1964 TOKYOから50年、あのときとこれから

吹浦 忠正【Profile】

[2014.10.02] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية | Русский |

敗戦から19年目、その日は嘘のような秋晴れだった

1964年10月10日、東京で第18回オリンピック東京大会開会式が行われた。「オリンピック憲章」によると開会宣言は開催国の国家元首が行うことになっており、この大会ではブランデージIOC会長の要請により、昭和天皇が恭しく宣言した。陛下の入退場にあたっては当時の日本を代表する作曲家である黛敏郎の電子音楽が奏でられ、新旧の組み合わせに、時代の斬新さが現れていた。

この日実況中継をしたアナウンサーは「世界中の青空を集めたような快晴」であると見事な表現で描写した。前夜の激しい雨が嘘だったかのようなこの秋晴れが、その後15日間の、オリンピック史上、特筆されるような大会の成功を導いた大きな要素になったということをわれわれ関係者はその後、末永く語り合ったものだ。

米軍による空爆や艦砲射撃で全国のほとんどの主要都市が廃墟となってからわずか9年で日本は1960年のオリンピック招致に立候補し(この時は落選)、次の1964年大会を射止め、敗戦から19年目にして94もの国と地域の参加者を得、実際にオリンピック大会を開催した。時のIOC会長ブランデージ氏をして、「見事に最高級のオリンピック大会を開催した」とまで言わしめたのであった。

東京五輪の施設を視察に訪れたアベリー・ブランテージIOC会長(左から3番目)。写真提供=時事

あれから約半世紀を経た2013年9月、日本は2020年の東京オリンピック招致決定に沸いた。しかし、招致決定から1年を経た今日、遺憾ながら、あの興奮はどこに行ったかというほど、6年後のオリンピックに対する一般の関心は薄く、準備はようやく緒についたという程度に過ぎない。その大きな原因は、組織委員会が今もってこのオリンピックの明確なコンセプトや発信すべき哲学をまとめ切れていないからであり、夢もアイデアも十分結集されていないからであると私は見る。

50年前には日本の「戦後の復興」や「科学技術先進国」であることを世界に示すというコンセプトがあったが、私自身は次期東京オリンピックの機会を「平和」「調和」「協力」を前面に出し、この機会を「世界に発信する日本」になればと期待している。

これまで3回招致に成功した東京

東京が最初にオリンピック招致に成功したのは1936年、ベルリン・オリンピック開催時に行われたIOC総会で、4年後、1940年に第12回オリンピック競技会の開催について票決したときであり、38年のカイロでの総会ではこれに加えて、同年に札幌で冬季オリンピック競技大会を開催することも決せられた。夏冬ともアジアで初めて、有色人種の国では初めての開催となるはずだった。

しかし、日本は既に大陸での戦争に深入りし、鉄鋼をはじめ主要な軍需物資が不足しがちという中で、まず軍が「馬術競技に騎兵将校を派遣できない」と言い始めた。当時、馬術競技は各国の騎兵将校間の競技であり、女子も単なる馬乗りが好きな者も排除されていた。したがって、これは馬術競技を日本では開催できないということに他ならない。最終的には38年秋、所管の厚生省から開催都市である東京市に返上すべきとの通達が出され、東京・札幌の両大会は招致で苦労を重ねたスポーツ関係者が涙を飲む中で返上された。

代替開催地とされたヘルシンキ大会も「冬戦争」(第一次ソ連・フィンランド戦争)のため、流会となり、44年に予定されていたロンドン大会も第2次世界大戦のさなかであり、開催できなかった。

オリンピアからの聖火リレーも夢見たが

話は前後するが、1940年大会の準備状況を顧みると、われわれの先輩はそれなりに夢を描いていたことが判る。

ベルリン・オリンピック大会では五輪史上初めて、聖火(Olympic flame)リレーが行われた。これはカール・ディエム同大会組織委事務総長の発想でギリシャのオリンピアから運ぶ7カ国を経て各国のランナーによって聖火が引き継がれ、ベルリンまで搬送されたものだ。当時の日本では、これと同様にオリンピアからユーラシア大陸を横断しての陸送を発想し、それなりに検討していたのである。しかし、当時は通信、道路、車両など諸事情が今とは比較にならぬほど未発達であり劣悪だったし、ソ連にはNOCもなく、中国とは戦火を交えている状況であって、これはあまりに現実離れした夢物語に過ぎなかった。

もちろん、この夢は1938年の「オリンピック返上」ですべて消えてしまった。

ベルリン大会から12年を経て戦後、1948年、サンモリッツ(スイス)での冬季大会とロンドンでの大会でオリンピックは復活した。しかし、日独両国はこの2大会には参加を認められなかった。スポーツに国境もあり、政治もあるという典型的な先例である。両国の復帰は52年2月のオスロ冬季大会と同年夏のヘルシンキ大会からであり、ベルリン・オリンピック以来実に16年ぶりにオリンピックに参加できたのであった。

「復興」を世界に示した1964東京五輪

1964年の東京オリンピックを進めた中心人物は田畑政治(たばた・まさじ)。日本水連の会長であり、日本のスポーツ界にこの人ありと言われた優れたリーダーである。48年のロンドン大会に招かれないと知ると、同じ日に東京の神宮プール、水泳の日本選手権大会を開催し、古橋・橋爪らにロンドン五輪の優勝タイムを大きく上回る高成績を挙げさせるなど、努力と工夫と忍耐の人だった。

