「大阪都構想」住民投票騒動が示す日本問題の本質

間宮 淳【Profile】

[2015.05.22] 他の言語で読む : 简体字 | 繁體字 |

「県」に成り下がった大阪

大阪市で、5月17日に橋下徹・市長が提起した「大阪都構想」の可否を問う住民投票が行われ否決された。この府・市一体化による行政の効率化を目指した構想は、元弁護士でテレビタレントの橋下徹氏が、2008年2月に大阪府知事に当選し、さらに11年10月に大阪市長に転出する過程から訴え続けてきており、これまで7年間、大阪のみならず、関西政界、中央政界までも振り回してきたが、有権者の判断が示されたことで一つの決着を迎えた。

直接民主主義の手法により重要政策の決定が行われたことや、所得再配分に関わる改革で高齢者有権者と現役層有権者との間の利害相反が決定的に表れたこと、橋下氏のこの政策を一枚看板とした大阪維新の会の今後の政界への影響など、政治的な余韻は大きい。現象と言えるだけのムーブメントを引き起こした橋下氏の政治家としての評価もまだこれからだ。しかし、筆者はこの一連の政治的な動きそのものより、大阪でこのような大きな騒ぎが起きた背景のほうが、重要な意味をもっていると考える。

大阪の行政構造は他の地方と同じく、地方政府としての「府」(都道府県の一つ)と基礎自治体としての「市町村」の2段階になっている。ただ政令指定都市である大阪市と堺市は、大阪府から半独立の形になっており、府域全体の広域行政が貫徹しているとは言いがたい。「大阪都構想」と名付けたように、橋下氏のアピールは、旧市域を特別区として地方政府が直轄している東京都と同じ構造に大阪府・市をしようというもの。形の上では東京と並ぶ「都」に格上げしようという内容であった。大阪府民が激しく反応したわけである。

当然、それは有権者の間に大阪がそうなってほしい、もしくはそうなって当たり前だ、という意識が浸透していたからである。しかし、大阪の実態は全く逆なのである。明治維新以来、地方行政上の格付けで「府」という準首都としての扱いを受けてきたが、もはや、それすらもおこがましいくらいで、衰退に次ぐ衰退の結果、一般の「県」並みの実態しか、もち併せていない。大阪、そして同じく「府」として扱われてきた京都の地元政治や行政機関、住民が、いかに他地域に対しどれほど優越意識を持ち、東京をライバル視しようと、両者とももはや首都圏とは比べるべくもない一地方でしかない。

大阪のめくるめく凋落とそれを受け入れることのできない住民の意識の激しいギャップ。そしてそのギャップを機会としかとらえることのできない政治システム。問題はそれだけではない。この「大阪都構想」が可決され、実現されたとしても大阪にとって何の解決にもならないのである。行政や政治の枠組みを変更する程度ではどうにもならないという意味で、大阪は、日本の地方が抱えている問題の象徴なのである。

そもそも大阪とは何者か

有史以来、大阪湾周辺の「近畿地方」は日本の中心であった。中国史における中原、アメリカにおけるニュー・イングランドと同様の位置づけである。地図を見ていただくと分かりやすいが、東シナ海を挟んで、中国大陸最大の内水面である揚子江と向き合う形に、日本最大の内海、瀬戸内海は位置している。大阪湾はこの古代以来の東シナ海交易圏の東端に位置し、かつ国内沿岸物流の中心であった。現在の大阪府域は、古代、中世には、入江もしくは潟であったので、都市は後背地の奈良盆地に、そして後に8世紀末、京都に建設された。京都は以後、政治の実質的な中心が関東地方に移っても、1868年の明治維新まで天皇の御座所であり続けた。

大阪という都市が建設されたのは16世紀の末。近世武家政権の豊臣政権の首都となり、港湾が整備され全国の商業的中心ともなった。その後、政治的中心が江戸(現在の東京)に移った徳川政権下でも経済面での位置づけは変わらず、当時の事実上の日本国王であった徳川将軍家の直轄領とされ、政策的に全国の中心市場とされ、経済首都となった。

