G2」、つまり世界の秩序について主要な責任領域を分有する2つの国であると提起される場面が増えた。ただ、2011年に日本をGDPで抜いたがゆえに、世界第2位の経済大国になった中国がアメリカとG2関係に入ったとの命題が成立するとしてかまわないのか。

米中間の信頼問題が具体的に発生したことから将来を展望するときにアメリカ政府は、主に軍事の視点から2つの問題を取り上げるようになる。一つはサイバーセキュリティの問題である。2013年のMandiant社のサイバーセキュリティのレポートによると、中国人民解放軍の軍籍にあるハッカーたちは、米企業のデータからステルス爆撃機の図面を抜き取っただけではなく、民間企業の意思決定過程のデータまでも抜き取っていたという。人民解放軍が中国系企業に極めて重要な経営資料を渡していたということは、背後に資金の授受があることが当然考えられる。つまり人民解放軍が窃盗という副業を行っていたことになる。

この問題は米国における中国観に決定的な影響を与えた。経済界は中国のマーケットを無視することはできないという当たり前の感覚を持っているのだが、しかし、そこでは重要な経済上のルールは守られてしかるべきであり、ルールが守られない対象に対して購買力があるからと言って屈していいのか、という見方が広まったのである。そして単に軍事関係者だけではなく、アメリカのすべての部門において中国の体質に対して、根底的な疑問が寄せられることになったのである。そしてこのことは現在もなお深刻化の途上にあるといえる。

中国は近隣諸国の信頼を求めてはいない

もう一つは中国の近隣諸国との関係である。防空識別圏の設定の経緯等を見ると中国共産党政府と中国人民解放軍の関係において、どのような了解が成り立っているのか、多くの疑問が提示されている。つまり外交関係における近隣諸国との信頼関係を作る意思があるのかないのか、そしてそれは共産党政府の意思決定なのか、軍の意思決定なのか。

ここまでくると、かつての抗日戦争勝利の時の党と軍との関係とは全く異なる関係がすでに生まれているという見方を否定することは難しくなっているといえよう。

以上みたように6・4動乱をきっかけに、中国社会、中国の支配システムの内部における根底的変容が生じた。それから4半世紀を経た今日において、我々はもう一度冷静に中国の動きを見据える必要がある。

カバー写真は、2012年9月、空母「遼寧」就役式で視察する胡錦濤国家主席(当時)。(写真提供=Photo shot/時事)

  • [2014.06.19]

国際公共政策研究センター理事長。経済評論家。1945年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。国民経済研究協会主任研究員、21世紀政策研究所理事長を歴任。主な著書に『金融クライシス 新グローバル経済と日本の選択』(新潮社、2012年)、『埋没する国家』(講談社、2008年)など多数。

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