“生命の記念碑”としての広島

ヴィターリー・ポルトニコフ【Profile】

[2015.12.17] 他の言語で読む : ENGLISH | Русский |

初めての広島と新たなる戦禍の現代へのメッセージ

私は2015年11月14日、初めて広島の地を訪れた。

広島を訪れる旅行者のほとんどが最初に足を運ぶのは、平和記念資料館と平和記念公園ではないだろうか。平和記念資料館は、1945年8月6日に広島で起こった出来事を強く想起させるものであるからだ。

大量殺戮の記録を留める世界のあらゆる記念館と同様に、平和記念資料館は「永遠」であり、なぜ、人類は、あらゆる大惨事、原爆による惨劇からさえも、何の教訓を導き出そうとしないのかと常に私達に問いかけている。

広島の悲劇から70年が経過した。しかし、戦争は、今日もクラウゼヴィッツ(※1)の言うところの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」である。今日も、核兵器ではない「通常の」、しかし最新鋭の兵器による空爆で「核兵器規模の損失」を与えるべきかどうかとの議論がやむことはない。

今日、ウクライナで、再び、幾つもの都市が破壊され、人々が家族を失い、多くの血が流されるようになった。私は広島の悲劇を今までとはまったく異なった視線で見るようになったのである。屈託なく平和な世の中で生きる者の視線ではなく、常に戦火と隣り合わせ、新たなる戦禍の予兆の中で生きる者としての視点でである。

広島を見ても悔い改めない世界

だからこそ、平和資料館を訪れてから、私の疑問は日増しに大きくなるばかりなのである。広島のような悲劇が起こってしまった後になっても、何故、人類は悔い改めることができないのであろうか、何故、今日も武力による侵略行為は日常的に起こっているのだろうか?

もちろん、広島に居るときだけ、このようなことを考えるのではない。しかし、悲劇の地・広島では、このような考えは、特に切実なものとなる。

平和資料館の記帳アルバムの写真を見る限り、メッセージを寄せた著名な政治家たち、つまり、国際社会で意思決定を行った人々、または現在も行っている人々は、皆、この悲劇を悼む顔をしている。ここで私は再び思う。原爆により一つの都市が壊滅した事実に思いを馳せるとき、血の通った人なら誰でも感じるであろう深い悼み、個人のレベルでの悲しみは、なぜ、戦争を断じて回避するという、集団としての意志へと結実していかないのだろうかと。しかも、今日、戦争はもう中世の剣での戦いや20世紀の戦闘機の空中戦や戦車戦ではなく、あらゆる人を一瞬にして殺害するような容赦ない死刑宣告と化しているのである。

しかし世界は、いつものごとく、言い訳のようなことを言い始めている。

「世界を滅亡させることができるものこそが、世界を救うのである。武器として使うためのものではなく、抑止力の為のものなのだ」という考えだ。私たちは、皆、「私たちが住んでいるのは決して死刑囚の監房などではない。『この世を唯一、絶滅から救うことができるのは、良識ではなく原子爆弾である』とする世界に生きているのだ」という希望のようなものの中に生き続けている。実に奇妙な世界である。1945年8月6日の原爆投下の後、一体、世界はどのような姿になることができたのであろうか?

核による破壊の後も生をあきらめなかった広島

今日の広島の姿は非常に重要である。広島は、文字通り、すべてが破壊された廃墟の灰の中から、住民の絶望の中から、再び出現した街である。もし、これが広島でなかったら、灰と化した空間が再び人々が生活を営む街となることはなかったのではないか。単に、跡地として、巨大な記念公園として、悲劇の記憶を留め、未来に警鐘を鳴らし続けていたのかもしれない。しかし、日本での出来事だったからこそ、そうはならなかった。

もし、日本の民衆の底力を感じたいと思うのであったら、東京の高層ビル群や京都の古寺を見てまわるよりも、広島に行くべきである。生きとし生けるものが死滅し、再び生命を取り戻すことは不可能だと誰もが考えていたこの街に足を運ばなくてはならない。

人は、原子爆弾が投下された場所に、再び街を築こうとするのだろうか? 自分たちの街が、国内外で最も快適な街の一つと言われるようになるまで諦めずに死力を尽くすだろうか? 自分の街がこれからも存在し続けるために、もう二度と広島の街を目にすることがなくなってしまった近しい人々の記憶のために、この街に住み続けることができるのだろうか?