日本を近代国家に転換させることになった明治維新も、内外交易で実力をつけた西国諸藩が、武力でこの近畿地方を制圧することで達成されたのである。しかし、その明治維新が、近畿地方の運命を暗転させた。明治新政府は首都として徳川将軍家の江戸を継承し、東京と改名して天皇を遷した。中央集権制を採用し、必然的に政治だけでなく経済の中心も東京となった。たまったものでなかったのは、京都と大阪である。東京の新政府は廃藩置県の際、京都と大阪に東京と同じ「府」の格付けを与え、ほかの「県」と差別化し、若干の行政上の特典を与え、不平をなだめたのである。

300諸侯のそれぞれの首都であった日本の近世都市は、明治以降、一様に「地方都市」という位置づけになった。しかし、大阪だけは別格であった。近世以来の経済首都として当時の日本では最大の資本蓄積があった。また、単なる行政府であった江戸と異なり、企業家精神にあふれた商人たちが多く活動していた。農業が主産業の封建社会下の日本で、大阪はすでに資本主義段階に入っていた。ゆえに彼らが近代日本資本主義の担い手となるしかなかったのである。そして、地政学的な理由で引き続き物流の中心であり続け、国内の物資の価格を決定する市場であり続けた。明治以降も日本の経済首都としての地位を守り続けたのである。

「県」に追い抜かれる寸前、構造的な衰退

しかし、それも第二次世界大戦までであった。戦争による統制経済が戦後も引き続いたことから、大阪資本の企業も、管轄官庁の所在する東京に拠点を移していった。金融、商社、情報産業はほとんどと言っていいほど東京シフトした。製造業は比較的、大阪に残ったが、東京が財閥系、もしくは昭和以降の国策系、重化学工業系が中心であったのに比べ、大阪は新興工業国として参入しやすい軽工業、消費者向け系で、繊維、家電、食品、製薬などが中心になった。製薬はともかく、ほかは、現在、後発新興工業国にシェアを奪われ、消え去ったか、気息奄々となっている分野ばかりである。

それだけではない。そもそも、この地がもっていた地政学的な価値、つまり物流の中心という利点も失われた。江戸期以来、米を中心とした農産物の中心市場でありつづけ、18世紀前半には、世界で初めての商品先物取引が開発された場所であったが、戦時統制の結果、1940年代に米市場は廃止。貿易も、優位な地位に安住し続け、港湾の効率化進展が遅れたため1995年の阪神淡路大震災のあと、大阪および近畿の外港である神戸が、東アジアのハブ港の地位を韓国の釜山と中国の上海に奪われたまま立ち上がることが出来ていない。問屋機能という国内の商品流通上の地位も、生産の国際展開とメーカーの直販という、グローバル化の波に完全に取り残されてしまい、船場の問屋街は、シャッター通りと化してしまった。

内閣府の「県民経済生産」によれば、直近での大阪府の経済規模が日本経済全体に占めるシェアは、大阪万国博覧会が開かれた1970年に10.2%もあった。これでも地元大阪では「10%経済」と自嘲気味に語られていたくらいである。その後、低落傾向が続き、バブル崩壊後、さらに急落し、今は7%台の前半。愛知「県」、神奈川「県」に追い抜かれる寸前にまでなっている。

大阪の衰退は、中央集権化を進めた日本の近代化と、経済グローバル化の中で国内経済での相対的な地位を喪失したことによる、きわめて構造的な現象なのである。しかも、今後、かつての地位が与えられる可能性はほぼありえない。日本自体がグローバリズムの中で厳しい競争を強いられており、国全体が国際レベルで「大阪化」の危機に立たされている。そのなかで東京を何とか、ニューヨーク、ロンドン、上海といった大都市との競争の中で勝ち残らせることが国家的至上命題であり、そのためにさらに一極集中を図る必要があるからである。

