沖縄メディアの「ミス・インフォメーション」

ロバート・D・エルドリッヂ【Profile】

[2015.08.14] 他の言語で読む : ENGLISH | ESPAÑOL | العربية |

「苦境に立つ」沖縄メディア

メディアの役割をめぐり日本で大きな論争が巻き起こっている。広くいえば国全体、具体的にいえば「苦境に立つ」沖縄のメディアの状況についてである。実際には沖縄のメディアが論争の中心となっており、多くの場合、偏向報道やわたしの名付けた「ミス・インフォーメーション(Miss-Information)」のためにこの論争を引き起こしている。

偏向報道はもちろん、深刻な非難に値する。このような報道では、意識的に記事をゆがめることで、ある特定の目的を推進したり、他者を批判したりする。また、ある目的に不都合と判明した出来事や見通しを故意に取材しない場合もある。このような情報管理により特定の話ができあがることになる。

情報管理という言い方をすれば、自由報道を信奉する者が政府が行っていることだと糾弾するようにみえるが、悲しきかな日本では、これは、沖縄のメディアが、またより大きなスケールで、国内メディアや東京在住の国際メディアが長年行っていることなのである。

米海兵隊の人命救助表彰を報じなかった沖縄2紙

沖縄県北部の金武町で昨年12月23日、運転していた自転車から交通量の多い海岸道路に転落した沖縄の老紳士を救命した米海兵隊員を表彰する式が15年1月14日に開催され、私も出席した。キャンプ・ハンセンに向かっていた途中で、老人を救出、蘇生させた海兵隊3等軍曹のとっさの行動は勇敢であった。

式は短時間で、簡素にして威厳のある表彰式だった。司令官は、勇敢さについて歴史的、神話的のみならず、それがわれわれ人間にとって何を意味するかという文脈で語った。「ヒーローの行為とは普通の人が他人に対して普通でないことをしてあげるということです」と司令官は指摘して、現場を通った他の運転者がやらなかったことを軍曹が実行したことを賞賛した。

報道関係者も式に招待されたが、地元住民の命が米軍関係者の行動により救われたにもかかわらず、驚いたことに地元の新聞社2社とテレビ局は出席しなかった。

琉球新報、沖縄タイムスがともに参加しなかったことは非常に残念なことであった。彼らは連絡を受けており、「命は宝」という沖縄人の言葉に同意するだろうから、救命行為を賞賛して取材する価値があったはずだ。

意図的に報道しない「ミス・インフォメーション」

このいい話を報道しなかったことは、「ミス・インフォーメーション」、つまり前向きなニュースを、しばしば意図的に報道しないというひとつの例である。これらの記事には、友情、人間性のある行為、善行、コミュニティー関係、そして米軍の存在や日米関係をめぐるさまざまな側面についての記事が含まれる。メディアは、肯定的な事実を報道しないことにより、厳に存在する実際の関係を間違った形で描写し、その代りに否定的でセンセーショナルなものに焦点を当てている。

この事故を報道する機会は実際いくつかあったが、取材しないという意識的な決定があったようだ。最初のチャンスは事故直後に警察などが現場に初動したときである。次のチャンスは12月31日、電子新聞Okinawa Marine(沖縄海兵隊)に事故の目撃者の投稿が掲載されたときだ。1月5日には日本語でも公開された。地元メディアは米軍の発表する情報を定期的にモニターしているが、ほとんどの場合それに基づく報道はしない。

そして最後のチャンスとしては、地元メディアが式への招待状を1月8日に受け取ってから事故について知り得た時だった。しかし、悲しきかな、かれらは式典に出席し、報道し、この日に沖縄における米軍の隣人であるかれらの読者のために公表されたメッセージを共有するという選択をしなかった。

このことで私は悲しい結論に達した。琉球新報と沖縄タイムスは沖縄の米軍取材で偏向しているということだ。日本新聞協会が2000年に採択した新聞倫理綱領に違反しているということだ。

防戦体制のメディアが繰り出す無差別砲撃

有名な保守派のコメンテーターである百田尚樹氏は6月25日、自民党の若手政治家、約40人でつくる勉強会に出席、沖縄のメディアは政府に批判的だという質問者の意見に同意した上で、「沖縄のふたつの新聞は潰さないといけない」と語った。

百田氏は後にこのコメントは冗談だと説明したが、議論は他の話題にも移り、沖縄、本土、そして日本在住の外国メディアが同氏の発言を激しく攻撃した。自民党執行部はすぐさま行動を取り、勉強会の主催者や攻撃的と捉えられた発言をした他の出席者に制裁措置を取った。安倍晋三首相自身もこの問題が国会での安保法制審議に悪影響を与えかねないと懸念したこともあり、連立相手の公明党に対して謝罪した。

しかしながら「百田事件」について最も驚いたことは彼のコメントではなかった。さらに、沖縄のふたつの新聞社が非常に否定的な反応を示したこと、つまり抗議声明を発表したり、朝日新聞のような業界仲間と共闘して社説で百田氏を糾弾したり、日本外国特派員協会でのこれらの仲間の集まりで発言したりしたことでもない。最も驚いたのは、メディアそのものが、言論の自由、報道の自由の名の下に、ひとりの民間人の言論の自由を露骨に犯していたことについて、人々が気付くのが遅かったということである。

