露日関係史の節目を振り返る

ワシーリー・モロジャコフ【Profile】

[2015.03.30] 他の言語で読む : Русский |

忘れられた日ソ基本条約90周年(1月20日)

2015年は、露日関係史において多くの節目を迎える年となる。しかし、ロシアと日本では、それらの節目の迎え方がまったく異なるようである。

1月20日には、日ソ基本条約(※1)(1925年)が締結されてから90周年を迎えた。この条約は「基本条約」(Конвенция об основных принципах)、あるいは全権を委任されたレフ・カラハンや芳沢謙吉が中国の首都でこの条約に調印したことから「北京条約」(Пекинская конвенция)とも呼ばれている。私の知る限りでは、日ソ基本条約90周年は、ロシアでも日本でもまったく焦点を当てられることなく過ぎていった。

2015年に節目を迎える日露関係

1月20日 日ソ基本条約 90周年
2月7日 日露和親条約 160周年
5月7日 樺太千島交換条約 140周年
5月27日 日露通商航海条約 120周年
9月5日 ポーツマス条約 110周年

ポーツマス条約交渉のロシア側首席全権セルゲイ・ヴィッテと日本側の首席全権の小村寿太郎

しかし、この条約は、日本とソ連(現在のロシアはその法的な後継者)の外交関係樹立を定めたものである。つまり、法的な観点からすれば、現在の露日関係は、この北京条約に端を発しているといっても過言ではない。交渉の過程でソ連側は日本側に譲歩し、1905年に調印されたポーツマス条約(※2)(訳者注:日露戦争の講和条約)を承認したのであった。しかし、ロシア皇帝との間に締結された条約に対する「政治的な責任」は負わないとしている。

称賛された条約、その真髄は絶妙な譲歩

北京条約以前に締結された様々な条約にまつわる歴史は、非常に興味深い。私自身、露日関係史に関する自著の中で、多くのユニークなエピソードを細かく紹介してきた。北京条約以前の様々な条約に関する歴史を振り返ると、ソ連(ロシア)と日本の双方が、自国の利益を主張するだけではなく、一番重要な問題で自国に有利になるように、他の部分で譲歩することを恐れなかったということに改めて注目した。

「外交官たる者、いつ、どんな理由があっても、決して交渉相手に譲歩をしてはならない」というのは、愚かな人々が安易に考えるようなことである。外交官は、戦略的(strategy)に最も重要な事柄で勝利を勝ち得るため、目的完遂のための戦術(tactic)として、必要に応じて、部分的に譲歩することもできる能力を備えていなければならないからだ。

そして、譲歩しても良い部分と、決して譲歩してはいけない部分をしっかりと見極めなければならない。カラハンと吉沢は、それをよく分かっていたのである。その結果、この互恵的な条約が調印されたのである。時を経て、今日でも、この条約は人々の称賛の的となっている。

日露和親条約調印の日は「北方領土の日」(2月7日)

北方領土イメージキャラクターであるエトピリカの女の子「エリカちゃん」

日露和親条約(※3)(日露通好条約、または締結地から下田条約ともいう1855年)は調印から、今年で160周年を迎える。日本では、条約の締結された2月7日を「北方領土の日」に制定し、毎年、式典を開催している。まるで、2月7日は、その他の条約とは一切関係がない日であるかのように、「北方領土の日」としてだけ認識されているのである。

ロシアでは、今日、この日が思い起こされることはない。どうやら日本と同じように領土にからんだ理由からであろうようだ。このように史実がないがしろにされて忘れ去られるのは、許されるべきことではないのではないだろうか。

日露和親条約は、ロシアと日本の間で締結された最初の条約である。何を言われようとも、この条約が両国の公式な二国間関係の出発点であることに変わりはない。だが、日露和親条約は、はるか昔にその法的効力を失っており、当時、どのようにして露日の間に国境線が引かれたかなどということは、昔を懐かしむセンチメンタルなため息同然の代物となっている。

ロシアのイメージを変えた外交官プチャーチン

エフィム・プチャーチン
ロシア帝国(ロマノフ王朝)の海軍軍人、政治家。1853年日本に来航し日露和親条約を締結。1859年その功績によって、伯爵、海軍元帥に栄進。1881年日露友好への貢献に対し日本政府から勲一等旭日章を授与。

