『赤毛のアン』を日本中の子供たちに届けたい——翻訳者・村岡花子の生涯

文化

2014年6月21日(土)、22日(日)の2日間にわたって、第25回英日・日英翻訳国際会議(通称IJET、日本翻訳者協会主催)(※1)が東京ビッグサイトで開催された。70を超えるプログラムが用意され、現役の通訳・翻訳者はもちろん、通訳・翻訳を目指す人たちも訪れ、入場者数は例年の2倍と大盛況となった。

中でも多くの聴衆を集めたのが村岡恵理さんによる基調講演だ。祖母である翻訳者・村岡花子(1893~1968年)が、日本の子供たちに届けたい一心で打ち込んだ『赤毛のアン』の翻訳にまつわるエピソードや、花子自身の起伏に富んだ人生について語った。

ドラマで描かれる花子

NHK朝の連続テレビ小説で花子役を演じる吉高由里子さん。(写真提供=時事)

現在放映されているNHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」は、恵理さんの著書『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』がベースとなっている。

恵理さんは基調講演で「『花子とアン』のエピソードの中には、実話でないものも含まれます」とある場面を紹介した。

「花子が英語の辞書を漬け物石の代わりに使っていたシーンですが、祖母は、辞書を宝物のように扱っていたので、漬け物石として使うなんてことはなかったと思います」

さらに、花子がワイン(葡萄酒)を大量に飲んで酔っ払ってしまう場面については、「酔いつぶれるまでお酒を飲んだことはなかったでしょう。きっと、甲府ワインを広めるための番組制作者側の意図だったのではないでしょうか」と言い切ると、会場から笑いが起こった。

花子の青春期―さまざまな人物との出会い

山梨県甲府市の貧しい農家に育った村岡花子(本名・安中はな)は、父親の勧めもあり、10歳の頃にミッション系スクールの東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)に給費生として入学。外国人教員の厳しい指導の下、花子はいつしか英語の世界にのめり込んでいった。

翻訳家・村岡花子の誕生の裏には、実に多くの出会いがあったことを忘れてはならない。女学校時代には、厳しいながらも英語教育に惜しみない情熱を注いだカナダ人宣教師イザベラ・ブラックモア女史(1863~1942年)との出会い。花子がこの頃に身に付けた英語力は計り知れない。そして、歌人である佐佐木信綱(1872~1963年)や片山廣子(1878~1957年。翻訳家としては松村みね子の名で知られ、女学校の15歳上の先輩)との出会いにより、花子は詩(短歌)を詠むことに情熱を注ぎ、近代文学に触れることで、日本語を洗練させていった。

息子の死と翻訳者としての決意

女学校を卒業し、英語教師を経て編集者となったものの、関東大震災、太平洋戦争と過酷な時代を生き抜いた花子の人生は決して平たんなものではなかった。花子にとって最も耐えがたかったのは、6歳の誕生日を目前に最愛の息子を病気で亡くしたことだった。

「祖母は、関東大震災の痛手からは比較的早く回復できたものの、息子の喪失はあまりにもショックが大きかったようです。幼児期に洗礼を受けた敬けんなクリスチャンだったのですが、この時ばかりは信仰心を捨てようと考えたそうです。ただ、新約聖書の“神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された”という一節に胸を打たれて、思いとどまりました。そして、かつて自分を想像の世界へ掻き立ててくれた英語の物語を翻訳することで、今度は日本中の子供たちに愛情を注ぎたいと考えたんです」

『赤毛のアン』出版までの道のり

そして、花子と『赤毛のアン』との運命的な出会いが訪れる。カナダ人宣教師から『赤毛のアン』の原書『Anne of Green Gables』を託されたのは1939年頃。第二次世界大戦の戦況が悪化の一途をたどる中、おそらく1943年頃から翻訳を開始したと思われる。時代が時代だけに、出版のあてもなかったが、「原書と手書きの翻訳原稿を常に持ち歩き、空襲警報が鳴るたびにそれをかかえて、防空壕に避難していました」と恵理さん。

「アンの物語のモチーフである“少女の田園での生活”、“詩への愛情”などが、祖母の幼少時代と重なったことも、翻訳への思いを奮い立たせたんだと思います」

原作者L・M・モンゴメリの孫・ケイト・マクドナルド・バトラーさん(右)と村岡花子の孫・村岡恵理さん。(東京・日本橋三越本店「モンゴメリと花子の赤毛のアン展」にて、写真提供=時事)

終戦を迎えた頃には『赤毛のアン』の翻訳は完成していたが、戦後、連合軍の検閲や言論統制、また金銭面でも貧窮に陥っていた日本の出版業界は荒廃し、新刊を出す余裕などなかった。1950年頃にはようやく状況も回復し、まだ日本では無名だったルーシー・M・モンゴメリ原作『Anne of Green Gables』の翻訳原稿が三笠書房の編集者の目に留まることとなる。

しかし、出版に際しては、タイトルをめぐりちょっとした相違があった。当初花子が考えていた訳題は『窓辺に倚(よ)る少女』だったが、担当編集者が『赤毛のアン』を提案。花子は「『赤毛のアン』なんて絶対いやです」と突っぱねたようだが、娘(養女)のみどりに相談したところ、「『赤毛のアン』にしなさいよ、『窓辺に倚る少女』なんておかしい」と歯に衣着せずに覆されたそうだ。そこで花子も、「この物語を読むのは若い人たちなのだ。若い人のほうが正しいのかもしれない」と思い直した。

こうして、翻訳完成から約7年後の1952年、ようやく『赤毛のアン』が誕生した。

花子にとってのプリンスエドワード島

花子は、恵理さんがまだ1歳にも満たない頃に亡くなっている。一方で恵理さんの姉、美枝さんは恵理さんの8歳年上。祖母と一緒に本を読んだ記憶なども残っている。「家にはたくさんの“みえちゃんへ おばあちゃまより”と書かれた絵本がありました。私は本を開けるたびに、私じゃなく、お姉ちゃんばっかり…と悔しくてたまらなかった」。しかし、花子は亡くなる直前に書いた「大阪の休日」というエッセイに恵理さんを登場させている。その内容は、何があっても子供を母親から離してはいけないというものだった。

「ある日、母と姉が出かけて、祖母はお留守番で私の面倒を見ていたそうです。すると、私が突然泣き出し手のつけられない状態に。その頃祖母は、『赤毛のアン』の舞台、プリンスエドワード島を訪れてみたいと旅の計画をしていて、その旅行に私の母、みどりを同行させようと思っていたようですが、この出来事でこの子を母親から離してはいけないと、計画を断念したそうです。そのわずか一週間後、祖母は脳血栓で倒れ亡くなりました」

「祖母は、プリンスエドワード島行きを何度も考えていました。でも、結局その夢は果たせなかった。その度に、もっと優先するものがあったから。病弱だった祖父との時間もそうですし、母と私が離れ離れにならないようにいつもそばで見守ってくれました。考えてみれば、祖母が翻訳という仕事と共に築き上げていったものが、彼女にとっての“プリンスエドワード島”であり、一番心地よい空間だったのかもしれません」

(原文英語。日本語用に一部編集)
参考資料=『アンのゆりかご―村岡花子の生涯』(新潮文庫/2011年)

(※1) ^ 第1回会議(IJET-1)は1990年に箱根で開催。以降、サンフランシスコ、横浜、バンクーバー、京都、シドニー、宮崎など、1年交代で、日本国内と英語圏の開催地を巡り、今年、記念すべき25年目を迎えた。