「集団的自衛権行使容認」をめぐる議論の焦点は政治的成熟

渡邊 啓貴【Profile】

[2015.09.11] 他の言語で読む : 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL |

十分に理解されていない安保法制

今般の集団的自衛権をめぐる論争は論点が拡散した議論になっているようにみえる。そこで以下に、グローバルな視点と自衛隊の海外協力をめぐる議論の混乱というふたつの観点から議論を整理してみたい。

ただし、本稿では「自衛隊は違憲か否か」「自衛隊の海外派遣は第九条違反か否か」という問題をめぐる議論はしない。それは自衛隊の存在はすでに現実であるし、今の段階での自衛隊の海外活動は国際的には歓迎されているからである。その意味では筆者は、憲法を実態に即したものにその表現を修正するという立場である。従来から主張されている改憲派のひとつの立場だと自分では思っている。

また本論は、第一に個別的自衛権の延長としての集団的自衛権の行使によって日本の防衛を考える立場であり、第二に国際貢献の手段としての自衛隊の海外協力を認める立場である。この考え方は多くの日本人が共有するところであると思う。日米安保体制を国民の過半数以上が支持し、国連協力法の存在は国民の受け入れるところであることは改めて言うまでもない。

そうした前提の上で、筆者を含めて今般の集団的自衛権と安全保障関連法について多くの国民が十分な理解に達していないというのは現実である。主要各紙の世論調査では、否定的な意見が多くなっている。議論の整理がきちんとしにくいことと、その行方に対するフラストレーションがあるからである。

個別的自衛権としての日米同盟

第一に、改めて言うまでもなく、東・南シナ海で海空軍を強化する中国の軍事攻勢に対抗することと、北朝鮮のミサイル攻撃・不測の事態に対する備えは今日本にとって喫緊の安全保障問題である。したがって、日本の防衛強化のために日米同盟の連帯と協力をもっと進めていくという論法は分かりやすい議論である。

脅威認識の問題はここでは議論しないが、国益擁護と防衛のために自衛隊と米軍の軍事防衛協力は当然のことである。日米同盟とは第一義的にそのためにある。その場合にどのように協力するのかということは、むしろ危機管理の問題である。

しかしこれは基本的には日本の防衛という個別的自衛権を出発点とする議論である。日米同盟の強化はあくまでも日本の本来の個別的自衛権の延長としてとらえられ、そのための他国との協力=同盟協力強化という意味で集団的自衛権の行使が認められねばならない。この論法は自然である。多くの国民にとってこの範囲での議論は理解できることであろう。集団的自衛権は個別的自衛権の延長上にあるとする解釈の立場である。

集団的自衛権と海外派兵の論理

問題は、そうではないときの協力である。別な言い方をすると、米国の世界認識の下で「上(米国)から降ってきた場合の協力要請」である。つまりグローバルな同盟協力への日本の対応である。日米同盟はグローバルな範囲で利益共有するという前提に立っているが、だからと言ってアメリカの要請で世界中どこでも自衛隊を派遣することができるのか。

これについて、政府は常に「100%了解」というわけではないという立場である。日本には独自の世界認識による判断があるはずだからである。しかしこの点が国民感情としては不安なのである。

第一に西側でもっとも成功した同盟と言われるNATOは日米同盟と違って、多国間(マルチ)の同盟であるが、その防衛範囲は定められている。域外派遣論争はNATO設立以後、冷戦後から今日まで解決したわけではない。イラク戦争の時に見られたように常に論争の種である。ある意味ではケースバイケースの議論と言ってもよい。冷戦後、多国籍軍や有志連合という表現が使われてきたのはそのためである。

ホルムズ海峡の重要性は分かるが、その戦略的認識は日米では異なっていよう。米軍がミサイル攻撃を受けた場合に自衛隊がどのように協力するのか、という議論は、先ずミサイル攻撃を受けるような事態に自衛隊がもともとどのようにかかわっているのか、そのような現場になぜ自衛隊が派遣されているのか、が前提となる。これは政治戦略的判断が必要な事態ではないだろうか。

日米関係重視は日本外交の主軸であることに変わりはないが、同盟の名のもとに米国の自衛隊派遣要請が実際には「自動化」するという懸念は国民一般に強い。同盟協力の場合には、基本的には、その時々の日米安保条約第五条の適用の仕方による。邦人保護や日米共同任務の際に相互扶助的な共同防衛行動はむしろ自然であるが、共通敵の認識や共同の戦略・戦術目標もないところに戦闘協力の義務が自動的あるいは強制的に課されるのも困る。

