亡命と移民の現代

文化

ハーヴァード・ツアー

2012年の夏から、2014年の春まで、ハーヴァード大学の客員研究員として過ごした。アメリカ北東部、ニューイングランド地方の中核都市である古都ボストンは、全米でも屈指の観光都市であり、ハーヴァード大学にも観光客が多数流れてくる。私も時間があるときには観光客に混じって街めぐりの「ツアー」によく参加した。10ドルほどで一時間、街の名所をガイドが解説付きで回ってくれるのだ。ハーヴァード・ヤード、きらびやかなビジネス・スクール、大学としては類を見ない規模で美術品を収集している美術館……なかでも私のお気に入りはローウェル・ハウスの鐘楼だった。白塗りの塔とコバルトブルーの丸屋根の鮮やかなコンビネーションは、ひときわ目を惹(ひ)くランドマークだ。

ロシアの鐘の音

ハーヴァードのシンボルのひとつでもあるこの鐘は、元来ロシアに由来している。ロシア革命後、教会は閉鎖に追い込まれ、鐘を撞(つ)くことは法律で禁じられた。かつては、かの文豪ニコライ・ゴーゴリの弔鐘を鳴らしたこともあるほどの由緒あるモスクワの聖ダニイル修道院の鐘も、役割を失い、鋳溶かされる運命をたどるかに思えた。それを偶然シカゴの企業家チャールズ・クレインが買いとり、完成間近だったハーヴァードの学寮のひとつ、ローウェル・ハウスに寄贈した。1930年のことだ。

この鐘にはひとつ興趣をそそるエピソードがある。鐘が設置されるにあたり、ヴァイオリニスト・指揮者コンスタンチン・ソロモノヴィチ・サラジェフの同名の息子、「モスクワ一の鐘撞き」のコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・サラジェフがはるばる招聘された。サラジェフは超人的な聴覚の持ち主で、微分音程を聞きわけることができたという。鐘の音に惚れこんだサラジェフは、自らの音楽理論をこの「自由の国」で実践しようとした。だが、鐘をやすりで削る、インクを飲むなどの奇行が目に余るようになると、ソ連に送還され、その後精神病院で亡くなったという。

「母なる大地」

お目付け役が去ったあとも、鐘は自分の職務をたんたんと遂行した。大きさも様々なベルのうち、13トン近い重量を誇る最大の鐘は「母なる大地【マザー・アース】」と名付けられて親しまれ、イェールとの大学対抗戦――“The Game”――でハーヴァードが得点するたびに80年近く鐘を鳴らしていた。

八〇年代にはいり、ソ連崩壊後、宗教活動が公に解禁されると、多くの教会が活動を再開した。交渉がはじまり、ハーヴァードは自分たちの耳に馴染んだ音色の返還をしぶったが、最終的にレプリカの鋳造を条件に2009年に聖ダニエル修道院に返却された。現在も精巧なレプリカが、ロシアなまりの鐘の音をハーヴァード・スクウェアに響かせ続けている。

ロシア、モスクワの聖ダニロフ修道院に返却された鐘

ハーヴァードと亡命ロシア人

(左)セルゲイ・エリセーエフ(右)エリセーエフが日本語で執筆した「赤露の人質日記」

ハーヴァードを訪れたのはなにも鐘だけではなかった。セルゲイ・エリセーエフ(1889-1975)は、新村出や漱石にも師事し、朝日新聞にも寄稿した日本学者だったが、革命がおこると、商人の出身であり、ブルジョアと見なされ敵視されたため故郷を追われた。フィンランド(このときに日本語で執筆されたのが『赤露の人質日記』だ)、パリと転々としたのち、1932年に渡米し、ハーヴァードの東洋学部の教授、イェンチェン研究所の初代所長となった。いまやイェンチェン研究所は全米屈指の東洋研究所に成長し、エリセーエフは、エドウィン・ライシャワーやドナルド・キーンの指導もし、のちの日米の友好関係を影ながら支えた。

あるいはウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)。貴族の長男として生まれたナボコフは、やはり革命によって祖国を追われ、ヨーロッパでロシア語作家として活動した後、アメリカにたどりついた。1940年代の大半、蝶の分類に専門的な関心をもっていたナボコフは、ハーヴァード大学比較動物学博物館で非常勤研究員として働いていた。その後、英語作品『ロリータ』を発表して、20世紀アメリカを代表する作家のひとりになったことはよく知られている。他方で、ナボコフのロシア語作家としてのバックグラウンドについては一般にはあまり知られていない。