東京大会には94の国と地域の代表が参集した。オリンピック競技の盛んな欧米から見れば、極東という、文字通りの遠隔地に位置する日本での開催だったが、この大会を着実に成功させたことで日本は、戦後19年目にして、戦禍からの復興を世界に示すことができた。開会式の見事な進行、各競技の滞りない実施、選手村の管理と運営のすばらしさ、社会機能の効率と安全は各国からの選手・役員、報道人を驚嘆せしめた。また、それまでに日本が保有していた目立ったインフラはせいぜい東京タワーという333mという、当時、世界一の高さのテレビ塔くらいのものであったが、各国の支援を受けつつ、世界初の高速鉄道である東海道新幹線、首都高速道路、世界の建築史に名を残すような屋内外の競技場を建設・整備し、さらに人工衛星により世界で初めて、オリンピックの同時テレビ中継に成功した。これは電子化された計測と記録などとともに、「日本の技術力」を証明するものであった。そして日本はこのオリンピックを機会に、右肩上がりの高度成長を加速させた。

1964五輪の慙愧(ざんき)、中国の不参加と初の核実験

中華民国(台湾)と中華人民共和国(中国)のオリンピック参加は常に大きな課題となってきた。ヘルシンキ大会(1952)直前のIOC総会で双方の参加が認められたが、台湾がこれを不満としてボイコットしたのが始まり。東京大会では開会式の入場行進にあたり、「TAIWAN 中華民国」という今になってみれば摩訶不思議のような表記のプラカードで台湾のみが参加した。このため中国が不参加、北ベトナムも不参加だった。

1964年1月、五輪開催に先立ち、スカルノ・インドネシア大統領が池田勇人首相と会談(東京都)。写真提供=時事

加えて、1962年開催の第4回アジア競技大会にインドネシアのスカルノ大統領が台湾とイスラエルを招かないことから始まったIOCとの混乱で、日本は東京オリンピック組織委の会長と事務総長の首を差し出し、2年後の東京大会取り消しを防がなければならなかった。また、GANEFO(新興国競技大会)参加選手への資格停止処分をめぐり、インドネシアは東京まで選手団を送り込みながら、IOCが東京大会への参加を認めず、帰国させられた。北朝鮮選手団も万景峰号で来日していたが、女子800mの記録保持者で、金メダル確実と言われた辛金丹選手と、先に脱北していた父親とのわずか15分間の対面という悲話を残して、同様の結末となった。

多端な国内外情勢、閉会式直後、池田首相病気辞任

冷戦真っ最中の時代でもあり、東京大会の開催期間は内外情勢が誠に多端だった。開会式から7日目、中国は初の核実験を行った。これは古代オリンピック以来、平和を掲げるオリンピック精神を無視するものであり、「アジア初」のオリンピックを誹謗するものであった。各国からの選手・役員、報道人が選手村やプレスセンターで驚きと落胆の声を挙げていたのが忘れられない。

ソ連は大選手団を派遣したが、同時に日本周辺空域に何度か戦闘機を周回させ、航空自衛隊はその都度スクランブルで対応した。そうこうしているうちにフルシチョフ第一書記が更迭された。

「ベルリンの壁」の設置直後ではあったが、東西ドイツは統一チームで参加した。組織委では両国に共通な黒赤金の横三色旗をベースとし中央に白で五輪を抜いたものを用意した。当時、東ドイツの国旗はその中央にディバィダー、ハンマー、小麦から成る国章、西ドイツはワイマール時代と同じその横三色旗のままという国旗であった。

国立がんセンターに入院する池田勇人首相(中央)。写真提供=時事

日本でも池田勇人首相が、オリンピックの閉会式の翌日、病気のため辞任した。後任の佐藤栄作首相は日韓国交復興、小笠原・沖縄の復帰を果たし、1972年にノーベル平和賞を授与された。このことは、率直に言って日本人には意外感があった。しかし、これは戦後一貫して非核平和国家としての日本の安定な社会を日本人全体が推進してきたことに与えられた賞と納得し、その中には見事な東京オリンピックでの発信も大きな業績であると私は勝手に合点したのだった。

1941年生まれの私は物心ついて以来、同一世代で、日本が最大被援助国と最大援助国となるという両方を経験した。国際社会においてこれは稀有なことであり、その経験をスポーツや文化のみならず、世界の安定と発展のために活かして行かねばならない責務が日本にはあると信じる。

2020年までに残された時間は決して十分なものではないが、その成否は国際情勢の安定が第一である。しかし、現実の世界はウクライナ、シリア、イラクなど各地で戦火が絶えない。オリンピックが単なる「大きな運動会」ではなく、世界の平和と安定に大きく寄与するきっかけとなるものであってほしいと祈念する。

 

タイトル写真=東京オリンピックに向け、建設が進む東京(1964年1月撮影、写真提供=時事)

  • [2014.10.02]

ユーラシア21研究所理事長。1941年秋田市生まれ。早大大学院政治学研究科修了。オリンピック東京大会組織委員会専門職員、埼玉県立大教授、国際赤十字バングラデシュおよびインドシナ各駐在代表、難民を助ける会・副会長などを経てユーラシア21研究所理事長。北方領土返還運動に長年取り組み、北方四島交流推進全国会議・副会長を務める。著書に『国旗で読む世界地図』(光文社新書)、『赤十字とアンリ・デュナン』(中公新書)、『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)など。

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