国立競技場問題の本質:不透明で無責任、時代錯誤の大艦巨砲主義

政治・外交 社会

巨額の建設費用が世論の反発を受け、計画見直しの声が高まる新国立競技場。2020年東京オリンピックのメーン会場建設をめぐる数々の問題について、筆者は「日本の政治家、官僚システムが抱える無責任構造が生んだ象徴的な事例だ」と指摘する。

2020年7月、東京オリンピックの開会式は近代オリンピックの歴史に残る画期的なものとなった。神宮の森に囲まれ、真ん中に赤レンガ色のトラックがある11万m2の真っ青な芝生。世界各地からの選手たちはその芝生の上で互いの参加を祝福し、健闘を誓いあった。そこには外界を遮断するスタジアムの高い壁もなく、ましてや屋根もない。真っ青な芝生の上での交歓には、世界からの観戦者が加わり、その様子が最新技術によるネット中継によって世界中で共有、体感された。オリンピックの開会式が近未来デザインの巨大なスタジアムと過剰な演出の競い合いから解放されることの素晴らしさを世界が実感した瞬間だった。

こんなことが現実になるかもしれない。なぜならば、東京では1964年オリンピックで主会場として使われた国立競技場を解体した後になって、そこに建設予定の新スタジアムの設計、施設、費用、期間などに関する問題が噴出したからだ。

直接のきっかけは担当大臣である下村博文文部科学大臣の今年5月の発言だ。彼は、費用と時間的な制約から、スタジアム中央を覆う開閉式の屋根(遮音装置)と可動式の客席は建設しないこと、一方で建設費用はこれまでより1000億円増え、約2600億円となる見通しを述べたのだ。

これらの問題は実は、新競技場のデザインが選ばれて以来様々な専門家によって再三指摘されていた。国会でも議論になった。そのたびに大臣も文部科学省の担当局長も何の問題もないと答弁。2年もの間、何も対応してこなかった。時間を無為に費やしてきただけではない。旧国立競技場の改修案が複数の建築家から示されていたにもかかわらず、その案を封じこめるかのごとく、競技場の解体を急いだ。また、この間本来の主役であるスポーツ界、そしてマスメディアは驚くほど発言、報道をしていない。

ここにはオリンピックに限らず、日本の政治、行政全体に共通する大きい問題が見える。以下、それらを整理していこう。

取り壊し前の国立競技場(中央右)と、神宮外苑周辺のスポーツ施設。右上の緑地は明治神宮=2014年5月25日撮影(時事)

膨れ上がる建設費用:3000億円ではすまない?

建設費用から見ていこう。2012年7月のデザイン募集時の計画予算は1300億円だった。これでもシドニーの約640億円、ロンドンの約760億円などと比べて2倍もの高額だ。デザイン案の決定後、下村大臣が国会で3000億円に達することを表明したが、批判を受けて1700億円に修正。昨年5月の基本設計案では1625億円となった。この間、外形デザインもかなり変えられ、延べ床面積は2割削減された。そしてその1年後、さらに開閉式屋根をやめても約2600億円かかることを大臣が明らかにしたのだ。

なぜ建設費見積りがこれほど大きく変わるのだろうか。最大の理由はそのデザインにある。パース図を見ると分かるように、新競技場にはスタジアム本体の上にキールアーチと呼ばれる2本のつり橋状の長さ約400mのアーチがかかる。構造的に「新競技場は建物というより橋」と言われる所以だ。それを東京の真ん中に、しかも狭い敷地いっぱいに建てないといけない。地下の基礎部分を含めて技術的にも難しく、設計会社や担当する予定の建設会社にとっても正確な見積りを出すのが困難なのだという。

7月7日、独立行政法人日本スポーツ振興センター(以下JSC)は開閉式屋根と可動式観客席の建設を先送りし(合わせて建設費260億円削減)、2520億円を「目標工事費」と設定、今年10月に着工し、2019年5月に完成させると発表した。(あるスポーツ紙は、シドニー、アテネ、北京、ロンドンの過去4大会のスタジアム建設費合計を現在のレートで換算しても、2400億円余りであることを指摘している)

基本設計より900億円程増えたのは資材や人件費の上昇などによるとしているが、先送り分を含めて1100億円以上の費用増加の説明にはなっていない。なお、今回の「目標工事費」にはキールアーチの地下基礎部分の費用が含まれておらず、これを含めると4000億円ほどにもなるとの見方もある。

競技場機能以外の施設が建物の半分占める

新競技場の費用を大きくしている理由は、構造とともにその施設と規模にもある。JSCは2014年5月28日に基本設計案を公表した。外部の専門家から様々な指摘を受けたものの、2013年11月に発表された「基本設計の条件」と大きく変わらなかった。

