台湾を変えた日本人シリーズ:蓬莱米をもたらし、「台湾農業の父」となった日本人——磯永吉

古川 勝三【Profile】

[2017.11.05] 他の言語で読む : 繁體字 |

46年ぶりの帰国

1957年8月29日台湾からのCAT機が山口県にある岩国飛行場に着陸し、一人の老農学者がタラップから降り立った。71歳の磯永吉である。

帰国する磯永吉夫妻(提供:古川 勝三)

12年に渡台してから46年が経過していた。帰国に際し、蔣介石総統は日本の文化勲章に当たる「特種領綬景星勲章」と一時金5000ドルを贈り、台湾省議会も生涯年金として「蓬莱米」20俵(1200キログラム)を毎年贈り続ける決定をし、実施した。台湾農業に多大な貢献をしたことに対する感謝の表明であった。

北海道から麗しの島台湾へ

1886年11月23日に広島県福山市で生まれた。県内にある私立日彰館中学を卒業すると札幌農学校に入学、1911年に東北帝大農学科(札幌市)を卒業した。翌年3月には台湾総督府の農事試験場種芸部農作物育種係の技手として台北に赴任した。ここで始まったばかりの米種改良事業に参加し、これが生涯の仕事となった。25歳のときである。

のちに「台湾農業の父」とも呼ばれた磯は一体、台湾で何を成し遂げた日本人なのか?その足跡を追ってみたい。

磯が渡台した頃の台湾米は、ぱさぱさした食感のインディカ種で1200近い品種があり、赤米や烏米も混入していた。当時の日本は米不足のため台湾米を移入していたが、内地米の半値程度でしか売れなかった。そこで99年、台北農事試験場で日本人の口に合う粘りのあるジャポニカ種10品種の試験栽培をしたが、栽培法が確立してないため失敗した。

総督府はインディカ種の台湾米の研究を優先して実施することにし、1906年の屏東・鳳山での栽培を皮切りに、赤米の除去や優良品種の選抜などを全島の農事試験場で行っていた。

渡台して3年目の15年2月に技師に昇進した磯は、台中農事試験場に場長として赴任した。品種改良の成功には優秀な協力者の必要性を痛感していた磯の下へ、嘉義廳に勤務する末永仁技手が試験場農場主任として10月に赴任してきた。二人は1886年生まれで共に野球が好きで気性も合った。何よりも内地種米の品種改良に熱意を持っていた。

研究においては磯が理論面を、末永が実践面を担当するという両輪のごとき良き関係は、やがて大きな成果を上げ、実を結ぶことになる。

赴任した年に「遺伝子による台湾稲純系分離並びに選抜法」に成功し、台湾稲の優良品種350品種を選抜した。その後、不可能と言われたインディカ種の台湾米とジャポニカ種の日本米の交配に成功し、「嘉南2号」「嘉南8号」など100種もの育種にも成功した。

17年には末永が「稲の老化防止法」を偶然発見した。「稲の老化防止法」とは、小さく強健に育てた苗を従来よりも早い時期に本田へ移すと方法である。この簡単なことが、これまで老熟苗を移植していた台湾稲の田植えの常識を大きく変えることになる。

磯の研究と指導により、台湾各地で稲の栽培が奨励されたため、収量が増え、日本においても高値で取引されるようになった。この状況を知った伊沢多喜男総督は、26年5月に開催された第19回大日本米穀大会において台湾で栽培される日本種を総称して「蓬莱米」と命名した。

農民はいもち病に強い品種を望んだので、25年に中央研究所嘉義農事試験支所で選抜されていたいもち病に強い「嘉義晩2号」が奨励された。しかし、「嘉義晩2号」は食味に問題があり市場価値が低いため、新品種の蓬莱米の出現を期待するようになった。

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  • [2017.11.05]

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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