なぜか心落ち着く嵐山の風景

文化

京都を訪れてどこか安堵する中国人旅行者が多いという。それは、京都が長安を模した平安京の面影を現代にとどめているからかもしれない。日中の古都の光景を比較しながら、なぜ嵐山が中国人に人気なのかを考える。

「聞いていたのと違う!」

702年、数十年ぶりに唐朝へ派遣された万葉詩人・山上憶良(やまのうえのおくら)ら遣唐使一行は、当時人口100万人という世界最大の都市・長安を視察した際、大いに驚いたに違いない。眼前に広がる唐の都は自分たちの都とかなり趣が異なっていたからだ。飛鳥時代の都である藤原京は中国の王城をモデルとして建設されたと聞いていたのに、そうではなかったのである。

平安京の街路が今に残る京都

どこが違うかといえば、第一に、宮殿の位置である。藤原京は正方形の都の中央部に置かれていたが、長安は中央北端部にあった。第二に、市場の位置である。前者では宮殿の北方にあったが、後者では宮殿の南方かつ左右対称に位置していた。

遣唐使が帰国後の710年、藤原京は平城京に遷都された。平城京建設に際しては、先年視察した長安が最新モデルとなった。遣唐使諸氏の意見は重宝されたことであろう。さらに、平城京は784年に長岡京へと移った。その長岡京もわずか10年後の794年には平安京に遷都された。何とも目まぐるしいことだったが、平安京だけは応仁の乱や幕末動乱期などを経ても、街路はほぼ変わることなく、東京に移る1869年までの千有余年もの間、日本の首都であった。

残念ながら、先の藤原京、平城京、長岡京のいずれも今では田畑などに帰し、往時をしのぶ建築物がいくつか再現されているものの、当時の様子を思い浮かべるには相当な想像力が必要であろう。それを思うと、平安京を前身とする現在の京都は幸いである。その長い歴史の日々を重ねてきたためか、日本人にとっては心の故郷となり、郷愁を誘い、風雅な時代をも想起させる特別な都市になったのである。

都市の共通性は条坊制

平安京が長安と異なる点は、都の周囲に敵の侵入を防ぐための城壁がないことである。長安では異民族による侵略の可能性を常に意識せざるを得なかったが、島国の日本ではそこまで考えなくても良かったからだ。一方、最大の共通点は条坊制(じょうぼうせい)にある。条坊制とは、中央を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)が都を左京と右京に分けており、南北の大路(坊)と東西の大路(条)によって碁盤の目のように組み合わせた都市計画のことだ(日本でそのような都市計画を初めて導入したのは藤原京だという)。

日本の場合、札幌や名古屋などの一部を除き、碁盤の目のような整然とした景観よりも、複雑に入り組んだ町並みの方が多い。これは、山あり谷ありの地形に都市が作られたこと、自然発生的な都市が少なくないこと、城下町由来の都市では守備側に有利な町並みが求められたことなどによる。それだけに中国の人々が京都を訪れた際、碁盤の目のような光景が眼前に広がっているのを見ると、あたかも中国の都市のようなので、どこか懐かしい気分になり、他の都市以上に魅了されるのではないか。

そもそも古代中国では、王城を造営するには儒教の古典『周礼(しゅらい)』考工記(こうこうき)という技術文献を参考にしたという。すなわち、王城は9里の正方形とし、南北9坊、東西9条の街路を設け、宮殿は中央、その左右には先祖を祭る宗廟(そうびょう)と土地神などを祭る社稷(しゃしょく)、その南には政治執務の場となる朝廷、その北には市場を設けることになっていた。従って、中国には碁盤の目のような都市が増えたのも道理である。

ノスタルジックな嵐山の風景

このように京都は日本人だけでなく、中国の人々にも親近感の持てる都市であるが、人気が高い観光スポットの一つとしては、嵐山、特に渡月橋(とげつきょう)付近の光景が挙げられよう。過去には故周恩来総理が留学時代の1919年4月、帰国直前にこの地で「雨中嵐山」という詩を詠じたことがあり、嵐山公園(亀山地区)には今も詩碑が残っている。この地には周青年の詩心をかき立てる何かがあったに違いない。

個人的な感想であるが、嵐山の光景は唐朝よりもさらに時代をさかのぼり、古代中国(戦国時代)のある地方の情景を反映しているような気がする。

具体的に見てみよう。渡月橋、中州の嵐山公園(中之島地区)、桂川(保津川、大堰(おおい)川)を見渡せば、まさに都江堰(とこうえん)の風景に酷似しているのである。

都江堰は四川省を流れる岷江(みんこう)の水を活用する水利施設で、紀元前256年に着工され、同251年に完成した。約2300年前の施設ながら、現在でも農地かんがいに十分役立っており、2008年5月の四川大地震でも水利機能的には軽微な影響にとどまるほどに堅固な施設である。

都江堰以前の四川盆地は、雪解け水によって毎春、甚大な洪水被害を受けていた。そこで、秦始皇帝の曽祖父・昭襄(しょうじょう)王が蜀(しょく)郡の太守・李冰(り・ひょう)に都江堰の建設を命じた。本人は完成の日を待たずに亡くなったが、息子の李二郎が工事を完成させている。

一方、嵐山では、5世紀後半に渡来氏族の秦氏(はたうじ)が得意の土木技術を駆使し、葛野大堰(かどのおおい)という水利施設を築造した。今ではその原型こそ失われているが、渡月橋のすぐ上流には木くいを並べた堰(せき)があり、その面影がしのばれる。

筆者もこの都江堰を訪問したが、確かに嵐山と似ていたのである。例えば、中之島地区の中州は水流を分ける都江堰、渡月橋(長さ155メートル)はつり橋「安瀾橋(あんらんきょう)」(同240メートル)、保津川右岸山腹の大悲閣千光寺は岷江の左岸山腹にある展望台・秦堰楼(しんえんろう)といずれも重なるように見えた。ちなみに大悲閣は、保津川を開削した豪商・角倉了以(すみのくら・りょうい)が工事の犠牲者慰霊のために建立した寺であり、本人もここで逝去している。

そういえば、司馬遼太郎は自著『街道をゆく(26)嵯峨散歩、仙台・石巻』で「嵯峨野を歩いて古代の秦氏を考えないというのは、ローマの遺跡を歩いてローマ人たちを考えないのと同じくらいに鈍感なことかもしれない」と記し、都江堰と渡月橋周辺の地形的類似性も指摘している。さらに、一之井堰並通水利組合が嵐山西一川町に建立した碑を見ると、「秦氏本系帳によれば、山城地方の開発につとめた大豪族秦氏が秦の昭王の事績にならって当時の日本にはたぐい稀な葛野大堰をつくったとされている」という。さすれば、前述の感想もあながち妄想や夢物語ではないのかもしれない。

京都の前身が平安京というだけでも、われわれに唐の長安の光景を思い起こさせ、歴史的な興趣は尽きない。加えて嵐山を見渡すと、想像の翼がさらに広がり、紀元前の古代中国の景観までも見えてしまう。換言すれば、壮大な歴史絵巻が眼前に展開しているかのような感慨に浸ることもできるのである。

われわれは京都、特に嵐山を訪れると、日本の代表的な原風景に触れたような気がして心が落ち着くものである。ひょっとして、中国の人々も嵐山で遊んでいるうちに、いつしか安堵(あんど)感にも似た思いが湧き、穏やかな心持ちになることがあるのではないか。京都嵐山は、日中両国の人々に特別な感慨を与える希少な土地柄であると改めて思うのである。

バナー写真=紅葉の頃の嵐山・渡月橋(PIXTA)

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