南方熊楠—日本人の可能性の極限

中沢 新一【Profile】

[2017.08.29] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | العربية | Русский |

博物学者、生物学者、民俗学者の南方熊楠は、今年、生誕150年を迎えた。熊楠の思想について語り合うシンポジウムが各地で開催されるとともに、独創的な知の背景に迫る関連書籍の刊行が相次ぐ。そこからは西欧中心に発展した既存の学問を乗り越えようとした「知の巨人」の姿が浮かんでくる。

日本人の中からはライプニッツやフンボルトのような万能型の学者は現れにくいと言われていた。その理由はいくつも考えられる。まず日本語という孤立した特殊な言語を母語としていると、印欧語をはじめ世界の諸言語を自在に使いこなす能力が育ちにくいことが挙げられる。知識のあらゆる領域を網羅していく普遍学を構築していくためには、現代語ばかりでなく古代語についての知識が欠かせない。この点で日本人は不利な条件を背負っている。

また明治維新によってそれまで日本人の学問の基礎を形成していた東洋の学問の伝統が断ち切られてしまったことの影響も大きい。怒涛(どとう)のごとき勢いで輸入されてくる近代西洋の学問思想の奔流に飲み込まれ、学問の全体性に対する日本人の感覚はほとんど破壊されかけていた。とりわけ人間的価値の問題を扱う人文学と、急速に発展しつつあった自然科学との乖離(かいり)は大きくなるばかりで、人文学と自然科学を包摂して統一的な学問をつくりあげる必要性など、官学系のエリート学者たちのとうてい思い至るところではなかった。極東の一角にあって、日本は学問の領域では紛れもない後進国だった。

和歌山県白浜町の南方熊楠記念館前にある昭和天皇歌碑には、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と刻まれている

そのような時代に南方熊楠(1867〜1941)が出現したのである。驚くべき記憶力と強靭(きょうじん)な思考力をもって生まれたこの少年は、窮屈なアカデミズムの秩序や常識から自らを解放し、その当時の知識人の多くが陥っていた西洋文明に対する劣等感を抱くこともなく、自分の潜在能力をすくすくと成長させ、欧米に渡ってからは彼の地の学者たちを相手に堂々と互角に渡り合うことができた。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語を自在に使いこなし、ギリシャ語、サンスクリット語、ヘブライ語などにも通じていた。漢籍を自由に読みこなせたことは言うまでもない。粘菌と隠花植物を研究する生物学者であると同時に、人類学、民俗学といった人文学の領域でも多くの独創的な研究を行った。当時においてもまた現代においても、熊楠のようなスケールで日本人の限界を突破し得た人物はいないと言っても過言ではない。

晩年の南方熊楠

日本民俗学の創始者である柳田國男は、自身も時代を超えた偉才であるが、同時代を生きた南方熊楠との交流を通じて、熊楠の尋常ならざる破格の能力に賛嘆を惜しまなかった。柳田は熊楠を評して「日本人の可能性の極限」と述べた。まことに熊楠は日本人の潜在能力を極限まで開花させた稀有の人物であった。日本人の中にライプニッツやフンボルトのような普遍学の天才を探すとしたら、南方熊楠をおいて他には考えられないのである。

左側は熊楠が柳田國男に宛てた手紙。右は神社合祀反対運動の資料とした大山神社の写真

宗教と科学が出会って生まれた独自の世界

南方熊楠は和歌山県に生まれた。この地は古く紀州と呼ばれ、太平洋に突き出した半島にあって温暖な黒潮に接しているため、重畳(ちょうじょう)たる山々は亜熱帯性の植物に厚く覆われている。古代より死者の霊のこもる「隠(こも)りくの地」とも呼ばれて、多くの宗教的な霊場が設けられてきた。住民は極めて信心深く、神社の森に宿る神々への信仰に生きた。

熊楠が記した菌類図譜。採集された菌類に、美しい彩色が施された詳細なスケッチが添えられている

和歌山市で金物商を営む南方家に一人の男子が生まれた時、家人はこの子を連れて海南市にある藤白神社に詣でて、神主から名前を授けてもらった。この神社には熊野神の宿る子守楠神社があり、そこに生えている大楠にちなんで「楠」の字を、また虚弱な子供であったことから、森の神から強力を授かるため「熊」の字をもらい、「熊楠」と命名された。熊楠は少年時代から自分に付けられた名前に深い神話的意味を読み取っていた。