施設内容を機能別にみると、競技場としての本来機能である観覧機能は8.5万m2、競技等機能は2.4万m2、関連機能を合わせ合計で11.5万m2。一方、本来機能とは別のものとして、運営本部や会議室、設備室などの維持管理機能4.0万m2、駐車施設2.5万m2、VIPラウンジ、観戦ボックス、レストランなどのホスピタリティ機能2.0万m2、資料展示、図書館、ショップなどのスポーツ振興機能1.4万m2などがある。面積でみると、競技場の本来機能以外のものが半分近くを占める。

とりわけ、運営本部や会議室、設備室の維持管理機能4.0万m2は競技場そのものよりも広く、しかも当初の条件より拡大している。8万人収容の海外スタジアムや旧国立競技場の0.5万m2、7万人収容の日産スタジアム1.4万m2に比べはるかに広いが、明確な説明はない。

資料展示室、図書館、ショップなどのスポーツ振興機能1.4万m2は競技場としての機能との関連は薄く、これらが必要だとしても、別の場所ではなぜ駄目なのだろうか。さらに、VIPラウンジや観戦ボックスなどの2.0万m2は観客席の4分の1近くを占める異例の広さで、陸上競技やサッカー等の競技会、文化イベントの際にこれほどのスペースが必要なのか大いに疑問である。VIPとは誰のことなのだろう。

「サブトラックなし」で五輪後は陸上に使えず?

では全体の規模を海外の主な競技場と比べてみよう。

基本設計案では、新競技場は収容人数8万人、敷地面積11.3万m2、延べ床面積22.2万m2となっている。これに対して、ロンドン、アテネ、シドニーでのオリンピック主会場の収容人数は8万~10万人で、敷地面積はそれぞれ16.2万m2、13.0万m2、20.7万m2、延べ床面積は8~12万m2だ。おしなべて、より広い敷地に、より小規模のスタジアムが建設されている。

新国立競技場はロンドンの70%の敷地に、延べ床面積2倍規模の施設を整備する計画であり、まず建設工事そのものに相当に無理が生じるだろう。イベント開催時8万人のスムーズな移動、事故の防止、さらには地震の際の防災などが、デザイン募集以来十分考慮された形跡は伺えない。

致命的なのは、正式な陸上競技大会には練習用のサブトラックが不可欠だが、JSCの基本設計案には含まれていない。競技場が目いっぱいなので敷地内にサブトラックが造れないのだ。JSCの説明では、オリンピック時には外苑地区の一部にサブトラックを仮設で対応するとしているが、これではオリンピック後の陸上競技大会には使えない。

8万人規模の収容人数となるのはオリンピックの時ぐらいで、その他の陸上競技大会では1万人も集客があれば十分といえる。旧国立競技場の規模を維持すれば、隣接して常設のサブトラックを設置できたのである。このことは陸上競技関係者も早くから指摘していた。

先述のキールアーチはザハ・ハディド氏のデザインだが、競技場施設の設計にはデザイン監修である彼女は直接関わっていない。この競技場建設の目的は一体何で、設計の実質的な責任・推進者は誰なのだろうか。

世界の潮流と逆行する「多目的」施設

オリンピックの開催にあわせてスタジアムを建設した各国とも、競技場を将来どう使うかについて徹底した検討が行われている。オリンピック・パラリンピックでの使用は約1カ月間。その後の50年、100年間をどのように有効利用するか。まず、それを決めてから逆算してオリンピック競技場としての仕様(仮設客席を設けるなど)を決めるのが近年の大勢だ。特に先進国ではサッカーなど専用の競技場が既に多くあるため、目的を明確にしなければ「使えない競技場」になるおそれが高い。

例えば、アトランタの競技場は野球場に、シドニーの競技場は規模を縮小してフットボールスタジアムとして使用している。一方、「鳥の巣」の呼び名で有名になった北京の巨大競技場は最終用途が不明確なまま建設したため、オリンピック開催後はほとんど使われず、維持費がかさんで取り壊しも検討されているという。

オリンピック開催時に収容人数8万人だったロンドンの競技場は5.4万人まで減らし、プロサッカーチームのホームスタジアムにする予定だった。ところがその合意がいったん御破算になるなど方針変更があったため、改修費が予定より高くなる見込みだという。

世界の主要競技場がサッカーなどの「専用競技場」になっているのに対し、新国立競技場は、陸上競技に加えてサッカー、ラクビー、さらには「文化」イベントにも使用する多目的な施設だ。その結果、規模だけでなく、今回先送りされることになった伸縮型可動席や開閉式屋根(遮音装置)まで設置することで、建設費を異例に高くしている。