だからと言って、日露和親条約こそが両国関係の礎であるということを、重要でないとでも言うのだろうか?この条約があったからこそ、ロシア人はイワン・ゴンチャロフ(※4)の日本渡航記を読み、初めて知る日本という国に好意を持ったのである。

他方、当時の日本人にとって、ロシア人は“ロシアの熊”というイメージのままであった。それが、勇敢な船乗りであり、同時に、他国をも尊重する紳士的で鋭敏な外交官プチャーチン提督のイメージに書き換えられたのは、良いことではないというのであろうか。

160年間の両国の関係は、「プチャーチンからプーチンへ」という形で言い表すことができるかもしれない。「プチャーチン」という名も、「プーチン」という名も、日露関係にポジティブな意味合いをもたらしていることは確かなことであるからだ。

政治的に忘却された樺太千島交換条約140年(5月7日)

5月7日には、樺太千島交換条約が調印されてから140年を迎える。この条約(ロシア帝国外交官アレクサンドル・ゴルチャコフと特命全権大使榎本武揚の名前をとって、ゴルチャコフ・榎本条約とも呼ばれている)も、政治的な理由からか、今日ではあまり多く語られることのないものの一つである。

榎本武揚
伊能忠敬に測量を、当時の幕府最高学府である昌平坂学問所で儒学と漢学、ジョン万次郎に英語を学び、幕府留学生として5年間、オランダで国際法や軍事知識、造船や船舶を修める。1874年駐露特命全権公使としてサンクトペテルブルクへ。翌1875年8月、樺太・千島交換条約。

ロシアでは「ロシア外交の父」と祭り上げられているゴルチャコフが、日本に得撫島以北のクリル列島の18島を「受け渡した」こと(たとえ、それが当時、露日混住の地であったため「割譲が不可能」だったサハリン島に対するすべての権利との引き換えだったとしても)には触れないことになっている。どうやら、日本では、クリル列島のすべての島が昔、日本のものだったこともあることを思い起こすのは、「慎しむべきこと」とされているようである。

この条約は、かなり昔に法的効力を失っている。しかし、だからと言って、140年前、両国の外交官たちが目の前の具体的な課題について話をつけ、解決することができたという事実をなぜ、顕彰しないのだろうか。当時の外交官達は、どうのようにして合意することができたのだろうか。彼らが議会や世論の干渉を受けずに、それぞれがロシア皇帝や天皇の勅令のみに従っていたということなのだろうか。みなさん、ご自分のカレンダーで、この5月7日という日に印をつけて、この日の由来を覚えよつではありませんか。

また、5月9日、ロシアでは「大祖国戦争」、すなわち、第二次世界大戦での、ドイツ等の欧州枢軸国諸国軍との戦闘がソ連の勝利によって終結してからちょうど70周年を迎える。

プーチン大統領は、70周年の式典に安倍晋三首相をモスクワに招待し、安倍首相も訪露するような気配である。プーチン大統領と安倍首相は、どんな言葉を交わすことになるのだろうか。しかし、この5月9日という日は、露日関係に直接に関係している訳ではない。

その代りに、露日関係には9月2日という日がある。太平洋戦争終結と同時に、第二次世界大戦全体の終戦の日である。安倍首相はこのことについては何とコメントするのだろうか。ソ連を思い起こすのだろうか。一方、プーチン大統領はこの日に関して何と言うのだろうか。9月2日にもカレンダーで印をつけておいた方が良さそうだ。

日露貿易の道を開いた日露通商航海条約(5月27日)

政治的な意味を帯びている2つの日付の間に、歴史的な意味を持つ日がもう一つある。120年前の1895年5月27日(6月8日)に、ペテルブルグで日露通商航海条約が締結され、下田条約を含むそれ以前のすべての条約にとって代わるものとなった。この条約によって、露日間の貿易のより良好な環境作りのための体制が構築されるとともに、日本におけるロシア帝国による領事裁判権(※5)が削除され、二国間関係がようやく平等なものとなった。

日本は、江戸時代の安政年間に欧米列強との間で結ばざるを得なかった一連の不平等条約の廃止を求め闘い、多くを勝ち得たのであった。それは、日本が「列強の一員」となるための大事な一歩となった。また、互恵的な露日関係において、歴史的な重要局面となったことは間違いない。だからこそ、5月27日という日は、心の留めておくべき重要な日なのである!