同盟の中の「負担の共有化」の前提としての「決定の共有化(同盟国間の共同決定プロセス)」が必要である。国民の不安とフラストレーションの背景にはそれがある。

すでに行使されてきた集団的自衛権

実は原理原則論から言うと、我が国は集団的自衛権をすでに行使していると筆者は見なしている。集団的自衛権は元来の議論が、国連憲章第五十一条に定められた地域的集団安全保障の議論にまで遡り、国連の枠組みの集団安全保障措置と結びついた概念である。しかしこれを同盟関係の文脈で考えるならば、NATO第五条と日米安全保障条約五条に掲げられた集団防衛の意味として一般には解釈されている(いわゆる「五条任務」)。

周知のように冷戦時代、NATOはこの五条任務を発動させることはなかった。これまでに最初で最後となった五条任務の発動は、9•11直後の多国籍軍のアフガン攻撃のときであった。しかしこのときの集団的自衛権行使発動には、モラルサポートも含むものであった。実際にこのNATO域外地域に派兵できないドイツや、実際に軍事力を有しないアイスランド等が含まれているからである。第五条の同盟協力には軍事的支援協力が義務化されている訳ではない。

この広義の集団的自衛権の解釈からすると、日本はすでに、多大な後方支援、資金提供等で多国籍軍や同盟国に対して集団的自衛権を行使しているというのが、筆者の立場である。他方で軍事協力支援は要請があれば必ずしも自動的に負うべき義務ではない。

グローバル・プレイヤーとしての政治的成熟

「グローバルな戦略的パートナー」という表現は用いられているが、軍事防衛分野での地球規模での日米協力についての国民的理解はまだまだであると思う。今般の国民の感情的な反発の大きな原因のひとつであると思う。

筆者はこの「パートナー」という立場をもっと進めて、日本は「グローバル・プレイヤー」としての見識を世界にアピールし、そうした中で責任ある貢献をしていくべきであり、同盟もその枠の中で位置づけられるべきだと考える。日本の主体的平和貢献の目標を確実にすることを通して同盟協力の在り方を模索して行くべきである。

たとえばすでにわれわれが経験したように、同盟と国際社会の方向が異なったときには(イラク戦争のときのように)、どちらを優先するのか。あるいはそのあたりのすり合わせを、国内と日米関係の中でどのように進めていくのか、という問題が発生する。現在の議論はそこの部分をきちんと問うていない。ドイツの学者の統計では、現実には日本は国連と米国の決定が相対立するときに、つねに米国の立場を支持してきたという。今後は相対立する認識と見解のすり合わせを、きちんと議論できる枠組みを提示することも日本の役割ではないであろうか。

そして同盟にせよ、国連の枠組みにせよ、自衛隊派遣を最後に決断するのは、国民的コンセンサスに支えられた政府の主体的判断である。それはマニュアル化された基準に基づいたものではない。国際社会にそのような「客観的基準」は存在しない。生々流転の国際環境に対する広い認識を持ち、長期・短期の戦略目標を前提に、適切な決断を柔軟に行い対応する能力こそが不可欠である。問われているのは、国民と指導者の政治的成熟である。今般の議論の核心は実はそこにあると思う。

カバー写真=日米同盟の結びつきはさらに強くなっていく。陸上自衛隊と米海兵隊の離島奪還合同演習(提供・時事)

この記事につけられたタグ:
  • [2015.09.11]

nippon.com分科会委員。東京外国語大学国際関係研究所所長。1978年東京外大フランス語学科卒、80年同大大学院地域文化研究科修了、83年慶大大学院法学研究科博士課程修了、88年パリ第一大学大学院博士課程修了、99年から東京外大教授。2008~10年在仏日本大使館公使(広報・文化担当)。『Cahiers du Japon』『外交』各誌の編集委員長を歴任。著書に『ミッテラン時代のフランス』(芦書房、1990年=渋沢・クローデル賞受賞)、『フランス現代史』(中央公論新書、1998年)、『ポスト帝国』(駿河台出版、2006年)、『米欧関係の協調と対立』(有斐閣、2008年)、『フランスの文化外交戦略に学ぶ』(大修館書店、2013年)、『シャルル・ドゴール』(慶応義塾大学出版会、2013年)、『現代フランス—栄光の時代の終焉、欧州への活路』(岩波書店、2015年)、『アジア共同体を考える』(編著、芦書房、2015年)など多数。

関連記事
その他のコラム

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告