高すぎる「年48日利用で維持管理費40億円」

JSCのオリンピック終了後の計画案では、年間の競技場利用はサッカー20日、ラグビー5日、陸上競技11日、文化イベント12日の合計48日間と試算している。この利用見込みすら甘いといわれているが、これで年間の維持管理費が40億円余りにもなるという。

JSCによると、スポーツだけでは競技場運営の収支が赤字になるため、文化、特に音楽イベントを行う。音楽イベントには遮音のため屋根が必要とのこと。しかし、屋根を必要とする文化イベントは見込みでも12日間。しかも8万人の観客を動員できるイベントは、日本全体の実績でみても年数回程度だ。

オリンピック以外にサッカーW杯などにも使用するというが、陸上用のトラックがあるため、多目的競技場は専用サッカー場に比べると観客席がフィールドから遠くなる。2002年のW杯以後、専用サッカー場は日本ではすでに余り気味なので、これでは集客上の競争力に欠けると指摘されている。

巨大な施設を整備することで費用(設置費、維持運営費)がかかり、この費用を賄うためにイベントを開催する。イベントを開催するので遮音のための開閉式屋根や可動席が必要となり、その結果、さらに費用が膨れ上がる。何が目的の施設か明確でないからこのようなことになる。

さらに、遮音のための屋根が必要だと言いながら、「雪や嵐に耐えられない構造では」との指摘に対して、JSCは、「そのような気候の場合、屋根を開けて対応したり、イベントを開催しない」と説明している。支離滅裂だ。

大規模改修時、さらに1000億円規模が必要か?

海外の競技場でも店舗、レストランなどの施設を併設する例は多い。しかし、あくまでも基本的な目的を明確にしたうえで、競技がオフの時にも集客するための施設だ。博物館、図書館、とりわけ東京では至る所にあるショッピングモールがなぜ新国立競技場に必要な機能なのか。しかも専門家でもないJSCがどんな成算があって計画するのか。説得力のある説明は今に至るまで2年間全くない。

新国立競技場は、旧競技場の4倍の床面積があり、これだけ様々な施設があると当然維持運営費用も莫大になる。JSCの試算では、新国立競技場の維持運営費は40億円余。これは、旧国立競技場の維持運営費の約8倍だ。

これは開閉式屋根を設置した場合だが、追加空調設備、芝生育成のための大型送風機や土壌空気交換システム、地中温度制御システム、イベント開催時の芝生養生が必要になる。サッカー、ラグビー等の球技で使用する場合の伸縮型可動席も、建設費だけでなく維持運営費が高額だ。年数を経ると40億円でおさまらないという意見もある。運営主体であるJSC、文部科学省は、維持運営費に加え、長期的な改修費まで国民に示さなければ無責任である。

JSCの計画では、毎年の維持運営経費を賄うための収入は41億円弱、年間の黒字4000万円弱と見込んでいる。これもつじつま合わせだと言われているが、仮にそうなったとしても10年に一度必要になると言われている開閉式屋根の張り替え、さらには1000億円規模と言われる大規模改修は全くまかなえない。

首都圏近郊に類似の施設が多数存在する中で、陸上競技、サッカー、ラグビー、文化イベント等の開催を計画どおり確保できる見込みも、8万人を集客できる見込みもほぼ絶望的という指摘が強い。

かつて日本中の町に多目的ホールが建設され、「無目的ホール」と揶揄された。そしてその多くが、今や維持困難になっている。「無目的競技場」の将来世代への負担はあまりにも大きい。

誰も責任取らない構造

建設費用に関する下村大臣の発言が3000億から1700億、そして2500億と大きく振れているのは先に述べた。一方、JSCの河野理事長は「やめる、やめないは我々が決めることではなく、文部科学省が判断」。競技場デザインの審査委員長であった建築家の安藤忠雄氏は「審査委員会ではデザインの決定までで、その先は関わっていない」と発言している。 一体誰が決め、誰が責任を負うのか。

デザインや施設を決めているのは、国立競技場の運営を担当するJSCだ。これは予算の執行、建設業者との契約当事者であることなどからも明らかだ。そしてJSCは文部科学省所管の独立行政法人だ。 

JSCは国立競技場の建設及びその後の使い方を議論する諮問委員会として、国立競技場将来構想有識者会議を2012年1月に設けた。そして、その下に新国立競技場基本構想国際デザイン競技審査委員会(安藤忠雄委員長)が置かれ、ザハのデザインが選ばれたのだが、このコンクールの募集要項も審査結果も有識者会議で承認している。そこには担当の文部科学省スポーツ・青少年局長、副大臣も出席している。

