世界で唯一の女子プロレスを支える、優しく強く情熱的な日本女性たち

柳澤 健【Profile】

[2015.02.04] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL |

ニッポンが誇るキラーコンテンツ「女子プロレス」の歴史

日本は世界で唯一、女子プロレスの興行が行われている国であることをご存じだろうか。

もともと日本の女子プロレスは、敗戦から3年も経たない1948年に誕生した。芝居小屋やキャバレー、ストリップ小屋で酔客相手に見せるショーがその始まりだ。相手の太腿につけたガーターベルトを奪い合うというエロチックなショーは、やがて警視庁から禁止令が出されて姿を消したものの、1954年11月には、アメリカからミルドレッド・バーク、メイ・ヤングといった当時一流の女子レスラーを招いて大会場で興行を行い、本格的なプロフェッショナル・レスリングとして再出発した。

いくつか存在した女子プロレスのプロモーションは、やがて全日本女子プロレス(Japan Women’s Professional Wrestling)というプロモーションに統一され、1960年代からは不定期ながらテレビ中継も行われるようになった。当時の女子プロレスラーは、身体が極端に小さい男性のミゼットレスラーと一緒に興行を行い、リングの上で歌を歌った。

女子プロレスの窮地に彗星のごとく現れた「ビューティ・ペア」

70年代半ば、女子プロレス人気は低迷し、倒産寸前の状態に陥った。全日本女子プロレスを救ったのは、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアだった。1976年11月に発売されたビューティ・ペアのシングルレコード『かけめぐる青春』は翌年になってから火がつき、80万枚を売り上げる大ヒットとなり、女子プロレス中継の視聴率もたちまち上がり、プライムタイムで週に一度放送された。

男装の麗人という雰囲気を持つジャッキー佐藤は大きな人気を獲得し、かつて酔客のためのエロチックな娯楽だった女子プロレスは、女子中高生が見るものへと変貌した。若い観客たちは、試合よりも、むしろ歌に強く反応した。ビューティ・ペアの歌は稚拙としかいいようのないものだったが、ファンの女の子たちにとっては、凜々しく逞しいジャッキー佐藤が歌い踊るだけでよかった。

1980年代の革命児「クラッシュ・ギャルズ」

その後、1980年代半ばに登場した長与千種とライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズは、さらに大きなブームを作り出した。歌をヒットさせただけでなく、プロレスの試合でも観客を魅了したからだ。

クラッシュ・ギャルズ(左:長与千種、右:ライオネス飛鳥)/写真提供=日刊スポーツ/アフロ

長与千種は女子プロレス史上最高の天才だった。プロレスは正義の味方と悪者が存在する極めて単純なドラマだが、長与千種は、プロレスの試合にスリルとサスペンスを持ち込んでドラマチックに演出し、対戦相手を自在に操って観客を熱狂の渦に巻き込んだ。

キュートな美少女である長与千種は空手のキックや派手な投げ技を使い、友であるライオネス飛鳥とともに強大な敵と必死に戦う。しかし、敵はあまりに大きく、強く、さらに卑怯な反則攻撃まで使う。

1985年、大阪城ホールでの試合では、ついに長与千種は対戦相手のダンプ松本にフォークで額を刺されて大流血。体力を消耗して敗北し、試合前の約束通り、リング上で頭を丸坊主にされていく。ホールの巨大アリーナを埋め尽くした15,000人のミドルティーンの少女たちはその一部始終を目撃して絶叫し、やがてそれはすすり泣きに変わった。

キリストの受難劇にも似た長与千種のプロレスは、女子プロレスに決定的な影響を与えた。長与千種に憧れ、女子プロレスラーになろうとする少女たちが激増したのである。

全日本プロレスは毎年〝オーディション〟を行うが、クラッシュ・ギャルズ全盛の85年には3,000人の少女たちがオーディションに応募した。書類選考で残った200人が体力テストを受け、最終的に10人足らずが残った。

