夢の再生医療目指し:研究進むiPS細胞

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京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞(人工多能性幹細胞)を作製したと報告する論文を発表してから、8月で10年。2014年にはiPS細胞からつくった組織を患者に移植する臨床研究が実施された。期待と課題が交錯する中で、新たな治療法の開発に向けた動きは着実に進んでいる。

再生医療の歴史は、古くて新しい。

光を失った目、動かなくなった手足、そして、止まりかけていた心臓が、再び働きを取り戻せたら…。眼鏡や義手・義足、人工臓器といった代替手段は、広い意味の再生医療と言えるだろう。今から35年前、それらを細胞移植で修復しようという細胞療法が大きな注目を集めた。1981年にマウスの胚から胚性幹細胞(ES細胞)、98年にはヒトES細胞の作製が成功したためだ。

約60兆個とされる成体細胞は、たった1つの受精卵から細胞分裂を繰り返した末に出来上がる。幹細胞は、分裂に際して自己を複製する力とさまざまな細胞に分化する能力(分化多能性)を持つ細胞で、中でも受精卵は成体のあらゆる細胞をつくり出すことができる。

ES細胞は、受精卵が6~7回分裂した初期胚から作られ、分化多能性を持ちながら、ほぼ無限に増殖が可能な幹細胞である。再生医療の細胞源として期待される一方、いくつも課題を抱えていた。目的の細胞に安全に分化誘導する技術、拒絶反応を抑える技術、そして、最大の壁がヒトの受精卵から作製するという倫理上の課題だった。

ES細胞を体中の細胞に分化誘導させようという研究が世界中で行わる中、山中氏は逆方向へのアプローチによって、ES細胞に匹敵する多能性幹細胞をつくることに成功した。

倫理面の懸念ない幹細胞:2012年にノーベル賞受賞

ES細胞によく発現している24個の遺伝子の中から、後に山中因子と呼ばれる4つの遺伝子(Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Myc)を突き止めた。マウスの皮膚細胞に、レトロウイルスをDNAの運び屋(ベクター)として、これらの遺伝子を組み込むと、ES細胞に類似した多能性幹細胞ができた。「iPS細胞(induced pluripotent stem cell)」の「i」をわざわざ小文字にして命名したのは、世界に普及したApple社の携帯型音楽プレーヤー「iPod」にあやかりたいとの願いからだ。

その詳細な作製手順とともに4つの遺伝子の正体は、米科学誌『Cell』2006年8月25日号で明かされた。ただし、このiPS細胞をヒトの治療に用いるには、ヒトでも作れることを示さなければならない。ES細胞がマウスからヒトに至るまでは17年もの月日がかかったが、山中氏は翌07年にはヒトiPS細胞の作製に成功した。

線維芽細胞から樹立したヒトiPS細胞のコロニー(集合体)。コロニーの横幅は実寸約0.5ミリメートル(山中伸弥教授提供)

京都大学の山中伸弥教授=2016年7月撮影(時事)

iPS細胞は再生医療にとどまらず、臨床医学全体を変える可能性を秘めていた。例えば、病気の人の患部の細胞と、その人の細胞を初期化したiPS細胞を比較することで、病気のメカニズムを解明して創薬につながることも期待されたのだ。倫理面の懸念からES細胞に反対していたブッシュ米大統領もローマ法王も、iPS細胞には歓迎の意を表明した。1人の患者も救われてはいない段階にもかかわらず、2012年には山中氏にノーベル医学・生理学賞が贈られた。

ヒトiPS細胞の発見により、夢の再生医療の実現に向けたレースの火ぶたが切られた。

当初の作製法では、細胞が腫瘍化する恐れがあった。また、作製効率も極めて低かった。用いる遺伝子や作製方法の見直しにより安全性が高められた結果、2014年には臨床研究が始まる。9月12日、先端医療振興財団先端医療センター病院(神戸市)で、目の難病である加齢黄斑変性(滲出型)を患う70歳代の女性の片目に、患者自身の皮膚細胞から作製したiPS細胞由来の網膜色素上皮シートが移植された。

研究を率いたのは、理化学研究所のプロジェクトリーダーで眼科医でもある高橋政代氏。試験の主たる目的は安全性の評価で、移植後4年以上にわたって細胞の生着や腫瘍化の有無をチェックする予定だが、2年が経過した時点で問題は生じていない。しかし15年に予定されていた2例目は、患者から作製したiPS細胞に複数の遺伝子変異が見つかるなどして中止となった。

