朝鮮通信使、その“善隣友好・平和外交”に学ぶ
徳川家康ゆかりの名刹、静岡「清見寺」に残る史実

原野 城治【Profile】

[2015.06.17]

国交正常化50年を前に最悪の日韓関係

日本と韓国は2015年6月22日に国交正常化50周年を迎えるが、日韓関係はかつてないほど悪化している。日本政府だけでなく国民の中にも「嫌韓」ムードが根強く、韓国側の反日感情も収まる気配はない。もちろん、両国政府による50周年を祝う記念的な行事もほとんどない。その深刻さは1973年の金大中(キム・デジュン、元大統領)拉致事件発生時以上の関係悪化とさえ言われている。

復元された朝鮮通信使の『輿(こし)』、清見寺内に展示

これをいつまで放置するのか。日韓両国に危機感はないのか。そんな疑問が湧いてくるが、「朝鮮通信使」の研究家で比較文化学者である金両基・前静岡県立大学教授は「軋轢が絶えない時期だけに、朝鮮通信使による日韓善隣友好の歴史に目を向け、その英知に学ぶべきだ」と強調する。

金氏は、早稲田大学卒の哲学博士で、1987年に韓国人では初めて日本の国公立大学に正教授として静岡県立大学教授に就任した。静岡で朝鮮通信使の歴史研究、啓蒙活動を行うとともに、日韓共同で2017年を目途に「朝鮮通信使」のユネスコ世界記憶遺産への登録を目指す推進委員会の委員として活動している。また、金氏は文化庁芸術祭最優秀賞や韓国の文化勲章などを受賞している。

約200年間に12回派遣

「朝鮮通信使」とは、江戸時代に主として朝鮮王朝が日本に送った使節で、1607年(慶長12年)から1811年(文化8年)まで約200年間に、漢陽(ハニャン、現在のソウル)と江戸を12回往復した。ただし、徳川幕府が朝鮮に派遣したのは1629年の1回だけで、11回は朝鮮からの派遣。約10~20年ごとに行われた通信使派遣の費用は、当時の国家予算をはるかに上回るもので、日本国内の往路、復路では多くの見物客が集まった。

金氏によると、「朝鮮通信使の往還は、諸大名や民衆に徳川幕府の威厳を示す最高のセレモニーであるととともに“善隣友好・平和外交”の象徴であった」としている。しかし、その後の歴史、特に1910~45年の韓国併合(朝鮮併合)などのために、日韓両国では朝鮮通信使の歴史研究は充分に行われておらず、関係文書などの保存もしっかりされているわけではない。

江戸時代の」朝鮮通信使の歴史

  年号 将軍 朝鮮通信使 目的
第1回 1607年(慶長12年) 徳川秀忠 呂祐吉 日朝国交回復、捕虜返還
第2回 1617年(元和3年) 秀忠 呉允謙 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還
第3回 1624年(寛永元年) 家光 鄭岦 家光襲封祝賀、捕虜返還
第4回 1636年(寛永13年) 家光 任絖  
第5回 1643年(寛永20年) 家光 尹順之 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
第6回 1655年(明暦元年) 家綱 趙珩 家綱襲封祝賀
第7回 1682年(天和2年) 綱吉 尹趾完 綱吉襲封祝賀
第8回 1711年(正徳元年) 家宣 趙泰億 家宣襲封祝賀
第9回 1719年(享保4年) 吉宗 洪致中 吉宗襲封祝賀
第10回 1748年(寛延元年) 家重 洪啓禧 家重襲封祝賀
第11回 1764年(宝暦14年) 家治 趙曮 家治襲封祝賀
第12回 1811年(文化8年) 家斉 金履喬 家斉襲封祝賀

いまだに消えぬ誤解と偏見

しかも、朝鮮通信使については、文化などの違いから、誤解や偏見が今でも尾を引いている。その例は、京都・淀藩の資料に描かれた朝鮮通信使の“来図”にある。絵図は、1748年に朝鮮通信使が淀藩(京都府伏見区)の城下を訪れた際の様子を、接待役が描いたもの。

京都市歴史資料館は2010年4月に、この絵図を『朝鮮通信使と淀』展で公開した。絵図は、使節を見ようと集まった多くの見物人が描かれているが、路上で鶏(にわとり)を持った使節が周囲の日本人と争っているような様子が一部に描かれている。このため、ネットなどで「通信使一行が町人の飼っている鶏を盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩になった」と、朝鮮通信使を非難する図柄として取りあげられた。

『朝鮮聘礼使淀城着来図』の問題になった絵図

しかし、同資料館によると、当時の様子を詳細に記録した『朝鮮人来聘記』には、鶏が逃げ出した記録はあるが、窃盗の記述はないとしており、「歴史資料は、一部だけを取り上げて断定すべきではなく、ほかの資料と突き合わせるなど慎重な扱いが必要だ」とわざわざコメントを出す騒ぎになった。

通信使が11回も立ち寄った静岡「清見寺」

清見寺で説明をする金両基氏

朝鮮通信使を知るために、金氏が日本記者クラブ会員を案内してくれたのは、徳川家康のゆかりの地である静岡県静岡市清水区の「清見寺」だ。奈良時代に創建された臨済宗妙心寺派の寺院で、戦国時代、今川家の人質となった幼少の家康は、清見寺の住職に預けられ、寺内の3畳ほどの小さな部屋で勉学に励んだ。「手習いの間」として今でもその部屋が残っている、家康ゆかりの名刹だ。広島県福山市鞆町にある「福禅寺」、岡山県瀬戸内市の「本蓮寺」とともに朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。

