歴史との和解—広島とゲルニカ

千野 境子【Profile】

[2016.11.25]

今年、2016年5月のオバマ米大統領による被爆地・広島訪問と昨年12月の慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意は、「歴史との和解」がたとえ困難ではあっても決して不可能ではないことを示す画期的な出来事だった。

そして今秋、スペイン北部バスク地方の小都市ゲルニカを訪れて感じたのも、そのことだった。

フランコ死後、祖国に渡った「ゲルニカ」

ゲルニカはピカソの代表作「ゲルニカ」で知られる。いや、町より絵の方が有名かもしれない。

人民戦線とフランコ将軍率いる軍部によるスペイン内戦(または市民戦争)下の1937年4月26日、フランコ側を支援するナチス・ドイツ空軍は同市を無差別爆撃し、パリでその報に接したピカソは爆撃への抗議や失われた命への痛みとともに一気に大作「ゲルニカ」(縦3.45メートル,横7.7メートル)を描き上げ、絵の評判はたちまち世界を席巻したのだった。

長いことニューヨークの近代美術館にあった絵は、フランコ死後の81年に初めて祖国へ渡り、現在はマドリッドのソフィア王妃芸術センターに展示されている。

近代美術館で「ゲルニカ」を見て以来、次はゲルニカの地に立ってみたいというのは長年の念願だった。バスクの中心都市ビルバオからバスに乗り40分ほどで到着したゲルニカは、静かで落ち着いた緑豊かな街で、もう爆撃の痕跡さえなかった。

回想のため、未来のための博物館

国内外から訪れる人々に代わって内戦の記憶を伝えるのが、2000年に開館したゲルニカ平和博物館だ。「回想のための、同時に未来のための博物館」のうたい文句に博物館の性格が凝縮されている。爆撃の歴史だけでなく、未来に向けて平和教育や人権の問題などに熱心に取り組んでいるのだ。私が訪れた時も欧州域内からの平和のスタディツアーといった趣の一団がいた。

館内は「平和とは」「爆撃の遺産とは」「いま世界平和とは」という3つの問い掛けの下に構成され、爆撃を伝える部屋の床はガラス張り。下には瓦礫(がれき)など爆撃の遺品が収められ、壁には当時の戦意高揚ポスターや、戦いへの支援を求めるビラなどが飾られている。あるいは「ゲルニカ」の絵をモチーフにしたプリズムを通して、改めて「ゲルニカ」から紛争、戦争、平和へと思考を深めさせてゆく、そんな趣向の一室もある。

平和博物館の入り口 (左)。床にはゲルニカ爆撃の遺品の数々が収められている(右)

だから同館を訪れた日本人の多くは、恐らく自然と広島に思いをはせてゆくだろう。もちろん2つの街は、爆撃の理由や経緯も爆弾の種類も被害の状況も全て異なる。しかし両市は、前者は史上初の都市無差別爆撃の、後者は人類史上初の原爆投下の地として、繰り返してはならない過ち、悲劇を後世に伝えるとともに灰塵(かいじん)からよみがえり、世界に平和のための発信を続けている。つまり両市には共通の記憶、共通の使命があるように思える。

世界に広がる「キッズゲルニカ」プロジェクト

事実、ゲルニカと広島、そしてもう1つの被爆都市、長崎には実際につながりもある。この夏、広島と長崎では「ゲルニカ」に着想を得た「キッズゲルニカ」展が開かれた。同展は「ゲルニカ」と同じサイズのキャンバスに子どもたちが平和の絵を描いてゆくアート・プロジェクトで、1995年に始まった。その後2000年には国際委員会が設立され、いまでは45カ国で210点以上の平和の絵が制作され、世界を巡回している。

思えばキッズゲルニカは「ゲルニカ」にふさわしいプロジェクトだ。ピカソの「ゲルニカ」も、パリからニューヨークへ、スペインに来てからもプラド美術館、ソフィア王妃芸術センターへと運ばれている。

実はゲルニカも「うちこそ本家」とばかり誘致に手を挙げたがかなわなかった。代わりに閑静な住宅街を歩くと、道の一角に「ゲルニカ」の複製画があった。ゲルニカの人々にとって「ゲルニカ」はもう街の一部になっている。

しかしゲルニカは例外的な街という気もしないではない。内戦を巡る「歴史との和解」はいまなおスペインで未解決の課題だ。スペインに限らず国民を敵味方に分断する内戦は、ある意味で戦争より残酷で、和解は容易ではない。

住宅街の一角に描かれたゲルニカの複製画

フランコの評価を巡る亀裂

マドリードからバスで1時間ほどのサン・ロレンソ・デル・エスコリアルの山間にある、内戦の戦死者たちを埋葬する「戦没者の谷」の去就に関して起きた論争が内戦を巡る歴史との和解の難しさを象徴している。施設建設を命じたのは内戦に勝利したフランコ、苦しい建設作業に駆り出されたのは政治犯など反対派で、埋葬者も当初はフランコ側の戦死者だけだった。フランコもここに眠る。

フランコの墓を移し、全ての戦死者を弔う記念碑への変更を望む声がある一方、王政への移行を平和裏に実現させたフランコを評価する声も強い。バシリカ(聖堂)が風景に溶け込んで「戦没者の谷」は息をのむような美しさだが、若い人々は「あまり人気がないし、行かないですね」と冷ややかだ。いまも国論を二分し、政治性を帯びた微妙な問題だからだろうか、

だからこそゲルニカと「ゲルニカ」には小さくない意味があり、その役割も終わらない。来年、ゲルニカは爆撃から80年を迎える。

「戦没者の谷」の十字架とバシリカ(聖堂)

(2016年11月7日 記)

バナー写真:「戦没者の谷」の遠景(バナーおよび本文中写真提供は筆者)

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  • [2016.11.25]

横浜市生まれ。1967年に早稲田大学卒業、産経新聞に入社。夕刊フジ、マニラ特派員、ニューヨーク支局長。外信部長、論説委員、シンガポール支局長などを経て2005年から08年まで論説委員長・特別記者。現在は客員論説委員として産経新聞のコラム「視線」に寄稿している。東南アジア報道で1997年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。15年9月に『日本はASEANとどう付き合うか―米中攻防時代の新戦略』(草思社)を出版のほか、『インドネシア9.30クーデターの謎を解く』(草思社)、『女性記者』(産経出版)、『なぜ独裁はなくならないのか』(国土社)など著書多数。

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