自分につけられた名前を通じて、南方少年は動植物の世界と自分との深淵な結びつきを直観していた。動植物の生の様式と人間の生の様式の間には根本的な違いがなく、それらは生命の深層で交通しあっているという直観が、彼の中にはあったと思われる。この直観は「アニミズム的汎神論」とも呼ぶことができ、伝統的に日本人の世界感覚の中に共有されてきた思考様式であるが、熊楠の場合にはそれが学問と社会実践をとおして明確な学的思想にまで深められることになった。

1901年に和歌山で、英国ロンドンで親交を深めた孫文と再会。後列左から熊楠、通訳の温炳臣(おんへいしん)、前列左から弟の常楠、孫文、常楠の長男・常太郎、弟の楠次郎

19歳のとき、大学予備門(現在の東京大学教養部)の中間試験に落第したことをきっかけとして、大志を抱いて米国に渡る。ミシガン州立農業大学に入学するも早々に退学して、動植物の採集と観察に打ち込む。キューバに渡って地衣類の採集を行い、新種を発見する。1892年9月英国に渡る。翌年には科学雑誌『ネーチャー』に論文「極東の星座」を投稿、認められて大英博物館に出入りするようになり、そこで考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みまくる。東洋学者ディキンズと知り合い、大英博物館の東洋図書目録編纂(へんさん)係の職を得ることになる。

この時代、南方熊楠は『ネーチャー』誌をはじめとする学術雑誌に次々と斬新な内容の論文を発表し、英国の知識階層にもようやくその存在が知られるようになるが、98年には大英博物館内で殴打事件を起こす。一人の英国人による日本人に対する侮蔑的な差別発言に怒っての暴行であったが、翌年には博物館への出入り禁止処分へと発展してしまう。これを機に14年ぶりに帰国する。日本ではすでに父も母も他界していた。

右側が「ネーチャー」誌、中央も熊楠が英文論考を多数投稿したイギリスの「ノーツ・アンド・クエリーズ」誌、左はイラストが素晴らしい全52巻に及ぶ「ロンドン抜書」

近代科学を超越する思想

明治時代の海外留学といえば欧米の大学で学位を修めて戻ってくることが目的となっていて、南方熊楠のように純粋な学問的関心だけで欧米に滞在しただけで、なんの学位も名誉も得ることなく帰国した彼に対して、世間は冷たかった。しかしそんなことを気にする熊楠ではなかった。和歌山に戻った彼は緑深い熊野の山中に分け入って、植物採集と研究に明け暮れる日々を送る。

採集に出かける熊楠(右)

熊野の那智にはその当時広大な原生林が広がり、地衣類や粘菌類の宝庫であった。熊楠は那智神社脇の大阪屋という宿屋を拠点として、ほとんど単独で山中に植物の採集に出かけた。夜は灯火を灯しては顕微鏡による観察と標本資料の作成に没頭した。山中に持ってきた少数の書物の中でも特に華厳経の研究書(法蔵著『華厳五教章』)を熟読して、仏教哲学を研究する。完全な孤独のうちにあって、熊楠の精神は冴え渡っていた。知的能力は異常な昂(たか)まりを見せ、独創的で破天荒な思考が泉のごとくこんこんと湧き出てきた。

愛用した顕微鏡と写生用具類

その独創的な思考を、熊楠は京都の高山寺住職である真言僧・土宜法龍(どき・ほうりゅう)への手紙に書き綴(つづ)った。長大な巻紙に記されたその手紙は長いものでは10メートルを超え、それを書き上げるために熊楠は何日も徹夜を重ねても疲れなかった。手紙の内容は多岐にわたっているが、最も重要なのは、近代科学の根底を仏教思想によって再点検し、その限界を明示するだけでなく、限界を突破したところに構想される未来の科学の構造を描き出そうとする部分に見ることができる。