「都構想」の意味と由来

それでは、なぜその危機感の中から「都構想」が飛び出してきたのか。この問題は2003年までさかのぼる。この年、大阪市役所の職員に対するヤミ給与問題が持ち上がった。カラ残業、ヤミ年金など不正な公費の流用が常態化していたのである。そこは落ちぶれたとはいえ、腐っても大阪、歳入の規模はまだまだ大きい。ヤミ給与の淵源は複雑怪奇であるが、一言でいえば、職員、関連業者、市会議員などの地元政治家などが潤沢な大阪市の予算にたかって、つまみ食いをしているということにつきる。

都市人口で比べると、東京23区に次いで、横浜市約370万人、大阪市269万人、名古屋市227万人の順となっているが、住民サービスを主業としているはずの市役所の職員数を見ると、横浜市約19900人、名古屋市約17000人に対し、大阪市は約35000人もいる。ヤミ給与云々を取りざたするまでもなく、この数字だけでも大阪市行政の問題点と規模は見て取れるであろう。

当然、この問題が露見した時、地元住民の怒りはすさまじかった。が、怒ったのは行政に関係ない住民だけだった。事態はすぐに是正されたかというとそうではなかった。保守系だけでなく、野党、革新と言われている勢力も含めて公的分野に関係するものが、文字通り「オール大阪」で大阪市の潤沢な税収にたかっていたのである。

橋下氏は、バブル崩壊後の失われた20年、阪神淡路大震災の余波、超円高、リーマンショックを引き起こすことになる2000年代後半の世界経済危機などが立て続けに起こり、大阪経済の凋落が目を覆うばかりとなる中で登場した。筆者は、橋下氏が大阪府知事時代に直接取材をする機会があったが、近畿地区の3空港並立問題など、地元経済の浮揚策がことごとく挫折した原因を、既得権勢力が大きすぎることによる政策の停滞に求め、地域の統治システム自体を改変することでブレークスルーを図るという、きわめて野心的な構想を持っていた。筆者には、大阪の政治的な問題の本質をはっきり理解した政治家の登場と思えた。

その橋下氏が打ち出した政策が、潤沢な財源を持ちながら関係者が食いつぶすことしか考えていない大阪市という行政単位を廃止し、大阪府が直接統治するという「大阪都構想」だった。これは、大阪市のたかりの構造への反発の受け皿となるだけでなく、かつての東京と並び立つ存在の復活という甘い夢までふりまくことで、利権集団以外の大阪府・市民に大いに受けることになった。実現すれば、かなり強力で効率の良い地方行政システムになる可能性はあった。しかし、残念ながらこの構想がもたらすものはそこまでだった。

「民」の都市が「官」の利権を奪い合い

強力で効率の良い地方行政システムを手に入れて、橋下氏は、そして大阪の有権者は何をやりたかったのであろう。大阪市役所の無駄遣いをなくしたところで、大阪の経済規模が拡大するわけではない。「大阪都構想」はあくまで、地方行政の枠組みの中でこれまでの機能不全を是正するという、いわば政策実行のためのツールを手に入れる意味しかない。それではそのツールを手に入れて行いたい政策は何なのであろう。

大阪が抱えている問題は、歴史的、構造的なものであり、必要とされる政策は、かつての栄光と繁栄を追うことではないはずだ。繰り返しになるが、この先、大阪には、地政学的にも、経済的にも、国内政治的にも、何の特権もアヘッドも与えられる可能性がないのである。東京と覇を競うなどというバカな幻想ではなく、この世界の中で、この地域と住民が自力でどのようにして生きていくのかの方向性が先になければならず、政策はそれを可能にし、補助する性格のものでなければ意味がない。

