日本銀行の「中長期的な物価安定の目途」の評価

岩田 規久男【Profile】

[2012.03.28] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL |

日本銀行は2月に「中長期的な物価安定の目途(めど)」を発表した。事実上のインフレ目標を設定したとも受け止められているが、この「目途」はデフレ脱却のための金融政策として十分なのか。岩田規久男学習院大学教授が評価する。

2012年2月14日に、日本銀行は「中長期的な物価安定の目途(price stability goal in the medium to long term)」を公表した。それによると、「『中長期的物価安定の目途』について、日本銀行は、消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域にあると判断しており、当面は1%を目途とする」という。

そこで、この日銀の「中長期的な物価の安定の目途」を、英国などが採用しているインフレーション・ターゲティングの枠組みと、米連邦準備制度理事会(FRB)および米連邦公開市場委員会(FOMC)の金融政策の枠組みと比較しながら、評価してみよう。

インフレーション・ターゲティングの7要素

インフレーション・ターゲティングとは、次の(1)から(7)の要素で構成される。

(1)数値目標達成の義務 中央銀行の金融政策の目的を「中期的なインフレ目標」の達成とその維持とし、達成すべきインフレ率を、明確な数値で示す。

(2)数値目標を決定する主体 政府あるいは政府と中央銀行が協議して決める。ただし、数値目標の最終的決定権は政府にある。

(3)数値目標の達成手段は中央銀行が決める

(4)達成時期の明確化 中期で、具体的には1年半から2年程度。

(5)生産と雇用の安定化との両立

(6)説明責任あるいは達成責任 達成できなかったときには、国民に対して明確な説明責任あるいは達成責任を取る。

(7)動学的整合性 政策実施後に、約束を破らない。

2月14日の記者会見で「中長期的な物価安定の目途(goal)」の導入を発表する日銀の白川方明(まさあき)総裁。日銀はこれ以前、各政策委員が中長期的にみて物価が安定していると理解するインフレ率の範囲を「中長期的な物価安定の理解(understanding)」として公表していたが、米FRBが示した「インフレ率の長期的目標(goal)」に比べて分かりにくいと国会審議などで批判されていた。(写真=産経新聞社)

日銀の「目途」を7要素から評価する

日銀の「中長期的な物価安定の目途」を上の(1)~(7)のインフレーション・ターゲティングの要素から評価すると、次のようになる。

(1)数値目標達成義務の観点からの評価 

(a)日銀のいう「2%以下のプラスの消費者物価の前年比上昇率」も、当面の目途である「1%」も、インフレーション・ターゲティングとは違い、「中央銀行が責任を持って達成・維持するインフレ目標値(target)」ではない。従って、いつまでも、実際の消費者物価の前年比が1%未満であっても、日銀はまったく責任を取る必要がない。達成責任も説明責任も伴わない「中長期的な物価安定の目途」では、市場の信頼を得ることができず、デフレ脱却の効果は小さい。

(b)日銀のいう消費者物価とは、「生鮮食品を除いた消費者物価指数」である。総務省の「消費者物価指数統計」から判断すると、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年比は実際よりも平均的に0.6%の上方バイアスがある。従って、当面の目途を統計上の1%とすると、実際には、0.4%を目途にすることになり、デフレに陥るリスクが大きい。

(c)生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年比上昇率はエネルギー価格が上昇すれば、容易に1%以上になる。実際に、08年中は原油価格が高騰したため、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年同月比は、08年2月から1%以上になり、7月から9月にかけては2.3~2.4%にまで上昇した。しかし、09年に入って、原油価格が急落すると、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年同月比は一転してマイナスになった。このように、エネルギーを含んだ消費者物価の前年比を目途として金融政策を運営すると、物価安定を達成できない。

(2)数値目標を決定する主体の観点からの評価

「中長期的な物価安定の目途」を決定したのは、金融政策を運営する日銀自身で、政府が関与していない。

金融政策を運営する主体自身が、中長期的な物価安定の目途を決定するのは、営業マン自身が自分で売上高の目途を決めるようなものである。これでは、会社の経営目的達成と整合性が取れない。これと同じように、金融政策を運営する日銀が中長期的な物価安定の目途を決めるのでは、政府の政策目標と整合性が取れない。