またJSCへの交付、補助金は、文部科学省スポーツ・青少年局予算として配布されている。そしてそれら全体を統括しているのが文部科学大臣である。最終責任者である大臣の下で全員が応分の責任を持っている。ところが全員が他人事のようにツケ回しをしているのだ。

この無責任さと表裏一体なのが、JSCの裁量の大きさだ。

専門家いない組織JSCに膨大な裁量権

JSCには建築や競技場の専門家はいない。にもかかわらず新競技場の施設決定はJSCに委ねられているのである。のみならず、旧競技場解体予算(200億円)の中にJSC本部ビルと、同じく文部科学省の外郭団体である日本青年館の建て替え費用(130億円)まで含ませるなど、文部科学省とその関係団体が国会のチェックもなく莫大な税を自らの組織のために使っている構図がみてとれる。そのことはJSCとザハ・ハディド氏との契約内容をみても明らかだ。

コンクールの対象はデザインのみで、選ばれた建築家の業務はデザイン監修(委託経費13億円)とされ、実際の設計はJSCが主導し、JSCの考えで内容を大きく変えることができる。建設費用の振れの一因はそこにある。これを素人の追認機関にすぎないといわれ、形式的な諮問が行われるだけの有識者会議で承認していく。これが、勝手に決めて責任は取らないしくみだ。

その結果、有識者たちは「事務局であるJSCが決めたこと」。JSCは「有識者会議で決めた」、「文部科学省の指示」。そして文部科学省幹部と大臣はその上に乗っている感覚なのだ。数千億円もの税金の使い方を委ねられたら身の震えるような感覚があっていいはずだ。しかし彼らの誰にも、巨額の血税を扱う緊張感、無駄にしてはいけないという責任感はない。

新進建築家がはじめから応募できなかったコンペ

デザインコンクールでは「世界に提案を募る」としながら、実際の応募資格はプリツカー賞、UIA(国際建築家連合)ゴールドメダルなど5つの国際賞いずれかの受賞者に限られ、新進の建築家は応募できなかった。コンクールの二次審査では一次審査の8人に加え、外国の著名な建築家2人が審査員に加わっているが、結局は来日さえしていない。また審査経緯の説明もないなど、すべてが極めて不透明だ。それ以上に不透明かつ法治国家と思えないことが行われているのが、建築基準関係の手続きだ。

コンクール募集要項が公表されたのは2012年7月で、この時点での外苑周辺の建物の高さ制限は20mだった。加えて、競技場のある場所は「明治神宮内外苑付近風致地区」にも指定され、建物の高さは15m以下と、さらに厳しく規制されている。2004年の景観法により「聖徳記念絵画館の広大な眺めを将来に亘って継承する地域」ともされている。

しかし、募集要項には高さ70mまで建築可能との条件が示されている。コンクールの主催者は、都市計画法・建築基準法を破ることを前提でコンクールを実施したのだ。応募者にはこの事実が知らされていたのであろうか。

そして2013年6月、デザイン決定の半年後に都市計画変更が行われた。その議論を行う東京都都市計画審議会は、高さ制限を15mから75mに緩和したほか、JSC本部と日本青年館を新築するため容積率を300%から600%に、最高高さ規制を30mから80mに変更し、外苑に隣接する青山通り沿いの民有地を再開発促進地区に組み込んだ。

東京都は手続き的に問題がないことを強調しているが、日本の近代史上極めて重要な地域の景観環境を一変させるような決定であるにもかかわらず、積極的な告知や説明が行われた形跡は一切ない。

また、新競技場関連敷地とされる都営霞ヶ丘アパート10棟には約400人が居住しているにもかかわらず、2012年7月16日発表のコンクールの募集要項には、この敷地が「新国立競技場の整備に伴い移設され、建造物は建てないが、広場的な滞留空間として整備される」と、住民への説明や相談もなく示されている。

都営住宅を管理する都都市整備局にも、この募集要項の発表まで霞ヶ丘アパートの移転・建て替えについての説明は行われていない。JSCの有識者会議で議論されているが、議事録が未公開のため関係者には一切明らかにされておらず、募集要項発表後の8月26日に新宿区に対して、11月27日に住民に対して説明会が開催されたのみだ。

