「私は日本人であり、台湾人でもある」真ん中で生きるということ——芥川賞候補作家・温又柔の告白

文化

温又柔 ON Yūjū

作家。1980年、台北市生まれ。3歳のときに東京に引っ越し、台湾語交じりの中国語を話す両親のもとで育つ。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程を経て、2009年に『好去好来歌』ですばる文学賞佳作を受賞。11年、『来福の家』(集英社)を刊行。16年、『台湾生まれ 日本語育ち」が日本エッセイストクラブ賞を受賞した。最新刊『真ん中の子どもたち』(集英社)は17年の第157回芥川賞候補にノミネートされた。

台湾文化センター(東京・虎ノ門)で8月10日、作家・温又柔さんの講演が行われ、会場は100人の聴衆で埋め尽くされた。温さんは芥川賞候補となった新作『真ん中の子どもたち』の創作への思いや、台湾生まれ、日本育ちとして日本語の文学を書く作家となった心の変遷、普段われわれが気づかない「日本人」や「日本語」という固定観念に対する違和感を存分に語り、「日本語とは何か」「日本人とは何か」といった本質的な問題を、改めてわれわれに深く突きつける意義深い内容となっている。講演会ではnippon.comのシニアエディターである野嶋剛がコーディネーターを務め、講演内容の一部を収録した本記事の整理・構成は野嶋と編集部・高橋郁文が担当した。

芥川賞候補になるまで

『真ん中の子どもたち』は、今年3月に文芸誌『すばる』に発表し、集英社からこのほど出版されました。デビュー以来、書き続けてきた言語とアイデンティティーをめぐる「テーマ」を、現段階では最も満足いく形で書くことができた作品だと思っています。

芥川賞へのノミネートは、こんな経緯でした。

5月末のある日、『すばる』の編集長から「もうすぐ大事な電話がくるから、ちゃんと出てくださいね」とメールが来て、どんな恐ろしいことが起きるかとドキドキしながら電話を待ちました。ちょうど渋谷にいて、ジュンク堂という本屋さんでスマホを握りしめながらそわそわしていました。やっとかかってきた電話に出ると「ノミネートしたいのですが、引き受けていただけますか」と。自分は芥川賞には縁がないと思っていたのでとても驚きました。実はここで辞退も可能なのです。でも、ノミネートされればニュースになり、自分の作品がばーっと知られます。受賞するかしないかに関わらず、確実にそうなる。そうなったら、私が自分の本をぜひとも読んでほしいと願う人たちの目に触れる可能性もぐっと増える。こちらも、読まれたいから書いているのであって、読まれる可能性が高くなるのは大変ありがたいことなので、「もちろん喜んで」とすぐに返事をしました。

候補作が発表されたのは6月20日でしたが、その前日は、いよいよ後戻りできないと緊張しました。私は普段、夜中から朝方にかけて原稿を書いています。その日も寝ようと思って布団に入ったときに、電話がかかってきました。新潟に住む夫のお父さんからでした。「NHKの朝のニュースを見ていたら、又ちゃんの名前が聞こえてきた」と言ってました。芥川賞のノミネート作品はそうやって大々的に報道されるということを思い知らされ、「ああ、始まったな」と背筋が伸びました。その日は、他にもたくさんの方から祝福と応援の連絡をもらい、胸がいっぱいになりました。

選考会はその約1か月後の7月19日でした。新宿・歌舞伎町にある台湾料理の「青葉」というレストランで、いわゆる「待ち会」をやりました。一人で待つのはとても耐えられそうにないので、『すばる』の編集長や担当者をはじめ、候補作に関わってくださった集英社の方々や、『台湾生まれ 日本語育ち』を作ってくれた白水社の方や、別の出版社の私の担当者さんたち、ここ数年さまざまな活動を共にしてきた仲間などにも声をかけて、みんなでおいしく食べて過ごしました。ちょうど『真ん中の子どもたち』の単行本が刷り上がった日で、書籍を担当してくださった編集者さんができたての本を持ってきてくれました。数年越しで書き上げた作品が、すごくすてきな装丁で一冊の本として完成し、1週間後には書店に並ぶと思ったら感慨深く、とっても幸せな気持ちになりました。

私の受賞を願った皆さんには申し訳ない結果になりましたが、賞を取るか取らないかに関わらず、小説を自分が書き続けることは変わらないし、むしろ私の受賞を願ってくれる人たちがこんなにいるということがよく分かって、申し訳ないというよりはありがたいなあと思いました。ただひたすら「ありがとうございます、ありがとうございます」とその夜はいっぱい言っていた気がします。

