宇多田ヒカル—新たな挑戦の幕開け

宇野 維正【Profile】

[2017.03.15]

すべての作品が真剣勝負

宇多田ヒカルの新アルバム『Fantôme』は、2016年9月のリリース以後ヒットチャートの上位にランクインし続け、この1月には国内外のCD出荷およびデジタル配信を合わせて100万枚突破という快挙を成し遂げた。1999年の『First Love』で前人未到の日本最高セールス記録を持つ宇多田なのだから、別に取り立てて大騒ぎするほどのことではないと思う人もいるかもしれない。しかし、国内向けのオリジナルアルバムとしては前作に当たる『HEART STATION』から約8年半、その間のCDマーケット全体の縮小を踏まえると、前作からほとんど目減りしてないどころか、現在もロングセラーとなって売り上げを伸ばし続けている『Fantôme』は、国外に置き換えるなら2010年代に入ってからもコンスタントに1000万枚前後の売り上げをキープしている英国人歌手アデルに匹敵するほどの、まさに驚異的成功と言っていい。

日本の音楽シーンにおいて、宇多田ヒカルは他に類のない独自のポジションに立ち続けている。ファンクラブも存在しない。ライブもほとんど行わない(日本での全国ツアーは18年のキャリアで2回だけ)。大前提として宇多田は国内で屈指のセールスパワーを持つアーティストの1人ではあるが、作品の売り上げは(特にシングル作品では顕著に)右肩下がりでも右肩上がりでもなく、これまでかなり激しく上下に変動してきた。ファンクラブの会員やライブの常連客を母体とする「固定ファン」に支えられているキャリアの長い他の大物アーティストと違って、彼女は新作のリリースごとにヒリヒリするような真剣勝負を繰り返してきたわけだ。

早すぎた「ジャンルレス・アルバム」への挑戦

もし宇多田ヒカルに強固なファンベースがあったなら、「Utada」名義でワールド・リリースされた2004年の『EXODUS』と09年の『This Is The One』は、日本国内でもう少し売れてもよかったはずだ。サウンド・プロダクションが国外(主に米国)向けにローカライズされ、歌詞も全て英語だったこの2作は、作曲家としても作詞家としてもかなり意欲的な作品でありながら、日本の宇多田ファンの間でも現在はほとんど顧みられることがない。語られるのは、『EXODUS』は160位、『This Is The One』は69位という、ビルボードのアルバム総合チャートでの結果ばかり。当時鳴り物入りで海外デビューを果たした「Utadaプロジェクト」だったが、その分、予想に反して海外であまり売れなかったことからくる失望感が、日本のファンの間では広まってしまった。

『EXODUS』と『This Is The One』の「失敗」の原因については、拙著『1998年の宇多田ヒカル』の中で詳しく分析しているが、簡潔にまとめるなら、その音楽の内容があまりにもジャンルレスであったことだ。曲によっては当時のR&Bを代表する売れっ子プロデューサーであったティンバランドがプロデュースを手がけ、曲によってはオルタナティブ・ロック界の異端マーズ・ヴォルタのメンバーが参加していたUtadaの最初のアルバムを聴いて、細かくジャンルごとにセグメント化されている米国のラジオ局のDJはきっと戸惑ったことだろう。

ところが、2010年代に入ってから黒人音楽(R&B/ヒップホップ)と白人音楽(オルタナティブ・ロック/インディー・ロック/エレクトロニック・ミュージック)の垣根が崩れ(厳密に言うと、完全なメインストリームとなったR&B/ヒップホップが白人音楽の要素を吸収して)、今やビヨンセやリアーナやソランジュといったR&B系の人気女性ボーカリストのアルバムには、ロック系のアーティストが当たり前のように参加している。そういう意味では、『EXODUS』と『This Is The One』は早すぎたジャンルレス・アルバムだったと言える。

「瞬間最大風速」で騒ぐ国内メディア

昨年、『Fantôme』がリリースされた直後に大きなサプライズとして報じられたのは、同作がiTunes Storeのアルバムチャートで全米3位まで駆け上がったことだった(宇多田ヒカル本人もツイートで驚きを表明していた)。それに続いて、今年1月にゲームソフト『キングダム ハーツ』のテーマソングとして配信リリースされた「光 –Ray Of Hope MIX–」(2004年にリリースされたシングル曲のリミックス・バージョン)はiTunes Storeのシングルチャートで全米2位に。iTunes Storeでは各国ごとのチャートを見ることもできるが、『Fantôme』も「光 –Ray Of Hope MIX–」もヨーロッパやアジアや中東などの複数の国で1位となっていた。その事実を踏まえて「今こそ宇多田ヒカルはもう一度本格的に世界進出すべきなのではないか」と思った人も多かったはず。ただ、ここにはいくつか留意すべき点がある。