彼は西洋近代科学の本質を事物の因果関係の追求のうちに見出している。しかし因果関係は世界の一面を表しているにすぎない。仏教思想が示すように世界の実相は因果を超えた縁起の中にある。縁起はこの世界に生起する全ての事物が互いに縁起によって関係し合っているという認識に立つ。この縁起的世界観に立つとき、科学の構造もより複雑なものに拡張されていかなければならない。そのような拡張された「来るべき科学」の構造を明示するために、熊楠は手紙の中で比喩やグラフィックや高階論理などを駆使した。とりわけそこに描かれたマンダラ状のグラフィックは印象的であり、現代の研究者はそれを「ミナカタ・マンダラ」と呼んで、その解明に努めている。

土宜法龍への手紙

鎮守の森を死守する

植物学上の数々の新発見を成し遂げて山を降りた南方熊楠は、田辺に居を構え、闘鶏神社宮司の娘である松枝と結婚して家庭を設ける。一男一女を授かる。田辺での生活は充実していた。自邸の庭でも新種の粘菌「ミナカテルラ・ロンギフィラ」を発見している。諸雑誌からの依頼で、興味深い民俗学的エッセイを次々に著し、それらは『南方随筆』などの著作として出版されるに至る。

しかしこの田辺時代の熊楠の穏やかな生活を揺るがしたのが、「神社合祀(ごうし)反対」を掲げる社会運動への没入であった。明治政府は民衆の神への多様な信仰を、国家神道へ一元的に統一しようとして、「神社合祀令」を発布して、民間の祠(ほこら)や由緒の分からない神社を廃止して、中心的な神社に統合しようとした。自然な状態にあった神社にあっては、主体は神社の建物ではなく、それを取り囲む森にあった。そのため神社が廃止されることによって、神社の森も放棄されることになる。森が伐採されてしまうと、そこに生息していた動植物も死滅してしまう。そのことを憂えた熊楠はこの神社合祀令に全力で立ち向かおうとした。

初めの頃、理解者は極めて少なかった。しかし熊楠は全霊をこめて森を守ろうとする運動を繰り広げた。柳田國男の協力を得て『南方二書』なる政治的な科学パンフレットを作り各方面に配布し、次第に理解者も増えていった。神社合祀を進める役人が主催する講習会に酔って乱入して逮捕投獄されたこともある。その獄中で新種の粘菌を発見するところは、いかにも彼らしいエピソードだ。

中央が神島。その奥に田辺市街と紀伊山地が見える

熊楠の必死の努力によって、数年後にはさしもの神社合祀運動も下火に向かった。和歌山では多くの森が救われた。中でも田辺湾に浮かぶ神島が救われたことの意味は大きかった。貴重植物の繁茂するこの島は天然記念物に指定された。1929年、紀南を巡行中の昭和天皇は田辺湾の神島沖に戦艦長門を停泊させ、この艦上で熊楠の御進講を受けた。ご自身が優れた粘菌学者であった昭和天皇は、民間の一学者である熊楠との面会を切望されたのである。このとき熊楠が標本をキャラメルの空き箱に入れて献上し、昭和天皇はそれを喜んで受け取られた。彼の人生における輝かしい瞬間であった。

右がキャラメル箱。中央が昭和天皇に最初に説明したウガの標本。左が御進講のために新調した白衣

41年永眠。偉大なる粘菌学者、生態学者、人類学者、民俗学者としてばかりでなく、奔放自由なその純粋な生き方は、今も日本人に大いなる夢と希望を与えている。

和歌山県田辺市にある南方熊楠邸での筆者

バナー写真=1891年アメリカで撮影された南方熊楠
撮影協力=公益財団法人 南方熊楠記念館

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  • [2017.08.29]

1950年、山梨県生まれ。思想家・人類学者。現在、明治大学野生の科学研究所所長。チベットで仏教を学び、帰国後、人類の思考全域を視野にいれた研究分野(精神の考古学)を構想・開拓する。著書に『チベットのモーツァルト』、『森のバロック』、『フィロソフィア・ヤポニカ』、『アースダイバー』、『カイエ・ソバージュ』シリーズ、『芸術人類学』、『野生の科学』、『大阪アースダイバー』ほか多数。近著に『熊楠の星の時間』『俳句の海に潜る』がある。これまでの研究業績が評価され、2016年5月に第26回南方熊楠賞(人文の部)を受賞した。

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