普通ってナニ?—『コンビニ人間』から読み解く

斎藤 学【Profile】

[2016.11.18]

精神科医の著者が、日常の臨床経験から「普通」を意識するあまり無表情になる感情失認(アレキシサイミア)について語る。本年の芥川賞受賞作小説『コンビニ人間』(村田沙耶香 著)を題材の一つとしてひもといていく。

アレキシサイミアという精神医学用語がある。文字や単語を読んで理解することが困難な失読症を意味するアレキシアと感情を意味するサイミア(チミア)の合成語で感情失読のことだが、失感情症という訳語が使われている。自分のものとはいえ、感情はそれと認識してから始まるものなので、失認という事態が発生することがある。どのようなときにそのような事態になるかというと、怒り、悲しみなど表に出せない感情に包まれそうなときなどに、この感情失認が役に立つ。

実際のところ、赤ん坊を除けば、思いどおりに泣いたり喚いたりしている人などいない。成人ともなれば、これら原初的な感情の表出は失禁(感情失禁)と見なされ、それ自体が治療の対象とされる。

若い人が「普通」でいようとすれば、こうした大人たちをまねて無表情を作る。そのうち、感情の認知そのものができなくなり、表出されない怒りや悲しみが、身体器官を通じて表出されるようになると心気症(ヒポコンドリー)や身体症状症(サイコソマティック・ディジィーズ)になる。ヒポコンドリーは身体的な病変が確認できない時に用いられる用語で、高血圧や消化性潰瘍などの形で器質的病変になると、これを心身症という。

しかし、ことはここにとどまらない。感情失認は泣く、悲しむにとどまらず、喜びや高揚感の認知も鈍くする。悦(よろこ)びの認知の障害を失快楽(アンヘドニア)と呼ぶ。これは以前には楽しい、嬉しいと感じた状況や行為に喜悦を感じなくなる現象を指し、メランコリア型と呼ばれる真性のうつ病を鑑別する際の重要な指標の1つとされている。

『コンビニ人間』に見る「普通」の仮面

私は都心で開業している精神科医で、日々、うつ病や心気症を病む人々と向かいあっている。しかし初対面の人々の多くは苦悶(くもん)や悲哀の表情が見られない。彼らがかぶる「普通」の衣装を剥ぎ取ってみないと、治療対象が見えてこない。

『コンビニ人間』(表紙画像提供:文芸春秋)

こんなことを考えたのは小説『コンビニ人間』(村田沙耶香著)という、最近の芥川賞受賞作を読んだからで、これは感情失認の人の話だと思う。18年間にわたって同じコンビニのアルバイトを勤めている女性(古倉恵子)がヒロインで、この人の視点で叙述されている。彼女の生き方のコツは、自己固有の感覚や判断を停止し、彼女から見てまっとうでおしゃれと思われる周囲の女性(主として同僚)たちの仕草や好みを真似てパッチワークすることである。これは周囲に順応するのに便利で有効な方法だ。朝、定刻よりも幾分早めに出勤して制服に着替えた瞬間に彼女は「コンビニの人」になり、そこで要求されるマナーや判断を駆使して定められた労働時間を過ごせばいい。子ども時代の個性的な行動を職員会議で取りざたされたり、親に嘆かれたりしたヒロインにとって、制服の下に自分を隠せることはありがたかった。

ところがコンビニアルバイトも18年になり、独身のままということになると、それ自体が、可哀想(かわいそう)に思われていることに気付いて焦り始めた。その頃、恵子は自分の鏡像のような男に出会う。その男は、自分が社会から迫害され、排除されていると思いこんでいるので「普通」に見えるように生きようなどとは考えもしない。コンビニのバイトもたちまちクビになった彼を恵子が拾い上げて自分のアパートに連れて行く。一見釣り合いの取れたカップルが成立したように見えるのだが、二人の間には打算しか存在しない。働きものの恵子にとっては見栄だし、決して働きたくない男にとって恵子は、凶暴な社会からの隠れ場所を提供してくれる。しかし、この同居は恵子が18年かけて築いてきた心の均衡を崩してしまう。

