飲酒考:日本と中国の違い(下)

文化

なぜ日本では酔客が目立つのか

<(上)から続く>

一方、日本ではどうか。中国に比べると、日本では飲酒や酩酊(めいてい)に対していくらか大目に見る傾向があるようだ。それでは、同じように歴史的な面から考察してみよう。

酒と神事の奥深い関係

まず、宴会に関する肯定的な物語がある。古代、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)があることで激怒し、天岩戸(あまのいわと)という洞窟に身を隠したために、天下は暗闇に閉ざされてしまった。そこで神々が一計を案じ、洞窟の前で宴会を開くことにした。神々が大いに盛り上がっているので、天照大神が何事かと外の様子をのぞき見ようと洞窟の扉を少し開けた途端、力持ちの神が天照大神を引きずり出し、天下に光が戻ったという。まさに宴会万歳である。

次に、酒造りや飲酒についてはどうか。宮崎県西臼杵郡高千穂町には「高千穂の夜神楽」という民俗芸能が伝わっており、国の重要無形民俗文化財でもある。秋の収穫への感謝と翌年の豊穣(ほうじょう)を祈願し、夜神楽を奉納するものだが、その一つに「御神体の舞」がある。これは伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二神が酒を造り、仲良く飲んで夫婦円満となる舞であり、「国産みの舞」ともいう。すなわち、酒造りや飲酒は古代から祝福の対象であることが分かる。

上述の神代(かみよ)の物語や夜神楽のように、日本では酒が神事と深い関係にある。実際、酒造りでは杜氏(とうじ)が作業に際して祝詞(のりと)を唱える。あるいは、酒には人と神様との仲介役を果たす役割があるので、「お神酒」という美称があるのもその名残である。

最近では、映画「シン・ゴジラ」の大事な局面で「ヤシオリ(八塩折)作戦」が展開された。この「八塩折」とは、日本神話において素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)という大蛇を退治するために用いた酒の名前である。このように古今を問わず、日本人は酒を人間の味方と考えている節がある。

居酒屋の効用

筆者の場合、中国で酒を飲む機会は接待や宴会が大半を占めたが、日本では居酒屋で同僚や上司と部下の関係で杯を傾けることも多かった。そこでは、社内で交わされる建前よりも、本音が語られる。店内からは、「会議では賛成したが、それができれば苦労しないよな」「君の意見も分かるが、必ず骨は拾ってやるから我慢してくれ」などのやり取りが聞こえてきたものだ。酒を飲めば心理的ガードが下がるので、相手と率直に語り合うし、社内では言えない微妙な話も説明できる。組織内で自分の意見を通し、部下の不満を解消し、昼間は言えない愚痴や不満を聞いてもらうのに、日没後の酒席は大いに役立っている。その効用を実感しているからこそ、人々は今夜も赤提灯(ぢょうちん)の暖簾(のれん)をくぐり、一献傾けるのだ。

そういえば、わが国には「酒」「酒場」「居酒屋」などをテーマにする楽曲が無数に存在するのは、さまざまな理由で酩酊や泥酔の経験を持つ人が少なくないからであろう。そのような楽曲に耳を傾け、その時の屈託を思い起こしてはまた酒を飲んでしまい、翌朝二日酔いに悩まされた人もいるであろう。

酔客への風当たりは厳しくなるばかり

本題に戻ろう。中国とは異なり、日本では閉店間際の酒場や終電車内などで酩酊している人をよく見かける。泥酔すれば、無防備なだけでなく、降車駅を乗り過ごす恐れもある。それでも酔客の姿は絶えることがない。歴史的に考えれば、古代では巫女(みこ)が神様の言葉を伝えるには自ら酩酊(トランス)状態となる必要があったことも遠因の一つであろう。だからこそ、従来は周囲が大目に見てくれるものと考え、安心して酩酊に至る人が少なくなかったと思われる。

だが、今までは酔客に鷹揚(おうよう)であった日本も、最近では様相が相当変わってきたことを急いで付け加えなければならない。昨今の倫理観や道徳観の高まりに応じ、酔客の振る舞いに対する周囲の目は間違いなく厳しさを増している。従来のように「酩酊していて覚えていないので、不作法を働いても許してもらえた」ような牧歌的な状況は、もはや過去のものと考えた方が無難であろう。

結論:「酒に飲まれるな」

日本または中国を問わず、「酒は飲んでも、飲まれるな」という警句を肝に銘じ、皆と酒杯を傾けながら、節度をわきまえた愉快なひとときを過ごしたいものである。

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