米国でも、物価の安定における具体的なインフレ率は中央銀行が決めている。その点では、日銀と同じように見える。しかし、FRBの年次報告書や議長の議会証言やスピーチなどは常に、FRBとFOMCが責任を持って、雇用の最大化と整合性の取れた中長期的インフレ率として2%のPCE(個人消費支出)インフレ率を達成することを述べている(例えば、バーナンキFRB議長のボストン連銀でのスピーチ“The Effects of the Great Recession on Central Bank Doctrine and Practice”、2011年10月18日)。

2012年1月25日のFOMCの声明は、このことを確認したもので、「FOMCは議会から法的に委託された義務、すなわち、雇用の最大化の促進、物価の安定および穏やかな長期的金利の達成にしっかりとコミットしている」と述べている。このように、FOMCの「2%のPCEインフレ率という長期的目標(longer-run goal for inflation)」はコミットメントを伴った目標値である点で、日銀の「中長期的な物価安定の目途」とは根本的に異なっている。

(4)達成時期の明確化の観点からの評価

達成時期が明示されていない。これでは、いつまでたっても、目途とするインフレ率が達成・維持されなくても、日銀は責任を取る必要がない。

(5)生産と雇用の安定化との両立の観点からの評価

エネルギーを含んだ消費者物価の前年比を目途にして金融政策を運営すると、生産と雇用の安定を達成できない。エネルギー価格の上昇や消費税増税によって、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年同月比は容易に1%を超えて上昇する。このとき、生鮮食品を除いた消費者物価指数の前年同月比は当面の目途である1%を超えたと考えて、金融を引き締めたり、従来よりも緩和の程度を緩めたりすれば、生産の縮小と失業の増大を招く。

日本で、エネルギーや消費税を含んだ消費者物価の前年比が1%を超えた場合、インフレーション・ターゲティング採用国のような柔軟な金融政策運営を期待できるであろうか。過去のゼロ金利や量的緩和の解除の歴史から見て、そうした期待を持つことはできない。

(6)説明責任あるいは達成責任の観点からの評価

日本銀行も日本政府も、デフレ脱却は金融政策だけではできず、同時に、政府による成長戦略や民間企業の生産性向上の努力が必要であると考え、マスコミと国民の大半も同様に考えている。このような知的状況では、日銀がいつまでも「1%インフレの目途」を達成・維持できなくても、その原因は政府の成長戦略の不適切さや民間企業の生産性向上努力の不足に着せられてしまい、日銀に達成責任はおろか、説明責任も問うことはできない。

それに対して、インフレーション・ターゲティング採用国やFOMC(あるいはFRB)は「長期的インフレは主として金融政策によって決定される」(2012年1月25日のFOMCの声明)と考えている。このような共通の理解がない限り、中央銀行が物価安定の目途なり、目標なりをいくら公表しても、中央銀行に説明責任も達成責任も問うことができない。中央銀行にいずれの責任も問えないならば、中央銀行が中期的(1年半から2年程度の平均値で)に「目途」や「目標」を達成することは期待できない。

(7)動学的整合性の観点からの評価

目標達成へのコミットメントのない「目途」に動学的整合性を求めることは不可能である。なぜならば、目標達成を硬く約束するからこそ、その約束を破ったかどうかを問うことができるからである。

デフレ脱却の金融政策からは程遠い

日銀の「中長期的な物価の目途」は従来の日銀の金融政策と比較すれば、一歩前進である。しかし、インフレーション・ターゲティングや米FRBの金融政策と比較すると、コミットメントなき目途で、デフレ脱却の金融政策からは、依然として距離が遠い。

(2012年3月13日 記)

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  • [2012.03.28]

学習院大学経済学部教授。1942年大阪府生まれ。1966年東京大学経済学部卒業。1973年同大学大学院経済学研究科博士課程修了。1976年~1978年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。1983年上智大学教授。1998年から現職。主な著書に『インフレとデフレ―不安の経済学』(1990年/講談社現代新書、2012年/講談社学術文庫)、『日本銀行は信用できるか』(2009年/講談社現代新書)など。

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