日本の外交・安全保障シンクタンクを活性化させるためには

中山 俊宏【Profile】

[2012.08.31] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 |

大きく変容する国際環境の中で、本格的な外交・安全保障シンクタンクが日本で今ほど必要とされるときはない。自らもシンクタンクの日本国際問題研究所で研究員を務める中山俊宏青山学院大学教授が問題提起する。

今夏、8月7日に、田中直毅国際公共政策研究センター理事長を座長とする「外交・安全保障関係シンクタンクのあり方に関する有識者懇談会」(以下、有識者懇談会)が、日本における外交・安全保障シンクタンクの役割及び政府との関係のあり方について検討した結果をとりまとめて提言を作成し、外務大臣に提出した。

このような懇談会が設置された背景を同提言は以下のように説明している。「国力が低下し、国際場裡での存在が稀薄化している今こそ、再び外交力を強化させ、発信力を高めていかなければ、日本の将来はないのではないか。世界レベルで活動する専門家の層の充実がなければ、日本の外交は更に弱体化することを覚悟しなければならない。本懇談会が、外交・安全保障分野で『日本型シンクタンク』構築の必要性に着目する理由は、こうした危機感を反映したものである」と。

同提言は、具体的な方向性として、「創造的構想力」、「グローバルな連携推進力」、「資金動員力」の三拍子そろった、国際競争力のある「日本型シンクタンク」モデルを打ち立てる必要性を訴えている。このような提言がまとめられ、外務大臣に提出されたこと自体が、いまの日本の外交・安全保障シンクタンクがおかれた状況を考えるならば、画期的なことだといえよう。

「不要論」叫ばれる負のサイクル

日本において本格的な外交・安全保障シンクタンクの設置が叫ばれるようになって久しいが、この「掛け声」と「挫折」のサイクルを繰り返してきたのが、これまでの日本の現状だ。これをあまりに長い間繰り返してきたことにより、近年は「待望論」への反動として「不要論」さえ叫ばれるようになってきた。懇談会は、このような負のサイクルを抜け出さなければという問題意識に貫かれている。

日本に外交・安全保障シンクタンクがないということでは決してない。アメリカのシンクタンクなどと比べると、その規模やプレゼンス、そして政策的貢献度において、はるかに見劣りはするものの、地道ながらも日本における外交・安全保障コミュニティの基盤を提供し続け、政府間対話とは別の空間で繰り広げられる、民間の安全保障対話に参加するプラットフォームの役割を果たしてきた。しかし、それらが「有識者懇談会」が表明した「危機感」に対応できているかといえば、残念ながら、その活動は十分とはいえない。

日本における外交・安全保障シンクタンクに、提言でも直接取り上げられ、筆者も所属している組織として日本国際問題研究所(以下、国問研)がある。海外では「JIIA」(「ジャイア」と発音される)の略称で知られ、外務省との近さもプラスに作用し、長らく日本を代表する外交・安全保障シンクタンクとして機能してきた。しかし、それだけに外交・安全保障シンクタンクの活性化をめぐる議論の中では、しばしば槍玉にあげられてしまうことも事実である。実際、今年6月の省庁版事業仕分け「行政事業レビュー」で、政府からの補助金が「廃止」と判定された。

冷戦後、役割の再定義が急務に

国問研は、戦後、開かれた社会における外交を支える「場」として吉田茂によって考案された。想定されていたのは王立国際問題研究所(RIIA)や外交問題評議会(CFR)だった。このことは設立趣意書にも明記されている。これが表向きの顔だとすると、国問研の主たるタスクは、共産圏の研究だった。世界が東西に分裂する中で、非党派的な共産圏研究の場をつくることが、日本の国益とも合致していた。事実、このようなマンデートにもとづいて、国問研は共産圏の資料を収集・蓄積・分析し、『ロシア研究』(現在は廃刊)という高い水準を維持し続けた定期刊行物を刊行し、一線級のソ連や中国研究者を巻き込み、活動を続けていた。それは、限定的ながら、日本の政策過程の中で一定の役割を果たしていた。