『真ん中の子どもたち』ができるまで

デビューしてから一貫して、台湾出身で日本で育った主人公の物語を書いてきました。そういう主人公しか私の作品には出てこない(笑)。私が書いているのは、私が書かなければ誰も書かないであろうことです。自分にとってはすごく書きたいテーマで、他の人は書かないであろうということは、作家として創作者としてすごく幸運なことだと思っています。

『真ん中の子どもたち』(集英社)

『真ん中の子どもたち』は、上海に留学した台湾にルーツを持つ日本育ちの人物の物語で、私の経験が多分に反映されています。私は小さい時から日本語の世界で生きてきて、日本語をしゃべってきました。名前を言わないと日本人だと思われる。温又柔と名乗ると、今でも「日本語お上手ですね」と言われることがちらほらあります。

仮にですが、洗濯機の修理で家に来た人に言われるのは、まったく気にしません。私も相手が郭です、陳ですと名乗ると、この人は日本語がうまいと、ついつい思ってしまいます。ただし、日本語文学の書き手としての私に対し、日本文学の愛好者や日本文学の評論家といったような人たちから「きみは日本語がうまい」と言われると、さすがに複雑な気持ちになります。例えば、とある年配の男性から「あなたのような方がわれわれの日本文学に携わってくれるのは光栄です」と言われたときは、さすがに考え込みました。この人の言う「われわれ」とは一体、何なんだろう? 「あなたのような人」って一体どういう人? たぶんこの人は、同じことを日本人の作家に言わないはずです。この人のいう「われわれ」は「日本人」のことです。そしてこの人にとっての私は、あくまでも「外国人」であって、決して「われわれ」の中には含まれるべき存在ではない。なぜ、こういう人は、私のような日本人もいる、とは考えてくれないのでしょうか?

自分は限りなく日本人に近いけれど、日本人ではない。そのことを突き付けられるたび、寂しく感じてきました。逆に、自分は台湾人としても、何か普通ではない。恐らく大多数の台湾人のようには中国語が流ちょうではないからだと自分では思っていました。それである時期までの私は、中国語さえマスターすれば「日本語もできる台湾人」というふうになれると思って、中国語を一生懸命勉強しました。通った大学の提携校がたまたま上海にある外国語大学だったので、特に考えもせずに留学しましたが、上海と台湾では、同じ中国語といっても文字や発音記号は大きく異なり、語彙(ごい)なども細かい違いがたくさんありました。上海の学校で教わる中国語と、台湾にいた子供のときに記憶している中国語が変に交ざり合って、勉強すればするほど、自分がマスターするべき中国語が見えなくなり、迷子になりました。

文学がくれた居場所

撮影:野嶋 剛

また、自分にとって母国語は何かという面でも混乱を来しました。というのも、中国語を外国語として学び直す経験は、私が自分と日本語の関係がすごく深いことを気付かされることでもありました。日本語を、むしろ母国語と呼びたくなるくらい、自分と日本語の関係は緊密だと気付かないわけにはいかなかった。しかし、日本人ではない自分が、日本語のことを母国語と言っていいのかとまた悩むのです。さらに事情を複雑にさせたのは、中国と台湾の関係です。自分の両親の母国語を学びにきたけれど、上海は自分の両親の母国というわけではないようだ。それなのに上海で出会う中国の人は、私とあなたは「同胞」だと言う。彼らにとって台湾は国ではない。中国の一部なのです。自分は台湾人であると主張する私を、彼らは認めない。

日本語と中国語、台湾と中国、台湾の中国語と中国の中国語……と、こうして振り返ると、当時、20歳の私は、いろんな「国」と「国」の間で行き場を見失っていました。

日本に帰ってきた私は、自分は日本語しかできないけれど日本人ではないという気持ちと、台湾人なのに中国語ができないという劣等感を抱えながら、自分の居場所を模索しました。そして、それを文学に見い出しました。当時の自分があれほど文学を必要としたのは、何もかもが半端だった自分を、文学だけが「ここにいていい」と語りかけてくれるように思ったからなのです。

