台湾を愛し愛された新聞記者

社会

9月17日の朝、驚きのあまり動けなくなった。フェイスブック上で、とある友人に宛てられたメッセージを見つけたからだ。内容は「ご友人の皆様へ。中川博之様が、今朝早く台北市内にて交通事故のため、ご逝去されました」から始まる一文だった。

中川さんと私は、その3日後に共通の友人と3人で食事をする約束をしていた。つい一昨日まで、LINEやフェイスブック上でもやりとりをしていたではないか。信じられない気持ちでいっぱいだった。悪い冗談だと思った。

日台の各界から葬儀に参列

中川さんは、九州で販売される「西日本新聞」に所属する記者だった。2016年の9月から台北支局長として赴任し、ちょうど1年目が過ぎた頃に事故は起こった。9月17日未明、故郷の熊本県と宮崎県との合同県人会のために集まった帰り、中山北路上の横断歩道ではないところを横切った中川さんは、街路樹が植えられた二つの中央分離帯のうち、一つ目を越えたところでタクシーにはねられた。警察からの連絡を受け、日頃から中川さんと親しかったアートディレクターの岡井紀雄さんが台湾大学病院に駆け付けたときは、ほぼ即死の状態だったという。

「穏やかな顔をしていたので、落ち着いて寝ているんだと思いました」と言って岡井さんは、中川さんとのLINEを見せてくれた。翌日の晩に中川さんが好きだった温泉に一緒に行く約束をするやり取りがあり、その下に警察から連絡を受けた岡井さんのメッセージが続いていた。

「事故に遭われたみたいですが、大丈夫ですか」「今から台大病院に向かいます」

岡井さんのメッセージが「既読」になっていないことに気付き、胸が苦しくなった。なぜならそこに「既読」の文字が付くことは、この先もずっとないからだ。

台湾で、100メートル以内に横断歩道がある場合、道路を横切ると、交通違反になる。事故相手のタクシー運転手は、これまで無事故無違反だった。現場の辺りを日常的に運転する友人の話によると、「信号につかまりたくないから特にスピードを上げる」という危険な場所だった。現場で献花をする際、怒りと涙が込み上げてきた。「どうしてこんなところを渡ったの?中川さん」。直前まで一緒にいた熊本県人会の方は「多少お酒は入っていたが、特に酔っていたようには見えなかった」と話した。

9月20日の早朝、台北の第二殯儀館で葬儀が行われた。お子さん5人を含むご家族と西日本新聞本社の方々が福岡県より来台された。台湾における日本の大使館に当たる「日本台湾交流協会台北事務所」の沼田幹男代表をはじめ、日本人会や台北東海ロータリークラブ、県人会、記者クラブなど多くの団体・個人の参列があり、台北市観光局の簡余晏(かんよあん)局長も顔を見せた。日常的な業務の他、面白いテーマを探して積極的にさまざまな会や団体に顔を出し、人脈を作った中川さんの葬儀には、わずか1年という駐在期間にも関わらず、100人近い参列者が集まった。泣いている人も少なくなかった。優しく愛嬌(あいきょう)があって気前が良く、おとこ気にあふれる中川さんは、たくさんの友人に恵まれ、慕われていたと思う。

台湾各地を精力的に取材し報道

私と中川さんが知り合ったのは、中川さんが所属していた台北東海ロータリークラブの例会の席である。今年1月に台湾で出版した拙著『台湾、Y字路さがし。』をご存知だった中川さんが「今度取材させてほしい」と声を掛けてくれたのだ。

歩くだけで汗が噴き出すような暑い日で、台北古亭駅で待ち合わせをし、そこから川沿いにある日本統治時代の料亭「紀州庵」までを歩いた。中川さんと歩いた小さな旅は6月19日付の西日本新聞紙上で、『Y字路探し時間旅行』というタイトルの記事になった。私との散歩を軸とし、書籍の中の言葉を引用しながら、中川さんによって完成された一篇(ぺん)の上質な「街歩きエッセー」だった。

その他、中川さんによってこの1年間に書かれた署名記事をまとめて拝読したが、特に目立った特集や連載に以下がある。

  • 台湾人も含めた当時の日本人10万人以上が太平洋戦争中に沈んだバシー海峡の戦没祭について「『船の墓場』日台結ぶ」(2016年12月24日付)
  • 228事件で若者たちを守り、自らが犠牲になった台南の弁護士・湯徳章(坂井徳章)を取り上げた「台湾の若者守った日本人」(2017年1月4日付)
  • 台湾屏東竹田郷で、日本人が寄贈した図書を基に開設された日本語図書館を通した日台交流を伝える「日本語図書館 日台結ぶ」(2017年1月28日付)
  • 2011年の東日本大震災のときに大きな義援金が送られた背景を小説として描いた在台30年の作家・木下諄一さんの『アリガト謝謝』について「被災地支えた台湾物語~250億円の募金活動を小説化」(2017年3月21日付)
  • 桃園の原住民タイヤル族の歴史を知る「先住民の権利 命がけ闘った」(2017年4月17日付)
  • 日本統治時代に育った台湾人が立ち上げ創立50年を迎えたグループ「台湾歌壇」の日台をつなぐさまざまな思いをつたえる「『愛日』短歌に50年」(2017年4月21日付)
  • 花蓮の日本人移民村・豊田村跡を訪ねた「開墾、風土病と闘った移民村」(2017年5月1日付)
  • 世界最長の38年間に及んだ台湾の戒厳令から30年目を迎えた台湾の様々な声を伝えた。「台湾 弾圧の時代忘れない」(2017年7月16日付)
  • 戒厳令中に政治犯が収容された離島・緑島について書いた「台湾戒厳令解除30年~弾圧の闇 監獄島は語る」(2017年8月21日付)

