露日協約100周年

ワシーリー・モロジャコフ【Profile】

[2016.07.04] 他の言語で読む : 简体字 | 繁體字 | Русский |

百年一昔 露日戦争の後

ロシア語で「100年」という言葉は魔法のような力をもっている。「100歳まで生きたい」というのは、「永遠の生命を得たい」というのと同じことのように受け止められている。日本とは違い、ロシアでは100歳まで生きることができる人はごくわずかであることも、その一因であるのかもしれない。

100周年というのは最も重みのある節目ではないだろうか。人は、出来事そのものがそんなに重要ではなくても、ちょうど100年前に起こったことであれば関心を持つものである。それに、露日協約(第4次)(※1)の締結のことを「重要ではない」ということは誰にもできないであろう。

1916年(大正5年)7月3日、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)で、ロシア外相セルゲイ・サゾーノフ、駐ロシア日本大使・本野一郎が協約に調印、大日本帝国とロシア帝国は軍事・政治同盟を結んだ。露日関係史の中でも両国の関係が最も密接となった瞬間だった。しかし、翌1917年に勃発したロシア革命によって露日同盟は効力を失い、大きな可能性を含んでいたロシアと日本の2国間協力は闇に葬られてしまった。残念極まりないことだ。しかし、歴史に「もしも」はない。今になって、一体、どれだけ可能性がを失われてしまったのかと考えても不毛なだけである。ここでは史実にのみ注目しよう。

山県有朋(1838年~1922年) 写真=近世名士写真 其1、1935年、国立国会図書館所蔵

1915年初頭より、日本の新聞がロシアとの同盟関係構築の必要性について報じ始めた。駐日ロシア大使を務めていたニコライ・マレフスキー・マレービッチは、 サゾーノフ外相への書簡の中でこうしたためている。「この戦争(第一次世界大戦、1914~18年)の開戦した頃から、日本のマスコミは、盛んに露日協約の必要性を訴え始めています。日本中のすべての報道機関が、その必要性を随時、議論しており、露日協約という考え方は、すでに日本社会で市民権を得たようにすら感じられます・・・。露日協約を必要とする声は、ここ日本では日に日に増大するばかりなのです」

露日協約を巡る議論の核心となったのは、何をもって「同盟」とするかという点であった。大部分の人々は、「同盟」とは第三国との対立の際に協約締結国に軍事支援を行うことを義務とする協約であると考えていた。実際、日英同盟はそのようなものであったが、ロシアとの間でも同様な協約が必要かと問われたのだ。

露日協約締結の突破口となった皇室外交

大隈重信(1838年~1922年) 写真=近世名士写真 其2、1935年、国立国会図書館所蔵

1915年2月、元帥・山県有朋は日本政府に対して覚書を提出した。山県は連合国の勝利に対して懐疑的であり、この大戦は引き分けに終わり、世界のパワーバランスが崩壊するだろうと考えていた。さらに、今後、米国の参戦が予想されるアジアでは緊張状態が高まっていくとも考えていた。山県は、日英同盟に加えて、露日協約を結び、軍事支援と中国の領土保全(もちろん、日本とロシア以外の国に中国の領土に触れさせないという意味)を義務付けることを提案したのだった。

大隈重信内閣はこの提案を支持しなかったため、山県は大正天皇の支持を取り付けようとした。そして、ロシア皇帝一家のメンバーが東京を訪問することが、そのための最善の道だと考えた。1915年、武官としてロシア軍の総司令部に身を置いていた陸軍少将の中島正武は、ロシア皇帝一家の外科主治医セルゲイ・フョードロフとの会話の中で、何気ない風を装ってこう語った。「もし皇帝閣下が日本に、ご自身の名代として、いとこのゲオルギー大公を派遣されるのであるとすれば、それは間違いなく好印象を与えることでしょうし、日本は、ドイツとの戦争で、ロシアへの支援をより強めることとなるでしょう」