ポーツマツ条約 110周年(9月5日)

9月5日には、ポーツマス講和条約110周年を迎える。周知のとおり、ロシアと日本の両方に、この講和条約に多くの不満を抱いている人達が存在する。しかし、私は、現実を直視しなくてはならないという考え方から、この条約を高く評価している。

この条約が、(第一次大戦の敗戦国ドイツに対する懲罰的な内容の)ヴェルサイユ『講和(!)』条約とは異なり、少なくとも、新たな戦争を不可避とするようなニュアンスを一切含んでいないからである。この日にもカレンダーで印をつけよう。

2015年のカレンダーには、露日関係史とは切っても切り離せない日付が沢山ある。是非、皆さん、これらの日を、友好や相互理解の精神で、または、互いを理解していこうという気持ちとともに祝っていきませんか。

(原文ロシア語)

バナー写真:1853年 プチャーチンは、日本との外交交渉のためフリゲート・パルラダ号で長崎に来航 プチャーチンの秘書官だった作家ゴンチャロフは、後に旅行記《フリゲート艦パルラダ号Fregat Pallada》を記している。

(※1)^ 日本国及『ソヴィエト』社会主義共和国聯邦間ノ関係ヲ律スル基本的法則ニ関スル条約」(Советско-японская конвенция 1925 года об основных принципах взаимоотношений) ロシア革命以降、ソビエト政権と日本との間で国交正常化における基本原則を定めた日ソ間の初めての二国間条約。当時、共産主義を敵視していた日本は国交正常化に積極的ではなかったが、日ソ関係の断絶により経済に大きな打撃がもたらされ、国内に国交回復を求める声も出初め、また極東での日本の利権を確保するためにもソ連と修好を結ぶ必要があるとし、日ソ基本条約に到った。樺太の駐留日本軍の撤退と引き換えに、ロシア側が北樺太の天然資源の利権を日本側に与えるという条件で合意。

(※2)^ 日本とロシア帝国との間で結ばれた条約。日露講和条約とも呼ばれる。講和会議は1905年8月に開催。極東への権益介入を狙って日本を支援していた米国が日本からの依頼により、講和を仲介。戦力の面でロシア側から大幅に劣っており戦況が有利なうちに講和に持ち込もうとする日本側に対して、ロシア側は「小さな戦闘において敗れただけ」とし、交渉は困難を極めた。厳しい外交的取引の結果、ロシアは樺太南部の割譲、満州・朝鮮からの撤兵はするが戦争賠償金は一切支払わないという条件で交渉が締結。

(※3)^ 本条約により、千島列島における、日本とロシアとの国境は択捉島と得撫島の間と定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。

(※4)^ イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ(1812年6月18日- 1891年9月27日は、ロシアの作家。代表作は小説『オブローモフ』。プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『フリゲート艦パルラダ号』を刊行。(抄訳は『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫)

(※5)^ 不平等条約による治外法権の一つ。在留外国人による事件は、本国の領事によって本国法に則って裁判するという権利。

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  • [2015.03.30]

拓殖大学日本文化研究所教授。1968年モスクワ生まれ。1993年モスクワ国立大学卒業、1996年同大学博士課程修了。歴史学博士(Ph.D., モスクワ国立大学、1996年)、国際社会科学博士(Ph.D.,東京大学2002年)、政治学上級博士(LL.D., モスクワ国立大学、2004年)。2000~2001年、東京大学社会科学研究所客員研究員。2003年、拓殖大学日本文化研究所主任研究員。2012年より現職。ロシア語で著書30冊以上、そのうち日本に関するもの15冊。日本語での著書に『後藤新平と日露関係史』(藤原書店、2009年)、『ジャポニズムのロシア』(藤原書店、2011年)。

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