反日デモを取材中の中川さん、台湾台北、2017年7月7日(撮影:産経新聞台北支局 田中靖人)

こうしてみると、1年という短い時間でどれほど精力的に台湾各地へ足を運んでいたかがよく分かる。中川さんとの共通の友人で、蔡英文総統の自伝を翻訳した九州大学研究員・前原志保氏は、「知らない事柄があっても、言葉が分からなくても、取材対象の懐にぐんと飛び込んでいく大胆さと熱意があった」と中川さんを評した。

相対的な視点を心掛ける報道

日本では、東日本大震災以降に台湾への認知が広がり、台湾についての報道も増した。以前よりもぐっと台湾との距離は近くなり、それに比例して歴史も含めた認識が深まっているかといえば、疑問が残る。これは「親日」「食べ物がおいしい」「懐かしい」などのキーワード以上に語られる機会が少ないことに原因があるように思う。

私も台湾で長年暮らしてきて、台湾の方々の親切さは肌で感じている。この肌感覚で台湾に入ると、当初は「台湾は本当に、心底親日!」と思いがちだが、だんだんと後ろにある陰影が見えてくる。実際、台湾では世代によって日本人を好ましいと考える理由は異なるし、民族的な背景もさまざまだ。一言で「親日」といってもその奥底は複雑で、理解するには歴史の勉強を含めた時間が必要とされる。それを中川さんは、在台1年に満たないにもかかわらず、できるだけたくさんの人の視点に立つことを心掛け、細心の注意を払い、丁寧に言葉を選んで伝えた。

例えば、日本統治時代の初期に台湾東部にできた移民村「豊田村」については「日本人移民は、開墾によって生活の場を奪われる先住民の抵抗にも苦しんだ」と書き、日本人移民の苦労を想像しつつ、台湾原住民にも寄り添った。また台南の弁護士・湯の記事では、タイトルだけだと単純な日本人賛歌と思われる記事の中にも、「差別に苦しむ台湾人の人権を守るには弁護士になるしかないと東京に移り住み、苦学の末に司法試験に合格した」と記し、当時の日本人による台湾人差別があったことを明確にしている。このように相対的な視点は、中川さんが書いた全ての記事に共通しており、1年に満たない中でこれだけの理解を身に付けるには、相当の努力と苦労があったと察する。

台湾での充実した日々に感謝

前出の岡井さんによれば、事故後に初めて訪れた中川さんの部屋は、資料や本などであふれ、壁いっぱいに掛けられた各地の台湾原住民の伝統衣装には、それぞれに細かな説明がびっしり記されたメモが付いていた。また、岡井さんによれば、中川さんは毎日のように深夜の2~3時までオフィスに残って残業していたという。

「台湾に居られる限られた間に一つでも多く仕事をしたかったのだと思う。そして台湾に来て本当に良かったと、よく言っていました」。日本のご家族によれば、痛む身体のためにリクライニングシートを購入するほど疲れていたという中川さんは、岡井さんとバスに乗るとき、いつもお年寄りが乗ってくるかもしれないことを気遣い、絶対に席に座らなかったそうだ。また、司馬遼太郎の『街道をゆく~台湾紀行』で知られる「蔡焜燦さんを忍ぶ会」では、会の1週間前に亡くなった中川さんからの供花が届き、蔡総統からの花の脇に飾られた。生前に注文していたのだろうが、気遣いの細やかな中川さんらしい。亡くなった後にあふれ出るエピソードのどこを切っても、人の考えや立場を思いやりながら仕事に全力を傾けた中川さんの人柄が、金太郎あめのように顔を出す。

私は書き手としては中川さんより随分と経験は浅いが、「伝える」側に身を置く人間として中川さんから大きなことを学んだ。いつか再会したときに、「こんな仕事をしたよ、中川さん。あのとき応援してくれてありがとう」と伝えられるようにやるべき仕事をしっかりやっていく。それが私のできる中川さんへの最大の供養だと思う。中川さん、どうぞ安らかに。いつかまた、一緒にどこかのY字路を散歩しましょう。合掌。

バナー写真=事故現場と献花、台湾台北、2017年9月19日(撮影:栖来ひかり)

台湾 西日本新聞