1916年(大正5年)1月12日付 読売新聞「露國大公殿下を迎へ奉る」

本野一郎(1862年~1918年) 明治、大正の外交官、政治家。1908年、ロシア大使に就任。露日協約の締結に尽力。写真=米国議会図書館

この提案は皇帝ニコライ2世に伝えられ、その翌日のうちに皇帝はゲオルギー・ミハイロビッチ大公(※2)を日本へ派遣することを命じた。訪日の目的とされたのは、大正天皇の即位の祝賀であった。1916年1月にゲオルギー大公が東京に到着した際には、大正天皇自らが駅で出迎えた。

ここでは詳細は省いて重要なことだけ述べよう。当時、それまで外交官たちによって行われてきた個別の問題に関する交渉はことごとく袋小路に追い詰められていたこともあり、山県は外務大臣・石井菊次郎に対して、ロシアとの間で政治全般に関する協定を結ぶことを要求した。山県は、東アジアにおける平和と安全は、日本とロシアという2つの帝国の協力関係によってのみ維持することができると断言した。石井と大隈は、ロシアとの同盟関係の締結を特に望んではいなかったが、山県は自分の主張を押し通したのである。

セルゲイ・サゾーノフ(1860年~1927年) ロシアの外交官。英国および日本との接近を図り、日本と露日協約を締結。写真=プロジェクト・グーテンベルグ

これまでの研究によれば、多くの歴史家は、1916年の第4次露日協約の草案者はロシア大使・本野一郎であるとしていた。しかし、文献の指し示すところによると、露日協約への道を切り開いたのは、外交的な手腕に加えて地政学的な視点にも秀でていた山県有朋であった。山県の戦略の中核となったのは「皇室外交」であった。ロシア皇帝の名代としてゲオルギー大公が東京を訪れること、大正天皇がゲオルギー大公を歓迎することに対しては、誰も公に異を唱えるとはできない。ロシア皇帝の名代の訪日にゴーサインが出れば、それ以外のことは単に手続き上の問題であった。

1916年2月18日、本野はサゾーノフ外相に公式に交渉を開始することを提案し、外交文書を手渡した。ニコライ2世は、極東におけるロシアの覇権が盤石ではないこともあり、ロシアにとって日本との同盟関係は有益であると考えた。露日協約は、露日戦争(1904~1905年)後の両国関係の新たな一歩となった。だから露日協約の締結を、ロシアが極東における影響力を強めるための政策を拒否したことの証左であると捉えるのは誤りである。

(※1)^ 露日戦争(1904~1905年)後の露日間の相互関係を規定した協約。1907年(明治40年)から16年(大正5年)まで、前後4回にわたって締結され、日英同盟とならんで第1次世界大戦前および大戦中における日本外交の中心的な役割を果たす。1916年7月3日、第4次露日協約と共に秘密協定も締結され、露日以外の中国支配を防ぎ、極東における両国の軍事同盟を保障した。しかし翌年3月に帝政ロシアが崩壊し協約は破棄。(編集部注:本稿の日本語版はロシア語原文に従って、日露戦争と日露協約をいずれも「露日」と表記した。)

(※2)^ ゲオルギー・ミハイロビッチ (1863~1919年) ロシア皇帝ニコライ1世の孫の一人。ロシア大公。1916年1月12日ロシア皇帝名代として東京に到着。1月13日に山県有朋と会談し、ロシアへの兵器供給を要請した。ロシア革命後の1919年1月28日、ペトログラードで銃殺刑に処された。

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拓殖大学日本文化研究所教授。1968年モスクワ生まれ。1993年モスクワ国立大学卒業、1996年同大学博士課程修了。歴史学博士(Ph.D., モスクワ国立大学、1996年)、国際社会科学博士(Ph.D.,東京大学2002年)、政治学上級博士(LL.D., モスクワ国立大学、2004年)。2000~2001年、東京大学社会科学研究所客員研究員。2003年、拓殖大学日本文化研究所主任研究員。2012年より現職。ロシア語で著書30冊以上、そのうち日本に関するもの15冊。日本語での著書に『後藤新平と日露関係史』(藤原書店、2009年)、『ジャポニズムのロシア』(藤原書店、2011年)。

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