水田の傍で過ごした夏に思ったこと―露日関係の“あした”

文化

“善なること”に心向く

今年の夏休みは、日本海側の秋田で過ごした。神経を使う日々の仕事から解放され、執筆も一切せず、読書もせず、ひたすら考え事をしていた。

水平線の上の遥か彼方の丘に向かって、既に少し黄色がかってきている、果てしなく広がる水田を黙々とサイクリングするのが夏の日課だった。自転車をこいでいると、いつもよりも考えがまとまるような感触がした。

水田や緑の丘を眺めていて、ふと気がつくと、平和や調和、友好、相互理解といった“善なること”に自然と心が向いていることが多い。そして、トカゲやバッタを自転車でうっかり轢(ひ)いてしまわないようにといったことにも注意を払うようになっていた。

日本の水田風景

夏の日本の農村での生活は、心を穏やかに、優しくしてくれるようだ。それが休暇となればなおさらである。自分の頭の中に浮かんでくる考えに顔をほころばせながら、自転車をこぎ、道行く人たちに声を掛ける。彼らも私と同じように明るく挨拶(あいさつ)を返してくれる。まるで昔からの友達のようだ。村では、皆が知り合いなのだ。

露日関係は決して悪いわけではない

仕事から解放されてはいたが、私は毎日、インターネットでニュースだけはチェックしていた。目にするニュースは決して私を喜ばせてくれるものではなかった。武力紛争、​​爆撃、制裁に報復、非難、抗議。ありとあらゆる方面からのプロパガンダで双方向の憎悪が連鎖する。

水田と緑の丘と心優しい田舎の人たちの平穏な姿とは真逆だった。

では、今日の露日関係はどうかというと、このような悲しい国際情勢の中にあって喜ばしいものといえるのではないだろうか。ウクライナ危機の勃発直後から、「チキンキエフ(キエフ風カツレツ)」が安倍晋三首相とその閣僚たちや外交官たちの好みには合わないことは明白だ。しかし、安倍内閣は、政権発足当初から、ロシアとの良好な関係の構築を目標に掲げ、しかもそれは「領土問題」を隠しはしないが(領土問題抜きでは話は始まらない)、領土問題だけに限定しないということでもあった。

露日間には実際に非常に多くの共通の関心事、政治家やジャーナリスト、さらには暇人がいろいろと話をしたがるような事柄がある。しかし、話をするだけで気が済む人もいるだろうが、それではまったく十分ではない。行動しなければならないからだ。安倍首相と内閣は実際に問題に取り組もうとしてきたわけだが、そうした中でウクライナ危機の勃発は想定外の不快なサプライズとなった。

ロシアと米国・EUとの仲介役になる勇気

日本は、主要7ヵ国(G7)の中で一番ウクライナから遠い位置にある。米国やカナダのようにウクライナ人コミュニティーからの影響というものは日本にはない。ただ明らかなことは、日本政府がロシア政府の方針や行動を支持してはいないということだ。

しかし、日本政府と外務省が、米国・EUとロシアの間の仲介役となるというのはどうだろうか。もちろん、これは非常に困難で責任を伴う行動であり、日本に独立性や政治的意志と勇気を要求するものである。その代わり、世界における日本の政治的な重みや威信は増大するだろう。それは明らかに日本にとってプラスである。仲介役は失敗に終わるかもしれないが、それによって「体面を損なうこと」はない。誠意を持って努力すれば、失敗しても敗北ではないのである。これは、私が昔、知り合いの日本人から聞いた言葉である。

もちろん、日本がこのような仲介役を引き受ける可能性は、非常に少ないだろう。日本が対露制裁に加わるということは自明のことであったからだ。問題は対露制裁がどの程度の規模で、どのようなプロパガンダのもとに行われるかということだった。日本は、米国とEUが日本に望んだことを行った。が、対露制裁がロシアを怒らせ傷つけるにしても最小限となるように配慮したのである。これは明らかに両国にとって好ましいことである。

ロシアと日本の関係においては、既に大小様々な問題が、外交官、国会議員、アナリストやジャーナリストが失職しないくらい十分に存在している。ここに新たな問題を加える必要があるのだろうか? ロシアと日本の相互理解や協力、さらに友好のために働き、今後も働いていきたいと考える人たちに仕事を保証した方がよいのではないだろうか。そのような人たちは沢山いるだろう、私もその中の一人である。

この夏、秋田の水田をサイクリングしながら私が考えていたことは、このようなことである。サイクリングの途中、私は地元の神社に必ずお参りをすることを忘れなかった。この恵まれた素晴らしい地方の神々に感謝するためである。

(原文ロシア語)

 

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