「言葉のつえがつかめない」コンプレックスを創作の燃料に

私がそう思うようになった最大のきっかけは、李良枝(イ・ヤンジ)です。この人は韓国にルーツがあり、日本で育ったという小説家です。彼女は『由熙』という作品で、母国・韓国に留学し、母国語・韓国語の習得に挫折する「在日韓国人」の苦悩について書いています。要するに日本で育ったけれども日本人とは見なされなくて、それなら母国語の韓国語を学ぼうと韓国に行くのだけれど、母国では「おまえの韓国語は日本語なまりだ」と言われる。李良枝は、母語としか呼びようのない日本語と、母国語と呼ぶべき韓国語の間で葛藤する状態を「言葉のつえがつかめない」という言葉で表現しています。主人公が語るんです。朝起きた時に「ああ」という言葉を出すとき、それが日本語の「あー」なのか、ハングルの「아」なのか、いつも分からなくなる。分からないから、自分は「あ」で始まる日本語のつえも、「아」からはじまる韓国語のつえも、どっちのつえもつかめないと。

生まれた国と育った国のはざまで激しく揺れる心境を、こんなふうに表現した日本文学があることに私は感激しました。

そのときから、日本語しかできないけれど日本人ではない、という自分のコンプレックスが創作の燃料と転じたのです。つまり私は李良枝が『由熙』を書いたように、自分版の『由熙』を書こうと心に決めました。

『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社)

『好去好来歌』は、そのような意欲を燃やしながら書きました。書けば書くほど、書きたいことが出てくるのです。ただ、書きたさとは裏腹に、筆力が追い付かない。それで『好去好来歌』や、その次の『来福の家』を書くに至るまでの自分が、どのように言葉と向き合ってきたのか、一度言語化しておこうと思い、『失われた〈母国語〉を求めて』と題したエッセーの連載を、白水社さんのwebサイトで始めました。それは『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社)として去年、やっと一冊の本にまとめることができました。エッセーを書くことを通して、自分と言葉の関係を徹底的に見つめたおかげで、私は『真ん中の子どもたち』という小説を書くことができたのです。李良枝の「言葉のつえ」という表現と出会う以前の、複数の「国」の間で着地点を見つけられず迷子になっていた20歳前後の私自身をどうにか励ましたくて書いたような作品なので、それが芥川賞の候補になったのは、すごく勇気付けられることでした。外国にルーツを持つ日本の子供たちの自己受容というテーマが、私個人だけのものではなく、日本文学のテーマとしても認められたような気がしました。

選考会の日、「落選」という連絡を受けて最初に浮かんだ感情は「それでも自分は書き続ける」ということでした。「このぐらいでへこたれるなら、初めから小説なんか書かないだろう」と思ったのです。「待ち会」には、『我住在日語(台湾版:台湾生まれ日本語育ち)』の翻訳者も同席してくれていましたが、彼が私のこの気持ちをすぐに中国語に翻訳して「中央社フォーカス台湾」の記者の方に連絡してくれたおかげで、台湾で私の受賞を願ってくださっていた人たちにも「落選したものの温は元気で意欲に満ちている」と伝えられて良かったです(笑)。

日本は私たちの国でもある

でも唯一、すごく悔しいことがありました。

私が芥川賞にノミネートされていたのは、ちょうど民進党の蓮舫さんの二重国籍問題が取り沙汰されていた時期と重なっていました。蓮舫さんが身の潔白を示すために戸籍開示をするという話まで出てきて、このニュースを私は大変複雑な気持ちで見ていました。蓮舫さんも私と同じ中華民国のルーツがあり、蓮舫さんも私がそうであったように子供のときは日台を行き来していた人で、要するに自分で国籍を決めたのではなく、両親の滞在の理由などで実務的に処理してきて、日本の政治家になってから「あのときおまえはどうだったと」と問いただされている状況でした。

撮影:野嶋 剛

蓮舫さんを見ていて、私はすごく励ましたくなった。蓮舫さんが二重国籍であろうとなかろうと、今日本のためにいい政策を進めてくれれば、それで十分だし、むしろその方が重要ではないかと。世間知らずのおまえのきれいごとだと言われるかもしれないけれど、私は移民出身の政治家が活躍できる国というのは、移民にとってだけでなく、その国にずっといる人たちにとっても暮らしやすいのではないか、と考えてしまうのです。率直に言えば、私は蓮舫さんが「日本は私たちの国でもある」と言ってくれればいいのに、と望んでいました。でも、なかなか言ってくれなくて、じりじりしていました。きっと、それを彼女に言わせない圧力もすさまじいものだったのでしょう。結局、彼女はその圧力に打ち勝つことができなかった。蓮舫さんが政治家として言えないのなら、私が文学者としてこう言いたいと思っていました。「日本は私たちの国でもある。日本語は私たちのものでもある」。芥川賞の受賞者としてマイクを向けられたら、そう言おうと一連のニュースを見ながら思っていました。それがかなわなかったことだけが本当に悔しいです。