人々にとって、本当の意味で悲劇の記憶を留めるものとはなんであろうか? 平和資料館? 平和公園? 記念碑? それとも、人類史上、最も恐ろしい傷を受けながらも立ち上がった街そのものであろうか?その答えは明らかである。そう、広島の街そのものだ。

大切なのは、今日の広島が特別に際立った街という訳ではないということ。公園、通り、建物、渋滞 … 通りは急ぎ足の歩行者で溢れ、若者たちはカフェで時を過ごしている … 広島は、ごく普通の日本の街なのである。広島は、復興し、不死鳥のように蘇ったと言われるが、それは正しくない。広島は、再び、新しく生まれたのである。

原爆投下によって街は跡形もなく消滅し、あの日から、計り知ることのできない被爆の恐ろしさは今日までも連綿と続いている。広島は、スターリングラード(※2)やドレスデン(※3)とは決定的に違うのである。戦禍で瓦礫の山となった街には、新たに建物をつくり、道路を建設することもできる。では、原爆で焼け野原となった広島に住むことはできるのだろうか? 1945年8月の時点では、この問いに対する答えはなかった。いや、当時は、広島は永遠に灰のままであり、人々は「死の地」としての広島を忌避し続けるだろうと考えられていた。

しかし、まったく逆の展開となった。広島は、新しい生命を得て、真新しい人生をスタートさせた。死の淵から生還した重病人のように、この世界に新たな彩りと輝きを見出すようになったのである。

広島の意味 ― いかなる破壊からも再生は可能であるということ

私は、普通の日本の中高生や大学生にとっては何がこの街の魅力なのだろうと考えた。修学旅行の生徒たちは平和公園を訪れ、原爆の悲劇を学ぶ … その後、彼らはどこで過ごすのだろう? マツダミュージアムにでも行くのだろうか? クルマが好きな人であれば、ヨーロッパやアメリカやアジアの街を訪れるように、マツダの車を見に広島に行くこともあるだろうから。同じように、美術館に行くこともあるだろうし、単に街を散歩してウィンドーショッピングをすることもあるだろう。ごくありふれた日常を過ごすということだ。

このような日常は、パリでも、ロンドンでも、北京でも、ニューヨークでも、東京でも、あらゆる世界の街で過ごすことができる。ただ、世界の人々にとっては、広島は原爆の悲劇の象徴なのである。

ただ、それは広島の街を散歩していたり、マツダの車にハマっていたり、市の中心部のカフェでコーヒーを飲んでいたりする人にはまったく関係のないことだ。人々は、いつも原爆や犠牲者のことを考えている訳ではないからだ。普通、人は自分の日常の色々な事について考えているものである。

ここにこそ広島の最も大きな秘密と広島が私たちに示してくれる教訓がある。今日も広島では、生命が躍動しているというところに!

原爆ドーム(手前)。上は平和記念式典が行われる平和記念公園(広島市中区)(提供・時事)

日本の人々にとっては、このような広島の姿は、当たり前のこととなっている。人は、死よりも生の方に早く慣れてしまう習性をもっている。だからこそ、日本の人々にとっては、平和公園と平和資料館は、広島の街の中心であり、原爆の思い出こそが、この街の歴史的な存在意義であるかのように感じられるのかもしれない。

実際のところ、世界で多くの人が原爆投下の前から広島と長崎を知っていた。けれど、今日では、ヒロシマという言葉は、単なる街の名前ではなくなっている。

しかし、この近代的で魅力に溢れた街・広島を初めて訪れた人々にとって、ここで日々営まれているごく普通の生活こそ最も強く心を揺り動かされるものである。そして、広島の市井の人々の日常の姿は、広島を訪れる者にとって何よりも力強い希望となる。この希望は、世界のすべての人々のものであると同時に、今、戦禍と隣り合わせる私たち一人一人に向けて贈られた希望でもあるのである。

人類は原爆の悲劇から教訓を得ることはできなかった。毎年のように、次々と新しい国が核保有国の一員に加わろうとしている。今日も、世界を支配しているのは法と秩序ではなく、暴力である。しかし、それでも死の灰の中から立ち上がった街は、自らの存在で、生命の大いなる力を、世界に証明しつづけているのである。

バナー写真: 原爆の熱線と爆風を奇跡的に生き延びたアオギリ。原爆投下の翌年の1946年春には芽が咲いている。このアオギリから育てた苗木「被爆アオギリ二世」は世界中に植樹されている。

(※1)^ 「戦争論」プロイセン軍の将校としてナポレオン戦争に参加したクラウゼヴィッツが戦争と軍事戦略に関して記した著

(※2)^ 第二次大戦中の独ソ戦で、スターリンの名を冠した都市で繰りひろげられた枢軸軍とソビエト赤軍の戦いは熾烈を極め、街は瓦礫と化した。死者は枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後とされている。

(※3)^ ナチス・ドイツ降伏前の 1945年2月、英米軍による爆撃で、市全域の85%が破壊、犠牲者の数は、約2万5000人とも13万5000人とも言われている。

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  • [2015.12.17]

政治分析家 ニュースキャスター 「ラジオ・スヴァボーダ」論説委員 1990年モスクワ大学ジャーナリスト学部卒業 1989-1995年 「独立新聞」論説委員(モスクワ)、2010-2012年ウクライナのテレビ局「ТВі」編集長、2013年11月よりEspresso TVでメインキャスターを務める。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、ポーランド、イスラエルの大手メディアに定期的に評論を寄稿。

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