「官」に頼らない「民」の都市として近世以来、つい近年まで繁栄を謳歌してきた都市なのである。そしてその繁栄は、誰から与えられたものでもなく、かつて農村地帯から大都市である大阪に裸一貫でやってきた祖先の大阪商人たちが、徒手空拳、自らの才覚と努力だけで築き上げたものなのである。大阪ではかつては「官」は邪魔者という意識が強かったくらいである。その街で、「民」自らが新たな方向を開拓するというのではなく、「官」の資金再配分問題が「歴史的な改革政策」と目されたのである。これに熱狂する有権者の姿は、かつての大阪商人ではなく、先祖の遺産にたかるしか能のない「没落商家のごくつぶしの末裔」としか見えない。「大阪都構想」しか、有権者を動かすことが出来なかった段階で、大阪問題は袋小路に頭を突っ込んでいたようなものだった。

日本の地方堕落問題の象徴

橋下氏の7年間が、この大阪問題の本質に至らなかったのは、橋下氏の限界というより、このように大阪の有権者の限界であり、日本の政治システムの限界であると思う。政治サークルの外から突然現れた橋下氏にとって、政治資産は有権者の支持だけであり、利用できたのは、有権者の間にある大阪市役所のたかり体質への反発と、かつての繁栄の再興という根拠のない夢であった。いってみれば有権者の劣情を喚起する以外に政治的実現の方法がなかったのである。しかも、これを最大限に利用してもツール入手手段に過ぎない「大阪都構想」が、僅差ではあるが、否決される結果となったのである。日本の政治システムそのものが、統治システムと生存戦略が危殆に瀕した地方に提示できたのは、定まった枠の中の議席と予算の奪い合い戦術でしかなかったのである。

しかし、それもしょうがない。そもそも日本は12世紀末以来、きわめて強力な地方分権の伝統があった。産業革命後のグローバリズムに対応するため明治維新が起き、中央集権化がすすめられ、実は、現在に至るまで、その方向性は変わっていない。筆者は、橋下氏の知事選擁立者でもあった堺屋太一氏に、かつてインタビューし、その間の機微を聞いたことがある。堺屋氏は、自らが通商産業省の官僚として大阪万国博覧会を企画していた時、庁舎内で堺屋氏のネクタイをつかみ、文字通り吊し上げて企画撤廃を迫った同省幹部のエピソードを交え、戦中から戦後に一貫した、集権と中央統制という国策に反するものをすべて敵視していた霞ヶ関の本音を説明した。

この間、実は中央政府は、表面は「地方振興」謳い、自らの予算で資金配分を行い、いわば金でなだめながら、歴史的な「自立した地方」が自然死するに任せていたのである。地方もまた、生きる術は中央が与えてくれるものと信じ込むまでの依存体質となった。源頼朝の鎌倉幕府開闢以来の日本の地方自立の伝統と精神は、戦後の中央からの予算バラマキ政治の中で決定的に堕落したのである。

橋下氏そして堺屋氏の7年間は、この流れに対する挑戦だったのである。政治家としての橋下氏に対しては毀誉褒貶が激しいが、筆者は、結果はともあれ、ここに至るまではナイス・チャレンジであったと思っている。たしかに、橋下氏の政治手法はオポチュニズムそのものであり、主張はポピュリズムであった。しかし、それでなければ何一つ動かせないところまで病巣が広がっていた、というのが日本の現実なのである。

それでも橋下氏の7年間のおかげで、さすがに「誰かに食わせてもらうことに慣れた没落商家の末裔」である大阪の有権者も、現状を変えるためには自ら能動的に動かなければならないということは、うっすらとではあるが、学んだはずである。その先にあるものが、「先祖のように裸一貫で世間(世界)に投げ出されて自力で生きていく」ことである、というところまで意識が及んでいるかどうか。そうであることを一大阪出身者としては期待したい。その意味で大阪の問題は、日本の首都圏以外のすべての地域が抱える「地方問題」の象徴といえるのである。

カバー写真=住民投票で「大阪都構想」が否決された後、会見する橋下徹・大阪市長(提供・時事)

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  • [2015.05.22]

編集者。1959年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東洋経済新報社『金融ビジネス』編集長、中央公論新社『中央公論』編集長、nippon.com編集委員・編集担当理事などを歴任。

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