孫文が中国革命の成功を確信した場所——東京・白山神社境内

信太 謙三【Profile】

[2015.01.02] 他の言語で読む : 简体字 | 繁體字 |

孫文(出所・アジア歴史資料センター)

宮崎滔天(出所・国立国会図書館)

日中両国は「一衣帯水」のお隣同士。交流の歴史は長く、日本は今も中国生まれの漢字を使っている。が、幕末から明治にかけて西洋の文物が大量に流入すると、日本人はそれに対応し「社会主義」「共産主義」などの和製漢語を次々に創造。これが大陸に戻って中国の近代化を推進した。孫文が指導してアジア初の共和国、中華民国を誕生させた辛亥革命でも日本人が大きな役割を果たしている。その一人がアジア主義者の宮崎滔天(とうてん)。今年は孫文の没後90年。2人の東京での美しき交流を追った。

夜空いっぱいに輝いた明治43年のハレー彗星

白山神社境内の孫文の石碑

東京・文京区白山5丁目の小高い丘の上に白山神社があり、境内の一角に孫文のブロンズ製レリーフ(胸像額)をはめ込んだ石碑がたっている。上部に「孫文先生座石」と書かれており、石碑の下に置かれた黒っぽい横長の石が孫文の座った石ということらしい。

由緒書によると、それは明治43年(1910年)5月中旬のことで、孫文は当時、白山神社近くの小石川原町(現白山四丁目、五丁目と千石一丁目の一部)にあった滔天宅に身を寄せており、2人はこの石に腰掛け、中国の将来や革命について語り合った。しかも、その時、夜空に光芒を放つ一条の流星が現れ、孫文は祖国の革命を心に誓ったという。

この流星とは、時期からみて、明治43年のハレー彗星とみられ、東京では同月19日、降り続いた雨があがった東の空に現れた。彗星の尾は長く、夜空いっぱいに輝き、10日ほどで姿を消した。ただ、この孫文の話には異説もあって、孫文と共に流星を見たのは滔天本人ではなく、長男の龍介さんだったという。

孫文が発した「革命が成功する兆しだよ」の言葉

龍介さんは、NHKの人気連続テレビ小説「花子とアン」で、主人公の花子の友人、蓮子と駆け落ちする帝大生、龍一のモデル。妻は蓮子のモデルとなった歌人、柳原白蓮(本名・宮崎燁子)。宮崎家は長男、香織さんが学徒出陣後に戦死したため、長女の蕗苳(ふき)さんが後を継ぎ、一家は今も東京・豊島区で暮らしている。ご家族の一人に孫文と共に流星をみたのが滔天か龍介さんかを聞いてみた。

それによると、蕗苳さんが父母から聞いた話では、「龍介さんの方だった」という。その日、不審な中国人が自宅にやってきたため、清国のスパイと思い、母親が孫文を裏口から逃し、学生だった龍介さんを同行させたというのだ。逃れた先が神社。2人がそこで時間をつぶしていると、夜空に大きなハレー彗星が浮かび上がり、孫文はそれを見て龍介さんに「革命が成功する兆しだよ」と語ったという。

妻は内職、貧乏のドン底で孫文をかくまう

「文京ふるさと歴史館」専門員の加藤芳典さんによると、小石川や白山一帯は当時、「東京市の外れで、その先は巣鴨の田園地帯」で、長屋住まいの貧しい人たちも少なくなかった。

長女・蕗苳さん、龍介さん、長男・香織さん(提供・写真版権所有者=宮崎蕗苳)

国会図書館に『現代中国と孫文思想』という本がある。この中に、龍介さんが1966年11月12日に朝日講堂で行った講演録が入っており、孫文が小石川原町の滔天宅にやってきたときの宮崎家の様子が次のように紹介されている。

「革命の前年、孫文兄弟(注・孫文と兄の孫徳彰)が小石川原町の寓居にやって来た頃の私共一家の家計は貧乏のドン底でした。母と私の妹はミシンを借りて、海軍服の内職をしていましたし、私と弟は中学生でしたが、ほとんど毎月、月謝未納で掲示される始末でした」

しかし、滔天はそんな貧乏をものともせず、収入があると、その多くを中国の革命のために使い、孫文を支え続けた。そして、滔天ら日本人が仲介役を務めた結果、横の連携に欠けていた中国の革命勢力が結束。1905年8月、東京で中国同盟会が結成され、辛亥革命が動き出す。

誠意ある交流の大切さを教える孫文の書

滔天が孫文と初めて会ったのは1897年。孫文が前年にロンドンの清国公使館に幽閉され、英国政府の尽力で釈放されたあと、カナダ経由で日本にやってきたときのことだ。滔天は次兄の影響で中国の革命家らと交流し、孫文の存在を知っており、革命の指導者、孫文が日本に来ると知って、滞在していた香港から急きょ帰国。横浜の宿泊先に孫文を訪ねた。

孫文に英雄豪傑の姿を期待していた滔天は当初、失望する。小柄で、パジャマ姿ででてきたこともあって、指導者としての威厳がなかったからだ。が、目の輝きに驚き、話を聞いているうちに、孫文が偉大な人物であることを確信。孫文を支えていく決意をしたという。滔天のこの気持ちは終生変わることはなかった。滔天が死去したのは1922年12月6日。葬儀に参加できなかった孫文は翌年1月、上海で「宮崎滔天追悼会」を開催し、「日本の大革命家、中国革命の絶大な功労者」と称えた。

孫文がその滔天に送った書「推心置腹(心を推して腹に置く)」が今も宮崎家に残されている。「心を開き、誠意をもって交わる」という意味で、2人の信頼関係を示すものとされている。忘れてはならない言葉だ。

カバー写真=文京区の白山神社

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  • [2015.01.02]

ジャーナリスト(中国問題専門家)、元東洋大学社会学部教授、公益財団法人新聞通信調査会評議員、ニッポンドットコム理事。1948年静岡県生まれ。73年早稲田大学第一文学部卒業、時事通信社入社。香港特派員、北京特派員、北京支局長、解説委員、上海支局長などを歴任。優れた中国報道によって96年度ボーン・上田国際記者賞を受賞。著書に『巨竜のかたち 甦る大中華の遺伝子』(時事通信社)、『中国ビジネス 光と闇』(平凡社)などがある。

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