日本の「ベースアップ」は景気を回復させるか

原田 泰【Profile】

[2014.05.22] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | FRANÇAIS | ESPAÑOL |

政府・経営者・労働組合による「政労使会議」では、一時金だけでなくベアも含む賃上げを要求。春闘における主要企業各社の回答は上昇基調という動きが目立った。官邸主導といわれる今回のベアは、日本経済にどのような意味を持つのか。早稲田大学政治経済学術院教授・東京財団上席研究員の原田泰氏が解説する。

今春のベア含む賃上げ率、「2%以上」

労働組合の賃上げ要求である春闘に対する企業の回答が3月中にほぼ出そろった。それを集計した経団連「春季労使交渉・大手企業業種別回答状況」(2014年4月16日)によると、2014年4月から提供される賃金の妥結額は2.39%増となった。これは定期昇給分を含むものであるが、13年の妥結額が1.88%であったことからすると、この差0.51%程度のベア(ベースアップの略語)、つまり給与の基本給部分(ベース)の引き上げ(アップ)があったと思われる。なお、海外には定期昇給という概念も給与の基礎部分という概念もないので、当然、この「ベースアップ」という用語は和製英語である。

ただし、この調査は一部の大企業の集計にすぎない。全体の姿を見るには、厚生労働省「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」の発表を待たなければならない。現時点で入手できるデータとしては、一般財団法人労務行政研究所の賃上げに関する見通しがある。同データはこれまでほぼ妥当な予測をしてきたが、ここでも2.07%増となっていることから、全体的に2%以上の賃上げがあったと思われる。

ベアと定期昇給の違い

1990年以前に会社に入った世代にとってベアは周知の概念だが、バブル崩壊以来、日本企業はベアを実施しなくなっていたので、ここで簡単に「ベア」と「定期昇給」について解説をしておこう。

ベアとは、単なる賃金引き上げではなくて、給与の基本給となる部分の引き上げである。日本企業は年功序列型賃金制度を取っているので、賃金は勤続年数に応じて上昇していく。この上昇部分は定期昇給と呼ばれる。これを説明したのが、仮想的な年齢ごとの給与を示した図1である。

図1で、30歳から31歳にかけて28万円から28.5万円に上昇しているのが、定期昇給で年功賃金を作り出すものである(図内・横矢印A)。それに対して、2014年で3000円分が全ての年齢層にわたって上昇しているのが、ベアに相当する部分となる(図内・縦矢印B)。

企業にとってはベースアップも定期昇給も人件費がかかるのは同じだが、企業はことさらベースアップについては嫌がる傾向がある。定期昇給だけであれば、年齢による定年退職制度があるので、毎年同じ数の新人を採用していれば賃金総額も平均賃金も変化しない(もちろん、新人の数が毎年増えていれば平均賃金は低下し、減少していれば上昇する)。

他方、ベアが実施されると、平均賃金額、ひいては賃金総額も上昇する。バブル崩壊以来、急激な円高や需要喪失に悩まされてきた企業としては、利益が上がった時にボーナスで従業員に報いるのは良いが、固定費となって企業経営の圧迫となりかねないベアは特に避けたいものだった。こういった理由から、これまで企業がベアを避け、新聞に20年ぶりのベア実施というような見出しが躍る事態となったのだ。

「官邸主導のベア」とは必ずしも言えない

今回のベアでは、官邸の主導が目立った。それは、大胆な金融緩和でデフレから脱却し、景気を回復させるというアベノミクスの第1の矢に対して、物価だけ上がって賃金が上がらなければ国民の生活は苦しくなるだけではないかという、マスコミや野党からの批判が高まったからである。

そこで政府は、昨年から「経済の好循環実現に向けた政労使会議」を設立し、経営者、労働組合の代表を集めて、円高是正や景気回復で得た利益を賃金上昇に回すように求めたのである。これに対しては、そもそも賃金は労使が決めるべきもので、政府が口を出すのはお門違いという批判がある。筆者もこれに同感である。

ただし、今回のベアが政治主導によるものとは必ずしも言えない。というのも、実際には景気が良くなり、徐々に労働条件の悪かった分野から人手不足が生じ、企業が賃上げせざるを得ない状況が生まれているからである。そもそも、政府に言われて唯々諾々と賃上げするほど企業は甘いものではないだろう。必要に迫られて賃金を上げたことを、政府に協力したと言っているだけではないかと思われる。

今まで賃金が上がってこなかったのは、正規雇用者が増えず、非正規の雇用者が増えてきたからである。企業にしてみれば、いったん正規雇用者を雇えば、不況になったときに解雇するのが大変である。足元で需要が増えても、その持続性に自信が持てないときは、解雇しやすい非正規労働者をまず雇うことになる。

