「豊年祭」が結ぶ台湾と沖縄・八重山の絆

文化

「豊年祭」(収穫祭)という祭りが沖縄県八重山地方と台湾にある。どちらも7~8月に行われる夏の風物詩で、豊かな実りを感謝・祈願する伝統的な祭祀(さいし)だ。呼び名もそっくりで、奉納する収穫物にも共通項があるが、その関係性については解明されていない。黒潮を挟んで向かい合う二つのエリアに足を運び、祭りを見ながらつながりの痕跡を探してみた。キーワードは「穀物」である。

キーワードはアワ

ざるにアワ束を入れ、頭に載せて歩く女性、台湾・台東県太麻里郷、2017年(撮影:松田 良孝)

台湾東部の台東県太麻里郷にあるルパカジ地区。パイワン族の収穫祭(豊年祭)が開かれ、女性たちが二つのグループに分かれてゲームをしている。ざるを頭に載せたまま歩いていき、戻ってきたら次の人にバトンタッチ。ざるには、ふっくらと盛り上がったアワの束が入っている。アワの穂先には黄金色の小さな実がたっぷり。ざるを手で支えてはいけないルールだが、厳密にのっとってはいない。ゲームは「伝統競技」というプログラムで「頂上功夫」と呼ばれるものだ。

出場者がドジを踏むたびに歓声が沸き起こる。一種の遊びには違いない。ただ、伝統的な衣装を身に着けた若者たちがゲームを見守るように手をつないで列を作り、おだやかなリズムで体を揺らしながら、低い声で歌を歌っており、落ち着いた気配も漂う。

この前夜、アワ束をくくりつけた竹竿(たけざお)の下で、同じ若者たちが広場で踊りを繰り返したり、大人の仲間入りをする儀式を行ったりした。パイワン族の別の村から大勢の若者たちが次々にやってきて、踊りを披露したりして敬意を表す場面もあった。

原住民(台湾の先住民族)の豊年祭・収穫祭を取り上げた「収穫祭」(黄国恩、2004年)という本がある。説明は「小米与原住民」(アワと原住民)という小文で始まる。「小米」は「アワ」のことで、「アワは、原住民の伝統的な社会の中で、食糧作物として大切にされているだけでなく、暮らしと祭祀のさまざまな場面で重要な役割を演じている。(中略)アワは、ただの食べ物ではなく、そこには神聖な力が宿っている」とあった。

アワで造った酒「小米酒」にもページを割き、「小米酒は原住民の祭祀に欠かせない。冠婚葬祭にはほぼこの酒が登場する」と述べる。

パイワン族の収穫祭で、竹竿(たけざお)にアワ束をくくりつける若者たち、台湾・台東県太麻里郷、2017年(撮影:松田 良孝)

これほどの作物だけあって、刈り取る時にくしゃみをしてはいけないとか、収穫は畑の右から左に向かって行うといった決まりごとがある。「守らなければ、せっかく育てた小米が小鳥のように去っていってしまう」という。日本統治期に作成された資料には、別の禁忌が取り上げられており、台湾総督府が進めようとしていた政策と密接に関わっていた。

稲作の普及がもたらした影響

日本統治期の台湾では原住民に対する調査が数多く行われており、中には迷信を調べたものもある。1938年の調査報告によると、パイワン族では「アワ播種の時、平地より購入せる米、魚類を食するを忌む。神の怒りに触れ、発芽せず」と信じられており、太麻里のパイワン族は「農事中は米食せず。食せば神の怒りに触れ、収穫減少す」と考えていた。むやみに米に手を出せないのである。

パイワン族の収穫祭で踊る若者たち、台湾・台東県太麻里郷、2017年(撮影:松田 良孝)

アワを重んじ、米を忌避しているともいえるこの暮らしの中に、台湾総督府は水稲栽培を普及させようと試みている。獨協大学の松岡格准教授(文化人類学)は「焼き畑農業や狩猟採集を中心に生活してきた原住民の生業構造を改変すること」とみなし、稲作によって定住化を進めようとしたところに政策的な意図を見いだしている。旧台東庁の原住民地域における1940年の農業生産を5年前と比べると、水稲では面積、収量、価格が増加したのに対し、アワは、価格以外は面積6.37%、収量14.90%がそれぞれ減少した。統計をまとめた台湾総督府警務局は、水稲普及策の成果と位置付けている。

松岡准教授は、台東地域に限って分析しているわけではないが、水稲普及のインパクトとして「稲作普及がけん引する農業の単純化が食糧増産に貢献したことは、間違いないのではないか」とする一方、「このような米普及は同時に、他の施策と結び付くことによって、文化の単純化を推し進めた。(中略)焼き畑農耕を背景とするアワ文化を抑圧・駆逐していった」と指摘している。