同居している男の毒舌が、恵子の私的空間における虚無を暴いてしまうからだ。そこは恵子がそれまで、否認し続けてきたところだった。ちょっと説明しておくと、「否認」というのは無意識のうちに行われる原始的な心的防衛機制の一つで、そこにあることが誰にとっても明瞭な問題や課題を無視することを言う。この状態の人を他人が見ると、かなり子どもっぽくて異様に見えるだろう。

こうした自分の実態が見えてきた恵子は「コンビニのひと」であることをやめてしまう。しかしコンビニ勤めを失った恵子には、押し入れに敷いた布団の中で寝て暮らす生活しか残されていない。この状態を私は「お布団依存」と呼んでいるのだが、これこそ物質アディクション(薬物・アルコール依存)からセックス依存までのあらゆるアディクションの原点なのである。むしろあらゆるアディクションも、「普通の習慣」も、この泥沼から逃れるための絶望的な努力なのだ。

小説は恵子のコンビニ復帰というハッピーエンドで終わるのだが、読者の方は笑ってばかりもいられない。ヒロインに見られる職場への過剰適応と私的空間における虚無感の関係に大方の読者は気付いてしまうからだ。

諸感情の読み取りを拒否しているうちに…

「お布団依存」について、もう少し説明しておきたい。この現象は乳児に見られるプライマル・スリープへの退行である。ジャンキー(ヘロイン依存者)たちが渇望しているのは、実はこれなのだ。世に「引き籠もり(ヒキコモリ)」と呼ばれる人々はこの種の退行の砂地獄に引きずり込まれているので、そこから引きずりあげるのは容易ではない。

ここで一つ注意しておかなければいけないことがある。母の乳頭を口に含んだまま寝ている乳児は、ひとたび覚醒すれば、真っ赤になって怒り、叫び、乳房の欠如に強烈な不安を感じる存在である。

少なくとも、この時点(生後1~1.5年)で乳幼児は怒り、抑うつ、不安、嘆き、といった生々しい感情世界を生きている。しかし、成人のヒキコモリにはこれがない。彼らは既に獲得した諸感情の読み取りを拒否しているうちに、アレキシサイミアに陥ってしまっているからである。

「普通」の呪縛を解く

このタイプの人が私のクリニックを訪れることがある。うつ病と間違えてのことだ。例えば、4年制大学を卒業した年に入社した会社がつまらなかったのですぐに辞め、アルバイトのつもりで始めたSMクラブの仕事は楽しくて4年いたという主婦が初診でやってきた。30代直前になって、こんなことを続けていられないとクラブを辞め、婚活して結婚した。子どもも生まれて「まともな生活」とやらを始めたら寝たり起きたりになった。

結婚相手だった男はママ離れのできないアトピー男で、自分をかまってくれない嫁に早々と見切りをつけたらしく、離婚されて1カ月たつと言う。

他の精神科医なら、この人にうつ病なり、適応障害なりの病名を付け、抗うつ剤などを処方するのだろうが、私はそのように考えない。この人は「普通」であることを望むあまりに自分の個性を抑制しすぎて世の中をつまらなくしてしまっているのだ。

SMクラブで働いていた頃は毎日が危険でスリリングだったろうし、そもそも「こんな生活早く辞めなきゃ」と思うこと自体が彼女の活気を生んでいただろう。「普通」とはこんなふうに個人ごとに異なる理想ないし幻想なのだ。

35才になって体形も変わったから、もう元へは戻れないと彼女は言う。SMクラブに戻れなんて私も言わない。しかし、その頃の飢餓感や活気を想い出す必要はあるだろう。「普通」の幻想に縛られずに、その女性のエロスを活性化させるのが私の仕事だ。

(バナーイラスト:Design Pics/アフロ)

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  • [2016.11.18]

精神科医。1967年慶應義塾大学医学部卒。フランス政府給費留学生、国立療養所久里浜病院精神科医長などを経て、1995年9月より家族機能研究所代表。医療法人社団學風会さいとうクリニック理事長。医学博士。日本嗜癖行動学会理事長。著書に『依存症と家族』『アダルト・チルドレンと家族』など。最新刊『「毒親」の子どもたちへ』。

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