21世紀のロシア移民たち

かくもアメリカは、他国の政変によって排除されたものをとりこみ、糧にしてきた。冷戦が崩壊し、政治の季節が過ぎると、1980年代後半から急増したのは、ユダヤ系の移民だった。背景にはソ連、ロシアでは依然ユダヤ人差別が根強かったという理由があった。その中からは、『スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー』のゲイリー・シュタインガート(1972-)や、『うちにユダヤ人がいます』のラーラ・ヴァプニャール(1971-)といった英語で書く新時代の移民作家も生まれた。

もちろん移民や亡命者がもたらしたものが、すべてよきものだったわけではない。2013年4月、爆発音と銃声がこの閑静な古都を震撼させたことは記憶に新しい。3名(のちに殺害された警官をふくめれば4名)の死者のほかに膨大な負傷者をだしたボストンマラソン爆破事件の犯人、タメルランとジョハルのツァルナエフ兄弟はロシアのチェチェン共和国をルーツに持っていた(生まれた場所や国籍はどうあれ、彼らはそう信じていた)。チェチェン独立派が、テロによってロシアとの摩擦を深めるにつれ、ツァルナエフ兄弟の両親もアメリカに難を逃れた。タメルランとジョハルは、同化しきれない鬱憤を抱えて原理主義に傾倒し、(はっきりした目的もないまま)罪なき市民を殺傷した。タメルランは警官との銃撃戦の末に死亡し、この事件の五人目の死者となった。移民を受け入れるということは、このようなリスクとも隣り合わせだ。

移民の脆弱さ

とはいえ、概して移民は脆弱な存在だ。海外旅行をしたことがある人は、異国での漠然とした不安感を覚えているだろう。ボストンマラソン爆破事件も、思想や宗教が原因というよりは、移民が本質的にかかえこまざるをえない「弱さ」が原因だった。移住先にうまく適応、同化できるかどうかは、本人の資質や、経済的な環境に因るところが大きい。

また移民は、出身国と居住国との関係の変化の影響を受けやすい。1950年代にマッカーシズムの赤狩りが全米に吹き荒れたとき、ロシア系の移民や亡命者たちは息をひそめて嵐が吹きさるのを待った。2014年、ロシアの突然のクリミア併合にともなうアメリカの制裁の余波は、だれよりも先にアメリカに住むロシア人たちにまず及んだ。

経済制裁とともに、アメリカ政府はロシアからの政府関係者など要人の渡米を制限した。アメリカの永住権(グリーンカード)を持っているロシア人の中には、親類がロシアに暮らしていることも多く、行き来が頻繁であることも多い。その際、再入国のためのビザがおりにくくなり、帰国が難しくなっているという話をアメリカに暮らすロシア人の研究者の友人からは聞いた。

私がなぜプーチンはそのような荒っぽいことをするのだろうか、と素朴な疑問をぶつけると、少し考えてから彼は答えてくれた。「プーチンはただゲームをしているつもりなんだよ。自分の取り分をいかに最大化するか、その結果国内の支持がどれだけえられるかだけをね。それで他国からどう思われようが知ったことじゃないんだ」。プーチンのプレイする「ゲーム」のルールが、少なくとも西側諸国がここ数十年間共有してきた国際社会のルールとは違っていることだけは確かだ。

亡命者、移民の「栄光と悲惨」

ロシアはソ連崩壊後も国際社会において、(良くも悪くも)もうひとつの極、大きなパワーとしての存在感をいまだに持ち続けている。ふたつの強い力場のあいだのゲームに翻弄されながら、ロシア系の亡命者や移民が積み重ねてきた「栄光と悲惨」で、アメリカという国の重要な一部になっていると言っても過言ではない。それは鐘の音のように数字には容易に還元されないものでもある。

結局のところ、自分はアメリカに滞在しても、ロシアに滞在しても一時の「客」でしかなく、亡命者や移民のほんとうの心情などわかちあいようがないが、できれば「ツアー」以上の仕事をしたいと思っている。

タイトル写真:ハーヴァード大学ローウェルハウスの鐘楼

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