八重山地方の豊年祭

ルパカジ地区を訪ねてから10日ほどたって、豊年祭シーズン真っただ中の石垣島へ行った。7月下旬のことである。

石垣島など八重山地方の豊年祭は、「オン」(御嶽)と呼ばれる村の聖地を中心に行う。「シカ」と呼ばれる石垣島中心部で行われる最大の豊年祭では、オンごとに祈願する「オンプール」を初日に、村全体の「ムラプール」を2日目に行い、これと同じパターンで豊年祭を行う村はほかにもある。今回訪ねたのは、島の東部に位置する白保(しらほ)地区。午後10時過ぎの多原(タバル)オンでは、集まっていた人たちが小さな輪を作ると、太鼓と銅鑼(どら)を手にした男が重々しいペースを打ち出し、小さな踊りの輪をじわりじわりと回転させていく。オンの境内にある木々につるした赤いちょうちんのかすかな灯の中で人々はゆっくりと踊り続けるのである。

石垣島白保地区で行われた豊年祭のオンプール、多原オン、2017年(撮影:松田 良孝)

翌日のムラプールでは、五穀豊穣(ほうじょう)をもたらすとされる神「ミルク」が登場し、伝統的な踊りや綱引きが繰り広げられる。その主会場では、「祝 豊年」と飾り付けられた鳥居の上部にアワの穂が稲穂とともに垂れ下がっていた。

八重山におけるアワ栽培の移り変わり

石垣島白保地区の豊年祭で、稲束とともに飾られたアワ束、飾墓オン、2017年(撮影:松田 良孝)

八重山の豊年祭で人々が神に祈るのは「五穀豊穣」。石垣市教育委員会の調査によると、シカの豊年祭で供物としてささげる五穀はアワのほかに、稲と麦、コウリャン、芋。ただ、アワなどは次第に栽培する人が減り、祭祀のために作付けて準備するようになった。しかし、この方法も行われなくなり、調査をした1999年はシカとは異なる地域の人から提供を受けたアワを使った。

八重山の農業を記録した資料としては、1477年に与那国島に漂着した済州島民からの口述記録がある。与那国に流れ着いた後、人々は南西諸島を島伝いに北上して首里王府に送り届けられ、朝鮮へ送還される。立ち寄った島々の様子が記されている口述記録によると、与那国と西表には米とアワがあり、波照間(はてるま)、新城(あらぐすく)、宮古地方の宮古と伊良部(いらぶ)にはアワに関する記述がある。

八重山ではその後、米の栽培が徐々に広がり、日本統治期の台湾から導入された蓬萊(ほうらい)米も根付いた。アワは米に取って代わられるのである。

「東台湾海」という考え方

原住民がアワを特別な農作物として大切に扱っている台湾と、毎年夏に五穀を供える八重山との間に、どのようなつながりを見いだすべきなのか。

「東台湾海」という考え方がある。台湾にある中央研究院民族学研究所の黄智慧氏が提唱しているもので、原住民が多く暮らす台湾の東海岸や、南西諸島の八重山地方や宮古地方、ルソン海峡以北のバタン諸島やバブヤン諸島を包含するエリアで「島際関係論」を深めようというコンセプトである。国「際」ならぬ島「際」だ。今回取材したアワや五穀も、もちろん黄氏の視野に入っている。

アワをつく手際を競うゲームを前に、アワ束がざるに入れて用意された、台湾・台東県太麻里郷、2017年(撮影:松田 良孝)

ルパカジ地区の収穫祭には、アワを脱穀する手際を競う「搗篩小米」という伝統競技もあった。臼ときねで搗(つ)いたアワをざるに広げ、揺り動かしたり、強く息を吹きかけたりしながら殻とえり分けていく。八重山の豊年祭でも穀物の栽培や収穫を題材にした踊りが数多く登場する。台湾と八重山に共通する豊年祭の背後にあるものも「東台湾海」という呼び名を与えることによって初めて見えてくるのかもしれない。

参考文献

  • 『収穫祭』黄国恩、国立台湾史前文化博物館、2004年
  • 『台湾原住民社会の地方化―マイノリティの20世紀』松岡格、2012年
  • 「環「東台湾海」文化圏における島際関係史―与那国島を中心に―」黄智慧、2007年
バナー写真=収穫祭で踊るパイワン族の若者たち、台湾・台東県太麻里郷、2017年(撮影:松田 良孝)

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