正規雇用者に比べて非正規雇用者の賃金は低いため、非正規雇用の比率が高まれば、当然、賃金は低下してしまう。もちろん、同じ仕事をしていても、非正規雇用者の賃金が低いという大きな問題もあるが、その原因には非正規雇用者の月間労働時間が正規雇用者よりも少ないという側面がある。そう考えると、本来見るべきものは時間当たりの賃金のはずである。

賃金が上がっているかどうかは、時給で見なければならないが、日本には公式の時給のデータはない。しかし厚生労働省「毎月勤労統計調査」には、残業代を含めた月の総賃金(現金給与総額)と、残業時間を含めた総労働時間のデータがある。そのため、現金給与総額を総労働時間で割れば時間当たりの賃金が分かる。ただし、現金給与総額はボーナスも含めたものだから、ボーナス月は額が多くなる。そこで、そのような季節変動を調整した季節調整済みのデータを見れば、毎月の時間当たり給与の動きが分かるはずである。

アベノミクス登場以来、労働時間は増加傾向に

図2は、1990年から現在までの現金給与総額、総労働時間、時間当たり賃金、合計労働時間、合計賃金の動きを示したものである(いずれも2010年=100とした指数)。合計労働時間は、雇用者数に平均の労働時間を掛けたものであり、これは全ての雇用者の労働時間を合計した労働時間となる。合計賃金は、合計労働時間に時間当たり賃金を掛けたものであり、全ての賃金を合計したものになる。現金給与総額、総労働時間、時間当たり賃金は、雇用者1人当たりの数字であり、合計労働時間と合計賃金は労働者全てを合計した数字である。

アベノミクスが始まった2012年12月あたりを見ると、現金給与総額、総労働時間、時間当たり賃金は、いずれも毎月の変動が大きすぎて増加しているのか減少しているのかがよく分からない。しかし、合計労働時間、合計賃金は2012年12月以来増加している。すなわち、2014年初までは、賃金は上昇していないが、雇用が増大しているので賃金の合計額は増えているということである。もし、賃金の合計額が純粋に増えているなら、国民生活は実感として良くなっているはずである。

それ以上のことはさらに時間がたってデータが集まらないと何とも言えないが、前述のように2014年4月から賃金が上昇することが予想されるので、今後、時間当たり賃金も上昇してくるだろう。さらに、これらのデータを長期的に見てみると、より興味深い事実がある。

無理な賃金上昇は経済鈍化を誘因

図2を1990年までさかのぼって見ると、1990年から97年まで、現金給与総額が増加し、総労働時間が減少してきたことが分かる。当然、現金給与総額を総労働時間で割った時間当たり賃金は給与総額以上の速さで上昇している。時間当たり賃金と合計賃金は1990年から98年にかけて、それぞれ23%と25%も上がった。同じく90年から98年にかけては何度も景気が悪化し、この期間の名目GDPは15%しか上昇しなかったにもかかわらずである。経済情勢が悪い中で賃金だけ上がれば、利潤が収縮し、設備投資が減って、経済が停滞するのは当然である。これこそが90年代以降、日本経済が低迷した理由の一つである。

その後、賃金が低下し、2002年ごろからは安定するようになった。これまで高すぎた賃金が是正されたのである。それとともに経済は回復し、日本は2%のペースで成長するようになったが、リーマンショックとともに再び停滞し、現在、アベノミクスで回復しているところである。

以上から分かるのは、経済状況の実態に反した賃金上昇は経済を停滞させるということである。つまり、無理やり賃金を引き上げようとすると、経済をかえって悪化させる可能性がある。小泉政権下の実感なき経済成長の時代ですら賃金は上がった。アベノミクスにおける景気回復を今後も持続させるには、まず、足元の景気回復によって失業率が低下し、次に人手不足によって賃金が上昇するのを待つ方がよい。

(2014年4月23日 記)

タイトル写真=時事通信社提供

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  • [2014.05.22]

早稲田大学政治経済学術院教授、東京財団上席研究員。1950年生まれ。1974年東京大学農学部農業経済学科卒業後、経済企画庁入庁。1979年ハワイ大学経済学修士号取得。経済企画庁国民生活調査課長、同海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長、内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官、大和総研チーフエコノミスト、専務理事などを経て現職。著書に『若者を見殺しにする日本経済』(ちくま新書、2013年)、『なぜ日本経済はうまくいかないのか』(新潮社、2011年)、『日本国の原則-自由と民主主義を問い直す-』(日本経済新聞出版社、2007年、石橋湛山賞受賞)など。

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