まず、海外のファンにとっては『Fantôme』も「光 –Ray Of Hope MIX–」もダウンロード販売でしか入手することができなかったということ。後者のシングルに関しては日本でも同様だったが、今の世界の音楽シーンの常識では、アルバムがリリースされる際には、通常ダウンロード、ストリーミング、フィジカル(CD/アナログレコード)と3通りの聴く手段が用意されている。Apple MusicやSpotifyのようなストリーミングサービスには提供されなかった、そしてCD販売にもタイムラグがある海外で、iTunes Storeでのダウンロードにファンが集中したのは当然の成り行きだった。また、iTunes Storeのチャートは1時間おきに更新されるため、その瞬間最大風速をもって「全米3位」「全米2位」などとするのは、はっきり言って妥当ではない。もっとも、それを喧伝(けんでん)していたのは一部の国内メディアだけだったが。

人気ゲーム、アニメ主題歌で海外に浸透

一方で、今回の『Fantôme』と「光 –Ray Of Hope MIX–」に対する海外のリアクションは、世界中にかなり大勢の宇多田ファンがいることを証明した。日本のメディアではあまり報じられることはなかったが、7年前に『This Is The One』をリリースしたタイミングで、(前作『EXODUS』での学習もあったのだろう)Utadaは海外でそれなりに精力的なプロモーション活動を行い、米国各都市とロンドンでライブハウス規模のツアーも行っていた。コア・ファン層がそこで形成されていた上に、ゲームソフト(『キングダム ハーツ』シリーズ)や映画(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ)などの全世界向けのコンテンツ、および非公式なものも含めたYouTube動画などで、日本人が気づかないうちに宇多田ヒカルの音楽は海外のリスナーの間で着々と浸透していたのだ。

そうなるとどうしても気になってくるのは、今後の海外展開だ。今年3月、ユニバーサル・ミュージック(旧・東芝EMI、EMIミュージック)からソニー・ミュージックレーベルズに移籍した宇多田ヒカル。Utadaとしてのユニバーサル・ミュージックとの契約は本人の意に沿わない形でリリースされたベストアルバム『Utada The Best』(2010年)の時点で満了しているはずなので、今や完全にソニー・ミュージックのアーティストとなったわけだ(ちなみに宇多田の楽曲の版権は、東芝EMI時代から現在までソニー・ミュージックエンタテインメントのグループ会社、ソニー・ミュージックパブリッシングが管理してきた)。言うまでもなくソニーはワールドワイドのネットワークを持つメジャーのレコード会社。海外活動の足場は整っている。とは言え、宇多田ヒカルは、もはや国外での活動をUtadaのような別名義ですることはないだろう。海外での展開を見据えた作品をリリースするとしても、それはあくまでも国内での活動と分断したものではなく、シームレスなものになるのではないか。

「新たな方法での海外展開」への期待

かつてのUtadaがそうであったように、海外(主に米国)向けにサウンドも歌詞もローカライズするか、それとも日本語のまま海外でもリリースするか、その選択は現在積極的に海外進出をしている日本のアーティストたちにとっても共通する大きな課題となっている。

現在のところ、ONE OK ROCK、MAN WITH A MISSION、SEKAI NO OWARIといったバンドは基本的に前者を、BABYMETAL、Perfumeといった女性グループは基本的に後者を選択しているわけだが、途中活動休止期間があったとはいえ18年以上にわたる充実したキャリアを持つソロ・アーティストである現在の宇多田ヒカルは、そのどちらにも当てはまらない独自の方法を模索しているはずだ。そう、ここでもやはり、彼女は日本の音楽シーンにとって「独自のポジション」に立っているのだ。

具体的には、今や世界でアーティストがブレイクするルートとして主流となっている「有名アーティストの作品へのフィーチャリング・ゲストとして参加」が、次の突破口となっていく予感がする。しかも、それが日本での知名度やレコード会社の政治力によって実現するのではなく、あくまでもアーティスト同士のクリエーティブかつ能動的なアクションとして実現する可能性も十分あると思う。昨年、世界の隅々にまで言語を超えて届いた、『Fantôme』における宇多田ヒカルの新しい音楽。その煌(きら)めく才気を、世界が放っておくはずがない。

(2017年3月10日 記)

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  • [2017.03.15]

映画・音楽ジャーナリスト。1970年、東京都生まれ。「ロッキング・オン・ジャパン」「CUT」「MUSICA」などの編集部を経て、現在はウェブマガジン「リアルサウンド映画部」主筆。主な著書は『1998年の宇多田ヒカル』『くるりのこと』(共に新潮社、2016年)。

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