その清見寺には、朝鮮通信使が延べ11回にわたり、往路か、復路で立ち寄っているが、1回目(1607年)と3回目(1624年)には往復路で使節の宿泊所として利用された。

特に1回目の復路の際には、家康自らが朝鮮通信使の正使らをもてなし、駿河湾内に船5艘を浮かべ富士山の景色などを楽しんだことが記録として残っている。その中の1艘は「南蛮船」(オランダ船)であったという。

「国書」偽造を黙視してまで歓待した理由

なぜ、日本は朝鮮通信使をこれほどまで歓待したのか。徳川幕府は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592~98年)にかけて行われた戦役後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するため、朝鮮側に通信使の派遣を打診した。日本の西国諸大名が朝鮮との密貿易などで力を蓄えることを幕府が警戒したためとも言われている。

一方、朝鮮側も、日本へ大量に連れ去られた朝鮮人捕虜の返還要求が強まると同時に、朝鮮を支援していた明が撤退したため、日本への警戒心を持ちながらも、室町時代から継続していた日朝貿易を中心とする関係改善に動いた。

徳川幕府と李氏朝鮮を仲介したのは、朝鮮との関係の深かった対馬藩。国交回復のため、対馬藩は「国書」の偽造まで行ったが、これに対し朝鮮側も「偽造」と知りながらこれを黙視し、1607年に第1回の通信使を派遣した。後年、対馬藩内から「国書偽造」の内部告発がされたが、徳川幕府は通信使の受け入れ姿勢を変えることはなかった。“小異を捨て大同につく”という外交の英知が働いた。

派遣費用は、幕府の年間予算を上回る

しかも、朝鮮通信使の費用は莫大だった。各地の大名が大半を負担したが、その総額は1回100万両といわれ、当時の幕府予算(70~80万両)を上回った。通信使は釜山から海路で対馬に寄港、さらに瀬戸内海を航行し大坂に上陸。その後、陸路で京都から江戸へと向かった。

通信使一行は輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、その総勢は300~500人に上り、行列の壮麗さは民衆を魅了した。その後、将軍の交代や世継ぎの誕生に際して、朝鮮からの祝賀使節として派遣されるようになった。

しかし、日本からの派遣は1629年の1回きりで、使節団はわずか19人だった。金氏によると「豊臣秀吉による文禄・慶長の役の影響で、朝鮮側がソウルへの日本使節の受け入れに慎重になったため」としている。1811年に通信使が対馬で差し止められたのを最後に断絶した。

2つの玉(日韓)が光で照らし合う関係

「清見寺」には、朝鮮通信使の一員による毛筆による「扁額(へんがく)」がある。それは、5回目(1643年)のメンバーだった朴安期(螺山)が書いた『瓊瑤(けいよう)世界』という揮毫。「瓊(けい)」は「赤く美しい玉」,「瑤(よう)」は「揺らめくように美しい玉」をそれぞれ意味する。

あいさつした清見寺・住職の一條文昭さん

清見寺の住職の一條文昭さんは、「清見寺は、日韓両国の触れ合いの寺であり、両国が誠を交わした場所。扁額は“きらきら光る国”が2つあり、光と光で照らし合って、そこには明るい世界が広がる。言葉は違っても、心と心が通い合い、照らし合えば美しい世界が広がる、という意味」と説明した。その上で「日韓国交正常化50年を機に、両国の懸け橋の寺になれればいいと思う」とあいさつした。

金氏も、「朝鮮通信使の歴史に学ばなければならない。1つの理由は、モデルとなるような歴史を知ることによって未来への勇気となるからであり、もう1つは、同じ過ちを繰り返さないためだ」と強調した。

容易でない日韓共同の世界記憶遺産登録

しかし、金氏らが目指す日韓共同による2017年のユネスコ世界記憶遺産登録は容易ではないだろう。ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が15年5月に、「明治日本の産業革命遺産」(福岡など8県、23施設)を世界文化遺産に登録するよう勧告したことに対して、韓国側が猛反発をしたためだ。

もともとは、韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」が12年5月にユネスコへの共同申請を日本側に打診、日本側も朝鮮通信使ゆかりの自治体が中心となり、「16年申請、17年の登録実現」で動いてきた。日本側の協議会事務局は長崎県・対馬市役所にある。しかし、12年に起きた対馬での韓国人窃盗団によるによる「仏像盗難」事件で、対馬恒例の「朝鮮通信使」行列が一時的に中止される事態に発展した。かつてのような日韓友好の機運は盛り上がっていない。

国交正常化当時の日韓両国の渡航者総数は,1年間で約1万人に過ぎなかった。しかし、2014年は、韓国人の訪日が約276万人、日本人の訪韓が約228万人に上った。現在は最悪の日韓関係だが、政治,経済,安全保障などの協力や交流は今後も進展させざるを得ない。「日本と韓国は最も重要な隣国同士」というのなら、金氏が指摘するように徳川幕府が朝鮮通信使を介して実現した「善隣友好外交」に目を向けることがあってもしかるべきだろう。

カバー写真=朝鮮通信使が11回訪れた静岡市清水区の「清見寺」

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  • [2015.06.17]

政治ジャーナリスト。1972年時事通信社入社。同社政治部記者、パリ特派員、解説委員、秘書部長、編集局次長、ジャパンエコー社代表取締役を経て、2011年から16年3月までニッポンドットコム代表理事。2006年より日本国際問題研究所評議員。2008年「イタリア連帯の星」カヴァリエーレ章受章。2009年TBS番組コメンテーター。

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