さまざまなルーツを持つ「日本人」がいっぱいいる社会を夢見て

【以下、コーディネーター・聴衆とのQ&A】

野嶋  おかっぱの髪型はいつからそうしていますか。

撮影:編集部 高橋 郁文

 考えてみたらずっとこの髪型です。ロングにしたことはほとんどありません。実は、11歳から同じ美容師の方にやってもらっています。当時、母はまだ日本語が得意でなく、毎回、私たち子どもの散髪で困っていたのですが、たまたま入った美容院の美容師さんと仲良くなり、そこからずっと長い付き合いをさせてもらっています。初めて切ってもらったとき、頭の形がショートカットに向いていると言われまして、それが今まで続いています。

野嶋  温又柔というお名前もユニークですね。どんな由来がありますか。

 中国語圏の方の間でも、この名前はペンネームだと思われるぐらいよくできた名前で、いわゆる「キラキラネーム」のはしりではないかと(笑)。中国語で「温柔」という「優しい」を意味する語があります。伯父の子、つまりいとこたちがそれぞれ「温又~」という名前だったこともあり、父は私に「又柔」と名付けました。

野嶋  ご家庭では、どんな言語環境でしたか。

 台湾にいた頃は中国語と台湾語交じりで話していて、日本に来てからは日本語も使いながら両親は中国語と台湾語で話し、子供たちは返事を日本語でしました。家庭の中ではチャンポンでした。でも、日本語の習得は早かったと思います。5~6歳には日本語ばかりしゃべるようになっていました。

野嶋  そうすると、温さんにとっての母語とは何でしょうか。

 母語の定義にもよりますが、一番楽に使えるのは日本語です。最初になじんだのが中国語と台湾語。囝仔(人)(ギンナー(ラン)、子どものくせに)、好命(ホーミャー、運がいい)、假仙(ゲーセン、ふりをする、〇〇ぶる)などの言葉は忘れられません。母に言われても、日本語に直せない感覚です。母に「私、今日から勉強しかしない」というと「假仙!(いい子ぶってる)」と、からかわれたりしました。正確に訳せないけど文脈で覚えているようなものも多い。だから最近は、私にとっての母語は中国語と日本語が交じった言葉だと言って逃げています(笑)。

野嶋  温さんの作品にもそうした生の素材がたくさん出てきて、片仮名とかピンインとかで表現されていますね。

 私の日本語の中に混じっている台湾語なので、母語を国で分けてはいません。母語の中には国境線以前の状態があると感じています。つまり「母語の中には国境線はない」ということです。私や東山さん(彰良氏、台湾出身で直木賞作品『流』の作者)はよく、国境を越えたとか、国境またぐ書き手と言われがちですが、私に関して言えば、またがったと言うより最初からどこにいたんだろう、どっちにいたんだろう、という感じなので「はみ出しちゃった」と言った方がしっくりきます。

野嶋  温さんを「何人」と定義することも容易ではないと思いますが、芥川賞など公の場やメディアでは、プロフィールをどのように紹介されたいですか。

 「台湾籍の日本語作家」が自分を言い表すうえでは最も妥当な表現だと思います。今回『真ん中の子どもたち』が選考対象でこういった内容だったからか、報道ではほとんど「日本人」や「台湾人」は使われなかった。デビューした頃は「在日台湾人」とか「非母語話者」と書かれることもありましたが、今回の候補作では、そもそも日本人とは何か、母語とは何だ? といったことを徹底的に書いたものだから、新聞に書かれるときも大体「台湾籍の日本語作家」となっていましたね。私にはうれしいことでした。また「在日」という表現は、そう呼ばれる人が「日本にいる」ことをあえて強調する言葉に聞こえて、以前から違和感がありました。だって、日本にいる日本人も「在日」のはずでしょう? それなのに日本人以外の人にしか、その言葉は使わない。日本にいることを説明しなくていいのは日本人だけの特権のようで、何だか好きになれない言葉なんですよね。私なら台湾系の日本人、あるいは朝鮮系の日本人、それからブラジル系の日本人……さまざまなルーツを持つ「日本人」がこの国にはいっぱいいる、とみんなが自然と感じられるようになればいいのにと思うんです。社会がそんなふうに変わっていったらいいのにと思います。

バナー写真=撮影:野嶋 剛

台湾 文学 芥川賞