やがてクラッシュ・ギャルズのブームが去り、長与千種とライオネス飛鳥が相次いで引退すると、残されたのは若きフィジカル・エリートたちだった。長与千種のような演劇的センスもカリスマ性も持たない彼女たちは、自分の身体を張ったプロレスを見せるほかなかった。

女子プロレスラーを待ち受ける苛烈な現実

女子プロレスは一番多い時で年間250もの興行を行う。試合のない日にも移動がある。同じバスに十数人の選手たちが同乗し、24時間顔を突き合わせる。囚人のような生活には、当然多くのストレスがたまる。先輩後輩の関係は軍隊以上に厳しく、後輩は先輩の付き人となり、洗濯物を洗うことはもちろん、生活一切の雑事を命じられる。

同期のレスラーたちはお互いに親近感を抱いているが、一方ではライバルでもある。友人と思っていた仲間にスポットライトが当たれば、その瞬間、ほかのすべてのレスラーの胸中には大きな嫉妬心が燃えさかる。プロレスは、結末の決められたエンターテインメントであるが(そうでない時もあるから女子プロレスは恐ろしいのだが)、「相手を明日もリングに立たせる程度」という限定つきで、リングの上では一切の暴力が許される。

選手間には派閥があり、同性愛者も多かった。凶器攻撃はしばしば大流血を起こし、メインイベントから外されたレスラーが有望な若手に危険な技を使って背骨を折ることも、求愛を拒まれた腹いせに本気のキックを後輩の顔面に入れてアゴの骨を折ることも、4メートルの金網の上から相手の腹の上に飛び降りることも、2階席のバルコニーからフロアに置かれた机に突き落とされることもあった。

1990年代の女子プロレスは、世界で最も危険なプロレスだった。そこには眼を背けたくなるような惨たらしさがあり、同時にある種の純粋さ、高貴さがあり、恐るべき魅力を持っていた。しかし、命を落としかねないほど危険な女子プロレスに入ろうとする人間はごく少数になってしまった。

その後、日本も経済不況に陥り、高いプロレスのチケットを購入する観客も減った。21世紀の女子プロレスは極めて小規模なものだ。90年代初頭は年に何回も1万人以上の大会場で興行を行い、スタジアムに5万人以上を集めたことさえあったが、現在では200人程度の会場がスタンダードになってしまった。

選手の数も減り、身体能力は下がり、プロレスだけで食べていける選手はほとんどいなくなった。多くの選手はアルバイトをしながらプロレスを続けている。

2010年代のヒロイン、「広田さくら」「里村明衣子」

だが、それでも日本の女子プロレスは、ほかのエンターテインメントでは決して得られぬ魅力を持っている。

筆者のお勧めは、日本女性の良さをすべて持つ正統派の里村明衣子と、対照的に徹底的にバカバカしいことを追求するコメディエンヌの広田さくら(彼女は既婚者だ)。YouTubeなどでMeiko Satomura、Sakura Hirotaを検索していただければ、極めてまっとうで魅力的な、あなたの知らない日本女性を知ることができるだろう。

ロープ上で勝どきの拳を上げる広田さくら選手(左)と、支える豊田真奈美選手(右)/写真提供=Yucco

里村明衣子選手/写真提供=センダイガールズプロレスリング(里村選手所属)

次の日本旅行では、京都の寺社仏閣や各地の温泉、秋葉原のメイドカフェや吉祥寺のジブリ美術館もいいが、女子プロレスをご覧になることをお勧めする。

強く、逞しく、情熱的でアイディアに溢れた日本女性が、輝くような笑顔を見せてくれるはずだ。

タイトル写真=里村明衣子選手(提供:センダイガールズプロレスリング)と、広田さくら選手選手(提供:Yucco)

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  • [2015.02.04]

ノンフィクションライター。1960年東京生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後、メーカー勤務を経て文藝春秋に入社。「週刊文春」、「Number」編集部での取材・執筆活動後、2003年よりフリー。2009年度ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。主な著作は『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋/2007年。のちに「完本」として文春文庫化)、『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(文藝春秋/2011年)、『1964年のジャイアント馬場』(双葉社/2014年)など。(プロフィール写真提供=MINAMOTO Tadayuki)

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