「世界のミフネ」と呼ばれた男—三船敏郎

松田 美智子【Profile】

[2015.10.19] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL | Русский |

ゴジラに次いでハリウッド殿堂入り

2016年、没後20年近くを経て、日本の戦後映画界を代表する大スター・三船敏郎は米ハリウッドの殿堂「ウォーク・オブ・フェイム」に名を刻む。日本関連では、早川雪州、マコ岩松、ゴジラに続く殿堂入りである。また、今年は三船が主演した映画『赤ひげ』がベネチア国際映画祭で主演男優賞を受賞してから50年になる。それを記念して9月に開催された同映画祭でデジタルリマスター版が上映され、再び三船の評価が高まっている。

撮影の合間にタバコを加える姿がよく見られた。晩年もタバコを手放すことはなかった。

三船敏郎(1920~97年)は77年間の生涯で150本もの映像作品を残した。その間、国内外で数多くの賞を授かり、国際的スターになったが、彼の人生は決して幸せなものとはいえなかった。信頼していた部下の造反にあい、女性問題でスキャンダルにまみれてマスコミの恰好の餌食になったこともある。それもこれも、彼の律義で情に厚い性格が起因していた。

「世界のミフネ」と呼ばれる俳優はいかにして生まれ、どんな最後を迎えたのか、波乱に満ちた人生をたどる。

中国大連で生まれ育ち19歳で徴兵

三船は1920年4月1日、中国山東省で誕生し、5歳から19歳まで大連で暮らした。父親が写真館を営んでいたことから、三船も写真技術に詳しくなった。少年期のほとんどを過ごした大連について、三船はある雑誌インタビューで、「ちょっとコスモポリタン的な雰囲気をもった明るい風光に囲まれた清潔な街でした。(中略)三船は外人キラーだといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、全然コンプレックスを感じたことがないのです」と語っている。

徴兵後は満州陸軍第七航空部隊に入隊。写真の経験があるということから写真部に配属され、航空写真を扱った。

1939年、三船は19歳で召集され、終戦までの約6年間の軍隊生活が始まった。この軍隊での生活が三船の人格形成に大きな影響を与えることになる。主な任務は、偵察機が撮影してきた写真を組み合わせ、敵地の地図を作る作業だった。この作業を続けた結果、機敏さと緻密さ、繊細さが培われた。

戦争末期になると、三船は九州の特攻隊基地に配属され、少年航空兵の教育係となった。少年たちを訓練して特攻に送り出すのが任務だが、三船は出陣の挨拶にきた少年兵にスキヤキを食べさせ「最後の時は『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『おかあちゃん!』と叫べ」と話した。少年兵たちの遺影となる写真撮影も三船の役目で、彼はレンズの奥にまだ頬が紅い童顔を数えきれないほど見ている。二度と戻ってこない少年を送り出すのは、過酷ともいえる辛い経験だった。

1946年、26歳の時に東宝撮影所にカメラマンの助手の仕事を志願するが、「東宝ニューフェイス」の面接を受けることになり、役者として補欠採用された。

のちに三船は、自分の息子たちを前に置いて、戦争体験を語り、ボロボロと涙を流した。三船にとって戦争は「無益な殺戮」だった。

黒澤監督の“完璧主義”にストレス爆発

1946年、終戦の翌年の春、三船は世田谷区砧の東宝撮影所で「ニューフェイス」の試験を受けた。本来はカメラマン志望だったが、定員が一杯だったため、いつか撮影部に呼んでくれることを条件に、渋々、試験を受けたのだ。審査結果は不合格。だが、審査委員長の山本嘉次郎監督の「ああいう風変わりなのが一人くらいいてもいいだろう」の一言で補欠合格となった。この日から、三船は意志に反して、俳優への道を歩みだすことになる。

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1947年、谷口千吉監督の『銀嶺の果て』に出演した三船は、新鮮かつ強烈な個性を黒澤明監督に認められ、同監督の『酔いどれ天使』(1948年)で主役デビューを果たす。