一連の発言は、沖縄に対して攻撃的であるとか、民主主義、報道の自由、言論の自由に対する脅威であるとの批判がある。メディアはこれらの批判のうちひとつとして、発言の背景となった偏向の存在や意図的にミスリードするカバー体制、そしてこのような状況下における彼ら自身の役割を認識していなかった。沖縄のメディアとかれらの仲間全体は、自己評価をするいい機会を捉えるのではなく、いわば防戦体制を固めてすべての方向に“無差別砲撃”を行っている。

間違いや不作為を犯したメディアの責任

那覇市民の平良哲氏が、2014年11月6日付琉球新報の読者欄で「新聞は大きな公共性があり、民主主義の根幹をなす中立・公正に基づく正確な報道が求められている。私たちは新聞に民主主義を維持するための機関として購読料を払い、深い関心と期待をもって読んでいる」と書いている。

わたしは平良氏のコメントにまったく同意するし、琉球新報がこれを掲載したことを喜んでいる。ただ、同紙の編集者がこの皮肉に気が付いているかどうかだ。沖縄2紙が真剣にかつ透明性を持って、新聞倫理綱領と読者の期待に反していないか自問することが必要である。

これまでの報道で間違いを犯したり、不作為を通したメディアの無責任さは、日本の最南県沖縄ではなお一層深刻である。というのは、そこにはあけすけな反基地・反政府アジェンダや、ほとんど閉ざされたメディア市場という存在があるからだ。

私はおそらく個人的に長年働いてきたアカデミズムの世界を除いて、メディアにはほかのどの社会部門よりも多くの友人を持っている。ジャーナリズムというのは、思慮深くて思いやりのある多くの人々にとっての職業である。このようなジャーナリズムの特性は、正しいことをすること、つまり、しかるべき建設的な批判を反映させ受け入れること(特に歓迎されない批判)また、報道活動においてオープンで誠実であることによって、その特権を一層発揮させられるものだと望んでいる。

一部メディアは、百田氏や自民党勉強会のメンバーのコメントについて「寒々しさ」を覚えると主張している。しかしながら私は、この事件の直後にメディアが示した「報復力」に寒々とした。ひとりの市民が報復もできずにメディアを批判できないようなら、われわれは何の権利をもっているのだろうか。メディアは百田氏の発言を「民主主義に対する挑戦である」とレッテルを貼ったが、私にとっては馴れ合い状態にあるメディアの現状こそ、最大の挑戦だと思える。われわれはメディアから何を信じるべきか指示されなくてはならないのか、かれらがわれわれのパラメーターをつくるべきなのだろか。

私は実際、メディア自身が、権力であるとの自覚を持っているかどうかと疑う。「第四の権力」であるメディアは、願わくば一般国民を代表して政府をチェックする役割を演じる。このことは常には現実となっていないが、われわれは、メディアが崇高な目標に従い、偏狭な既得権益に対してではなく、われわれ共通の願い、万人の持つ懸念に対して応えるよう期待している。

不幸にも、今日のメディアは偏向したかたちで、またしばしば政治的な目的を持って報道された真実でないことや正しくないことを報道し続けるという状況にある。

責任ある読者がもうひとつの鍵

これらの問題は、学者として沖縄のメディアと緊密に働いた人たちが非常に憂慮する原因になっているだけでなく、報道機関の役割をめぐり日本で起こっている論争の観点からも特に深刻である。地元、地方、全国、国際レベルを問わずメディアはダブルスタンダード(二重基準)を持つことはできない。もし持つならばさらに信用を失うことになる。

私はこの論文を皮肉ではないが米国独立記念日の7月4日に執筆している。最も偉大な民主主義思想家のひとりであり独立宣言の起草者であるトーマス・ジェファーソンは1787年に書いた以下の文で有名である。「もし、新聞のない政府か政府のない新聞のどちらかを選択する決定を私がしなければならないなら、一瞬の躊躇もなく後者を選択する」

同時にジェファーソンは、報道機関も無責任になりかねないということを知っていた。1800年に彼は以下のように警告している。「まったく物を読まない人間は新聞しか読まない人間よりより教養がある」。われわれは深さと幅のある情報を得るために依然としてメディアを必要としている一方、われわれはこの同じメディアがときたま(ある場合では規則的に)やり過ぎや無責任さを露呈することを認識する必要がある。

日本新聞協会は2000年6月21日に新聞倫理綱領を採択、そこでは、「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」とうたっている。わたしは今までの報道姿勢を見てきたが、メディアの多くはこの綱領に従って行動していない。この状況は特に沖縄において当てはまる。読者の一員としてわれわれはこれらの問題を伝える責務がある。

メディアが正当で建設的な批判を受け入れ、自身をさいなむ問題を早く解決すればするほど、われわれすべてがよりよくなる。でなければ、国民のメディアに対する信頼が落ち続け、ほかの情報収集手段が増加し、国民のメディアに対する監視が深まることになる。

(2015年7月4日、英語で執筆)

カバー写真=仲間一・金武町長より、2014年12月23日の住民救助をめぐり表彰されるジェイコブ・バウマン3等軍曹(提供=第3海兵遠征軍・海兵隊太平洋基地ソール・J・ラーソン伍長)

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  • [2015.08.14]

元大阪大学准教授、元米海兵隊太平洋基地政務外交部次長。1968年米国生まれ。神戸大学大学院法学研究科博士課程修了。政治学博士。著書に『沖縄問題の起源』(サントリー学芸賞受賞)、『尖閣問題の起源』、『だれが沖縄を殺すのか』(PHP新書)『オキナワ論』(新潮新書)など多数。メールアドレス:robert@robertdeldridge.com.

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