ステレオタイプ化するイスラム嫌悪への懸念

アルモーメン・アブドーラ【Profile】

[2015.02.26] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | Русский |

事件のたびに弁解を求められる在日イスラム教徒

今回のようなテロ事件が起きるたびに、なぜ、私たちイスラム教徒は狂信者扱いされ、自分たちの信念とは無関係な事件について弁解を求められるのか。結局、一様に「イスラム教は平和な宗教です。あれらの過激派とその暴力とは全く関係ないものなので」などと、決まり文句を並べなければならない。こんな風に感じているのは、きっと私ひとりではない。

「フランスの週刊紙襲撃事件や日本人人質殺害事件などを受けて日本で暮らしているイスラム教徒への悪影響があると思うか?」

一連の事件による日本社会のイスラム教徒コミュニティーへの影響とその今後について、イスラム教徒の知り合いに質問してみた。

「名前を聞かれたけれど、一瞬言うのをためらった。ムハンマドという名前からイスラム教徒であることがばれるからだ」(30歳・学生)。

「よく会う近所のおじさんだけど、いつものように『こんばんは』と挨拶すると、帰ってきた言葉は、『怖いね、イスラム国!日本に入ってこなければ良いけど』だった」(42歳・会社員男性)

“平和な宗教”ではないという短絡的なイメージ

しかし、私のようにもっと複雑な見方する人もいる。

「怖いのは、ステレオタイプ化による恐ろしい影響だ。人間は日々生活している中で、ステレオタイプな考え方で物事をよく見ている。それは、一個人に対してであったり、国家単位であったりする。今回の一連の事件によって、日本人がイスラム教徒やアラブ人をどのようにイメージするかということに大きく影響すると思う」

見方は様々だ。だが、今の状況で明らかなのは、日本でイスラム教に対する反感やフォビアが進むのではないか、そういう不安を少なからず覚えている。そして、イスラム教は日本人にとって“平和な宗教”ではないと短絡的に捉えられているように感じられる。

紹介すべきイスラム教の視点

メディアや報道機関もこの「過激思想」や「反イスラム感情の拡大」に一役を買っているところがある。テレビや新聞、そしてラジオでも、イスラム教が、イスラム過激思想、イスラム原理主義、聖戦などと、まるでテロ組織の宣伝をしているように報じている。一方、イスラム教の考えの神髄が込められている「コーラン」の考えはほとんど紹介されることがない。

コーランには次のように明記されている。

コーランのこの部分の意味は、「一人を殺せば、すべての人々、つまり全人類を殺したのと同じようなこととみなされる」、これがイスラムの考え方だ。

人を殺すという行為は、どんなイデオロギーの下でも、また、たった一人であっても、それを正当化することは許されない。殺人には、大も、小もないのだ。しかし、こうしたイスラムやコーランの視点について、メディアはほとんど紹介しない。

本屋に並ぶイスラム関係本の異様さ

ここで、改めて「ステレオタイプ」の定義を確認してみたい。ある国籍や人種、または性別など、あるカテゴリーに含まれる人が共通して持っていると信じられている特徴のことを「ステレオタイプ」という。

人間は日常生活の中に溢れている膨大な情報を敏速にかつ正確に処理することができない。そこで、人間は情報をカテゴリーに分けて整理する。そして、各カテゴリーへの割当は類似性と差異性に基づいて行われる。つまり、普段、私たちはステレオタイプ化をすることで情報処理を行うという認知的な仕組みになっている。しかも、無意識に行われている。

ステレオタイプに繋がる情報は、決してテレビなどの報道機関のものだけではない。先日、仕事帰りに、何軒かの本屋を回ったが、「イスラム国」関係本の売れ行きが良いため特別コーナーの設置が目立った。

しかし、そこを通りかかる人は視覚的に、二つの情報をほぼ瞬時的に認知処理することになる。一つは、表紙の恐ろしい覆面姿の人がイスラム教徒であること。もう一つは、イスラム=「怖い」、「衝撃」、「過激」ということだ。ただでさえマイナスイメージであるイスラム教のフォルダ(脳の中のフォルダ)が更にアップデートされている。
 
国民が、テレビ・新聞・雑誌などの報道をどのくらい信頼するか(だまされるか)、を国際比較したデータがある。日本リサーチセンターや米調査会社ギャラップなど、内外の4機関の調査結果によると、日本人は先進諸国で飛び抜けてテレビ・新聞・雑誌などマスコミ報道を鵜呑みにし、信じやすいようである。最も低い英国は14%、その他の主要先進国(ロシアを含め)も20~35%だという。

「決めつけて見るのではなく、よく知ってから判断する」

あまり知られていないことなのかもしれないが、「ステレオタイプ」という用語は、比較的新しい用語で、アメリカ人ジャーナリスト、ウォルター・リップマンによって命名されたものだ。
「我々は、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きく、盛んで騒がしい混沌状態の中から、既に我々が文化や、我々の為に定義してくれているものを拾い上げる。そして、こうして拾い上げたものを、我々の文化によってステレオタイプされたかたちのままで知覚しがちである」(ウォルター・リップマン『世論』)

日本人の人質殺害事件や自称「イスラム国」(IS)の非道な行為によってもたらされたイスラムへの怖いイメージは現在も進行中である。欧州のようなイスラモフォビアではないものの、日本社会にイスラムは怖いという雰囲気が浸透していることも事実である。

大事なことは、「定義または決めつけてから見る、判断する」のではなく、「見て、感じて、調べて、接してから定義し判断する」ことだ。私たちは、そういう人間でありたいと思う。

カバー写真=代々木上原の東京ジャーミィ、新宿副都心の高層ビル街を背に(写真提供=東京ジャーミィ)

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  • [2015.02.26]

東海大学・国際教育センター准教授。エジプト・カイロ生まれ。2001年学習院大学文学部日本語日本文学科卒業。同大学大学院人文科学研究科で、日本語とアラビア語の対照言語学を研究、日本語日本文学博士号を取得。元NHKテレビ・アラビア語講座講師、NHK・BS放送アルジャジーラニュースの放送通訳のほか、天皇・皇后両陛下やアラブ諸国首脳、パレスチナ自治政府アッバース議長などの放送通訳を務める。元サウジアラビア王国大使館文化部スーパーバイザー。主な著書に『地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人』(小学館)、「アラビア語が面白いほど身に付く本」(中央出版)などがある。

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