しかし、当然のことながら冷戦が終結すると、国問研はその役割の再定義を迫られる。1990年代に入ると、研究所は従来のフォーカスに加え、冷戦後に東アジアが直面した問題群をもその視野におさめる方向で、マンデートを拡大していった。それらを包摂するかたちで、最も目立った活動は、冷戦後、いまとなってみれば雨後のタケノコのように増殖していったとしか形容しようのない「トラックII外交」(民間研究機関と大学の研究者を中心とする会合に、一部政府関係者が個人の資格で出席し、それぞれが自国の政府の立場に固執することなく自由に意見交換するという態様の「民間外交」)の担い手としての機能だった。故松永信雄理事長体制の下、国問研は研究所であると同時に、まさにトラックII外交の担い手として外交上のアクターたらんとした。

曲がり角の「トラックⅡ」路線

しかし、この「トラックIIユーフォリア」も長くは続かなかった。というのも、90年代後半のアジア経済危機の影響なども作用し、「トラックII疲れ」が意外に早く訪れたからだ。国問研が主たるトラックII外交の舞台として設定したのは「アジア太平洋安全保障協力会議(CSCAP)」だった。それは「ASEAN地域フォーラム(ARF)」の民間版と位置づけられ、そのブレーンとして機能することを企図されたが、ARFが予防外交の定義をめぐって迷走を続け、失速していくとともに、CSCAP自身もそのモメンタムを失っていくことになる。しかし、CSCAPが失速したからといって、そこから撤退するわけにもいかない。日本の撤退は、日本の民間外交の後退と受け止められるだろうし、CSCAP自身の失速を加速化させることにもつながる。むしろ、日本はその再活性化に貢献する責務を負っている。

国問研は、現在、外交安全保障問題の「総合シンクタンク」である。かつての共産圏をウォッチするという絞り込まれた目的をもった研究所から、いわば外交安全保障問題の「百貨店」に変容したといえよう。これは日本にとっての脅威をただひたすら注視していればいいという時代ではなくなったことの反映でもあり、その意味では日本をめぐる安全保障環境の変容に対応した動きでもある。しかし、その結果として焦点がなかなか絞り込めなくなっているという現状もある。いわば、あらゆる問題をピックアップしようとすると、多くの問題を取りこぼしてしまうという矛盾にも直面している。財政的な制約がある以上、それはなおさらである。

アイディアと発信力を培うためのインフラとして

若干、単純化すれば、戦後の日本は、自らにとって有利な国際環境を積極的に形成していこうとするよりかは、日本を囲む国際環境をいち早く察知し、それに的確に反応する「反射神経の外交」を展開してきた。そのような構図の中では、「脅威」をただひたすら注視し続けることが日本の国益と合致していたことは先にも述べた通りである。しかし、いまや国際環境の形成に積極的に身を乗り出していかなければ、ミニマムな国益さえも守れない時代に変容しつつある。しかも、現代の国際政治は、より高く、より強く拳を振り上げることによってその目的が達成されるわけではなく、国際社会を形づくる「ルール・メイキング」をめぐる熾烈(しれつ)な議論に参加するというかたちをとることがしばしばである。そこでは、アイディアと発信力が決定的に重要な役割を果たすことはいうまでもないだろう。そこでは、「外交のプロ」が先頭に立ちつつも、日本の知的能力を結集して臨む必要がある。日本の外交・安全保障シンクタンクに活路があるとしたら、このような状況に対応できるインフラとしての役割以外にはないだろう。

いま日本の外交・安全保障シンクタンクで、このような状況に十分に対応できている組織は残念ながらない。しかし、その必要性がいまほど高まっていることもなかっただろう。日本の外交・安全保障シンクタンクが直面する問題の多くは構造的であり、その必要性が認識されたからといって、直ちにそれが機能しだすということはないだろう。しかし、その必要性が広く認識されない限りは、スタートラインにもつけない。有識者懇談会がまとめた提言には多くのアイディアが盛り込まれている。ここから新たな議論が活性化することを望むばかりである。

(2012年8月16日記)

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  • [2012.08.31]

慶應義塾大学総合政策学部教授、日本国際問題研究所客員研究員。専門はアメリカ政治・外交、国際政治。1967年東京生まれ。青山学院大学大学大学院国際政治経済学研究科博士課程修了。博士(国際政治学)。津田塾大学准教授、青山学院大学教授などを経て、2014年4月より現職。著書に『介入するアメリカ: 理念国家の世界観』(勁草書房、2013年)など。

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