この作品を皮切りに、黒澤と三船は日本映画界の歴史に残る作品を生み出していく。二人が組んだ作品は16本で、特に『羅生門』(1950年)と『七人の侍』(1954年)は国際的な評価を受け、世界に黒澤、三船の名を轟かせた。一方で、完璧を求める黒澤監督の要求は高く、ストレスが蓄積した三船が泥酔して、夜中に「黒澤のバカヤロウ!」と叫ぶ姿が目撃されるようになる。

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蜘蛛巣城』(1957年)の撮影で、本物の矢を至近距離から数十本も射られた三船は、命の危険を感じたという。それでも三船は黒澤監督の要求に応えるため、日々の努力を怠らなかった。武術の鍛練もその一つで、彼の立ち回りの凄さは、熟達の殺陣師が舌を巻くほどだった。数人の敵役をまとめて斬るときの刀の動きが異様に速く、36ミリのフィルムに映らなかったというエピソードがある。

黒澤監督:「猛獣使いになったようだ」

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黒澤監督と二人三脚で日本映画の黄金期を駆け抜けた三船だったが、1965年の『赤ひげ』を最後に、二人が仕事を共にすることはなくなった。そのため、不仲説が流れたが、黒澤の長男の久雄は不仲説を否定し、「二人は単に監督と俳優という関係ではなく、いわば同志的関係。エンジンと車体のような関係だった」と語った。

さらに、久雄によれば、黒澤は三船を猛獣に例えたという。三船と仕事をするのは、「猛獣使いになったようだ」と話し、強烈なオーラを放つ俳優を演出する自分もまた常に緊張状態にあった、と吐露したそうだ。

『用心棒』(1961年)撮影中の東宝スタジオにて。

やはり、黒澤監督が一番に愛した俳優は三船敏郎であり、三船もまた、監督を敬愛し、再び組んで仕事をしたいと望んでいた。時代の大きな変化が、結果的に二人を引き離したというのが、不仲説の真相だ。

三船プロダクション設立とハリウッドデビュー

デビューから15年、日本を代表する映画スターとなった三船は、海外からのオファーを受けてメキシコ映画『価値ある男』(1961年)に出演。1966年にはジョン・フランケンハイマー監督の『グラン・プリ』でハリウッドデビューを果たした。

テレンス・ヤング監督の『レッド・サン』(1971年)では、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演した。

「世界のミフネ」と呼ばれるようになった三船だが、どれほど大物になろうと、驕ることはなかった。親交があった誰もが「三船さんは几帳面で、気遣いの人」と口を揃える。きれい好きで、汚れを見つけると率先して掃除をするという面もあった。裏方のスタッフたちにも思いやりを持って接する三船は、その人柄で愛されていた。

三船が海外進出を果たした頃、日本の映画界は方向転換を余儀なくされていた。テレビの普及で映画の観客数が減り続けていたのだ。東宝は世田谷区成城の砧(きぬた)撮影所の閉鎖を決定。三船にプロダクションを作って、映画を制作するように勧めた。

そして1963年、三船プロダクションの第一回作品『五十万人の遺産 』が公開。この映画の制作のときには自社の撮影所を持っていなかった三船は、1966年、世田谷区成城に二千坪の撮影所を建設した。その後もベネチア国際映画祭でフィプレシ賞を受賞した小林正樹監督の『上意討ち』(1967年)や五社協定の厚い壁に挑んだ『黒部の太陽』(1968年)、『風林火山』(1969年)などの大作を制作し、三船プロダクションは全盛期を迎えたかに思えた。

『グラン・プリ』撮影中、ジョン・フランケンハイマー監督のディレクターズチェアの隣で(左)。/自分が表紙を飾ったLIFE誌を眺める(右)。

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  • [2015.10.19]

山口県生まれ。作家。舞台女優として活動し、1975年に俳優の松田優作と結婚。長女をもうけた後、81年に離婚。その後、シナリオライター、ノンフィクション作家、小説家として活躍。主な著書に『サムライ 評伝三船敏郎』(文芸春秋、2014年)、『新潟少女監禁事件』(朝日新聞出版、2009年)、『越境者 松田優作』(新潮社、2010年)等。

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