オリンピック・パラリンピックを国民の祭典といいながら、住民への説明もなく立ち退きを迫るのでは、およそ民主主義国家といえない。

景観問題:外苑の歴史的文脈を無視した巨大施設

神宮外苑は、明治天皇の業績を顕彰するため、渋沢栄一や阪谷芳郎ら民間篤志家の請願を受け、神宮内苑や表参道、裏参道と一体整備され、東京の風致地区第1号に指定された。

そのような歴史的経緯を経て、この地は聖徳記念絵画館とイチョウ並木、樹齢100年の外苑の森を中心とした歴史と美観を保つ、我が国を代表する都市緑地となった。

今回の建て替えは、このような歴史的文脈やそれを守るために定められた15mの高さ制限を一切無視し、大樹を犠牲にして敷地いっぱいに巨大な競技場を建設するものだ。これは神宮の景観を著しく損なうだけでなく、イベント開催時の数万人に及ぶ観客移動の安全、防災上の観点からも問題が多い。

さらに、この地は1943年10月、その多くが帰らぬ人となった動員学徒の壮行会(送る側と合わせて8万人以上が参加したと言われる)が行われ、その21年後の1964年10月には、戦後日本の復興の象徴となった東京オリンピックが同じ場所で開かれ、世界中の人が集ったのである。日本の近代化の濃密な歴史を100年単位でたどれる場所であり、現在はスポーツを中心に広く市民に親しまれる空間となっている。

政治家や文部科学省の官僚こそが、このような歴史を最も重く受け止めるべきではないか。

まかり通る時代錯誤の「大艦巨砲主義」

しめくくりとして、この国立競技場問題が象徴的に示している日本の政治、行政あるいは政治家、官僚の深刻な問題点を簡単に示しておこう。

第一に、金額的にもイベント的にも国民的なプロジェクトが不透明または法的にも怪しいプロセスの積み重ねの中で成立していること。それに対する説明や情報の開示が3年経った現在でも不十分なこと。これは民主主義の形骸化そのものである。正統性の装いを整えるばかりで、内容が伴わないのは大変危険なことだ。

第二に、国民の利益や国益はおろか、実質的に誰の利益にもならない時代錯誤の大艦巨砲主義がまかり通っていること。本件の場合は文部科学省やJSCにとってすら何の利益があるのか。彼らの虚栄心を満たすだけのための数千億円なのだろうか。本来の事業や組織の目的、意義を忘れ、自らの組織の予算、事業や施設の拡大が自己目的化し、その積み重ねが1000兆円もの国家債務になっているのである。

第三は、一度決められたことが、主権者であり納税者である国民の7割~9割(主要紙の世論調査)の反対意見があっても変えられないこと。方針変更によって生じる目の前の身内からの反発を避けるあまり、将来どれほど甚大な損害、場合によっては悲惨な結末を国民にもたらすかの想像力、責任感が欠けているのだ。

残念なことに、これらはすべて第二次大戦開戦に至らしめたと歴史家が分析していることと同じなのである。

おまけとしてつけ加えると、国立競技場と同じく2020年のオリンピックに向けて建て替えが決まっている有名な建築がある。東京のホテル・オークラ本館だ。大倉喜七郎のスポンサーシップ、谷口吉郎による設計で1964年東京オリンピックに向けて建てられたこのホテルは、近代日本建築、戦後日本復興の象徴の一つだ。

ジョン・レノンはじめ世界中のセレブリティから愛され、建て替え反対の意見、署名も世界から集まっている。まさに世界の「公共財産」であり世界遺産なのだが、オークラの経営者及び株主(その多くが建設会社であり不動産会社)は、短期的利益を掲げて方針変更の気配もない。

その筆頭株主の大成建設が新国立競技場の本体部分の建設を行うのも、日本の「オリンピック後」を暗示しているのかもしれない。

2年の時間を経て、ようやく計画見直しの声が出てきた。しかし費用の圧縮は問題の一部にすぎない。目的を取り違えた人たちが、身内の「空気」で物事を決め、社会全体を深い淵へとズルズル引きずっていく。この問題を契機にこんなサイクルを断ち切らないといけない。そうでなければ「おもてなし」どころではないだろう。

旧国立競技場の解体予算(先述のとおり、予算約200億円のうち、実際に解体に充てられる費用は一部で、7割近くをJSC本部ビルと日本青年館の移転費用に使う予定であることが後に発覚)の成果目標として「過去最多を超えるメダル獲得数」と書く文部科学省官僚。外国人を含め噴飯ものと話題になった。2年間発言を続けてきた建築家の槇文彦氏は「この問題は日本国民にとっては悲劇だが、外国から見ると喜劇」と語る。私たち自身が「自分事」として声を出すことが、本物の悲劇を招かない唯一の道だと思う。

バナー写真:日本スポーツ振興センター(JSC)の有識者会議で建設計画が了承された新国立競技場の模型(時事)

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