ホンダNSX—グローバルホンダが生み出すスーパーカー

池原 照雄【Profile】

[2016.09.13] 他の言語で読む : العربية | Русский |

新型NSXの受注が日本で10年ぶりに始まった。初代は日本で生産したが、2代目は市場規模が大きい米国の専用工場で受注生産する。開発と生産を担うのは、ホンダスピリットを継承した外国人エンジニアだ。

ホンダは、高級スポーツカー「NSX」の2代目となる全面改良モデルを発表し、8月25日に国内での受注を始めた。1990年に投入された初代モデルの生産終了から、約10年ぶりの復活となった。八郷隆弘社長は「ホンダの永遠のテーマである“操る喜び”はいつの時代も追求しなければならない。ブランドの強化にもつなげていく」と、復活の狙いを語る。

操舵性のよいハイブリッド・スポーツカー

初代は日本で開発・生産したが、今回は開発を日米の合同チーム、生産を米国とし、自動車産業でグローバル化をいち早く展開したホンダならではのスーパーカーを誕生させた。新型は3.5リットルV6型ツインターボのガソリンエンジンと、3つのモーターを組み合わせたハイブリッド車(HV)として登場した。最高出力は581馬力、最高速は時速307キロ(米国仕様)であり、ホンダが競合モデルと想定する独アウディの「R8」や独ポルシェの「911ターボS」とほぼ同一の性能を確保している。日本での価格(税込み)は2370万円とし、これも競合車と並ぶ水準である。

2016年8月に東京ビッグサイトで開催されたNSX発表会

NSXがガソリンエンジンの競合モデルと決定的に異なるのは、前輪用に2個、後輪用に1個のモーターを使う独自のHVとしたことだ。モーターは駆動力だけでなく操舵の制御にも使い、「ドライバーが意のままに操れる」性能に磨きをかけた。また、HVにより燃費および環境性能もライバルをしのぐ。

日本では年間100台の販売を計画しており、顧客への納車は2017年2月からとなる。一方、高級車ブランド「アキュラNSX」として販売し、最も大きな需要を見込む北米では年800台を計画しており、納車もすでに今年6月に始まった。初代は16年間で1万8000台余りを販売したが、半数強が北米であり、開発と生産の主体を米国に移した背景となっている。新型は当初の3年で6000台の生産を計画し、世界50カ国以上で販売する。初代の実績がなかった中国が新たなマーケットとして期待されている。

外国人エンジニアに開発責任を委ねる

東京で開いたNSXの発表会では、日本の自動車メーカーではかつてない光景が見られた。八郷社長の紹介で、開発と生産の外国人責任者がプレゼンテーションに登壇したのだ。日米の合同チームで進めた開発の責任者は「ホンダR&D米国」(オハイオ州などに立地)のテッド・クラウス氏。また生産の責任者は、「ホンダ米国製造」のNSX専用工場(同州)をオペレーションするクレメント・ズソーザ氏である。

右がクラウス氏、右から2人目がズソーサ氏、左から2人目が八郷社長

日本の大手自動車メーカーは、今や工場だけでなく研究開発拠点も欧米やアジアに立地させ、立地先で採用したエンジニアが車両開発や生産技術分野に参画するよう人材も育成してきた。それぞれの地域のニーズをくんだ車両開発は、消費者の思いに通じた現地の人々が適材となるからだ。

ただ、NSXのように戦略的かつグローバルなモデルの開発責任を、日本メーカーが外国人エンジニアに委ねる例は、筆者はこれまで聞いたことがない。今回の開発プロジェクトが発足した2011年に開発責任者に任命された米国出身のクラウス氏は、これまで北米向けを中心とする「アキュラ」ブランドの主要モデルの多くの開発に携わってきたシャシー開発のベテランだ。

ホンダスピリットを継承

NSXとの出会いは、初代が展示された1990年1月のデトロイトモーターショーだという。こんな車を造りたいと、「それから9カ月後にはホンダの研究所に入社した」(クラウス氏)。およそ20年を経て開発リーダーに任命され、自らの夢を実現したことになる。

一方、NSXの専用工場は、オハイオ州の量産車工場の敷地内に新設され、量産車工場で働く1万人の中から選抜された約110人のクラフトマンともいえる熟練工が従事している。専用工場のオペレーションを仕切るズソーザ氏はインド出身で、1989年にホンダ米国製造に入社。最近では米国での看板車種である「アコード」などの生産立ち上げも指揮してきた。

2人に共通するのは、2年間日本に駐在し、栃木県内のホンダの研究所に従事した経験があることだ。「日本各地のホンダの工場を視察したことが大きな財産になった」(ズソーサ氏)というように、ホンダの母国で「ホンダスピリット」に触れたことが、今日につながるキャリアとなっている。もちろん、両氏とも米国法人のエリートエンジニアであったからこその「日本留学」であった。

米国進出がホンダ躍進の契機に

ホンダがオハイオ州で米国生産を始めたのは1982年。まだ、日本車のプレゼンスがそう大きくない時期に、日本メーカーの先陣を切って自動車の本場に飛び込み、生産に着手した。これが、日本では最後発の自動車メーカーだったホンダが、トヨタ自動車や日産自動車とともに日本を代表する自動車企業に飛躍する契機となった。

以来、30年余り。日本本社との合同チームのリーダーを担うまでの人材も育った。東京の発表会でクラウス氏は「(入社して)ずっと面倒を見てもらいつつ、仕事を任せてもらったのでNSXの開発を進めることができた」と、ホンダの仲間に、最大の賛辞ともいえるメッセージを贈った。NSXのキャッチコピーは「ホンダにしかできないことを。」だ。グローバルな開発・生産体制も、まさにこのコピーによって体現されている。

バナー写真:高級スポーツ車「NSX」の新型モデルを紹介するホンダの八郷隆弘社長=2016年8月25日、東京都江東区(時事)

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  • [2016.09.13]

経済ジャーナリスト。1950年生まれ。北九州市立大卒業後、自動車専門紙や全国紙の経済記者として、自動車、エネルギー、金融などを担当。2000年からフリーとなり、雑誌やインターネットでの執筆や講演活動を行っている。40年に及ぶ自動車産業ウォッチャーであり、経営だけでなく商品、技術にも精通。著書に『トヨタVS.ホンダ』(日刊工業新聞社、2002年)など。

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