拒絶反応、腫瘍化への対処が今後のカギ

患者本人の細胞から自己由来のiPS細胞を作製することは、移植の宿命とされる拒絶反応を抑えるという意味で利点がある。しかし1例目は本人の細胞からのiPS細胞を作り、さらにはそれを分化させて網膜シートにするまで、入念な安全性の確認を含めて11カ月かかり、コストも億単位に膨らんだ。そこで次回は京大iPS細胞研究所のiPS細胞ストックを理研で移植用の網膜色素上皮細胞に分化させる。この方式により、2017年の移植再開が予定されている。

血液型のように、細胞にもヒト白血球型抗原(HLA)と呼ばれる型がある。O型の血液が誰にでも輸血できるように、他人由来の細胞を移植しても拒絶反応が起きない細胞の型の組み合わせがあり、京大では汎用性の高い型を持つiPS細胞のストックづくりを進めている。

京都大学iPS細胞研究所・細胞調製施設(FiT)内にあるiPS細胞ストックを貯蔵するタンク(同研究所提供)

HLAの型は数万通りともされ、両親から同じ型のHLAを受け継いだ人(HLAホモ)は、AA、BB、CCのような型になる。例えばAAの人であれば、その細胞をABやACの人に移植しても、拒絶反応を最小限に抑えられる。日本人で出現頻度が高いHLA型であれば、HLAホモの75人(75種類)で人口の80%、140人で90%をカバーできるとされる。この規模であれば、京大において十分ストックが作製可能で、同医学部附属病院、日本赤十字社、さい帯血バンクなどの協力を仰ぎ、HLAホモと分かった人には、ドナーとして協力を要請している。

京大ではこれらの献体から治療に使う高品質のiPS細胞を作製しているが、2017年度末までに日本人の3〜5割程度をカバーできると見積もられている。

当初から、技術的に最大の課題とされた腫瘍化の問題は、作製方法が変更された現在でもゼロにはできない。iPS細胞を、目的とする細胞に完全に分化誘導できればいいが、未分化なままのiPS細胞が残っていると、それが暴走する恐れがある。完全に分化させるか、目的以外の物が混ざっていたらそれを取り除く手段も、再生医療を成功に導くためのカギになる。

法整備進め、再生医療の早期実用化へ支援

iPS細胞を用いた治療の実用化に向け、国は法改正などで側面支援している。2014年11月に旧薬事法が改正された。細胞シートなどの「再生医療製品」については治験で安全性が確認できれば、有効性が推定されると判断された段階で販売期間や販売先を限定して医薬品として国が承認する。有効性については市販後の一定期間に検証できれば、審査を受けて正式な承認を得る。旧法では承認まで10年余りかかっていたが、2~3年に短縮できると見込まれている。

新たな法律は、世界で最先端ともされるが、日本が再生医療製品を世界に先駆けて承認することは、リスクを一手に引き受けるという覚悟の現れとも言えるだろう。

一方、患者保護を目的として、効果や安全性が不確かな再生医療が自由診療(保険外診療)として横行することを防ぐための新法も施行された。

幅広い分野で進む新治療法の開発研究

iPS細胞を用いて、心不全や脊髄損傷、パーキンソン病など、さまざまな治療に応用するための研究は着々と進められており、動物実験からヒトへの臨床研究に近付いている。

慶應義塾大学の岡野栄之・医学部長が取り組むのは、脊髄損傷の治療の実用化だ。事故や外傷がもとで起こる脊髄損傷は早期に損傷が慢性化してしまうので、自己細胞からiPS細胞を作製するのでは間に合わない。そこで前述の京大のiPS細胞ストックを用いて神経幹細胞を分化させて用いる予定で、17年度中に第1例のヒトへの投与を実施する計画を進める。さらにその先には、脳梗塞の治療への応用も見据えている。

一方、大阪大学の澤芳樹教授は、iPS細胞由来の心筋シートを作り、これを心臓に張り付ける治療により、心不全の治療を目指している。

京都大学では高橋淳教授が、iPS細胞由来のドーパミン産出性神経細胞による神経難病パーキンソン病の治療法開発に取り組んでいる。また高齢社会の供血者不足に対応するため、日本赤十字社とともにiPS細胞から血小板や赤血球を作る事業も進めている。iPS細胞技術を使ってがん免疫細胞を活性化させ、がん治療を行う計画も進行している。

ヒトiPS細胞から誘導したドーパミン産生神経細胞(京都大学iPS細胞研究所の森実飛鳥氏提供)

臓器を丸ごと作り出そうという試みもある。横浜市立大学の谷口英樹教授は、ヒトiPS細胞から誘導した肝臓の前駆細胞(体を構成する細胞に最終分化する途中の段階にある細胞)などから、立体的な“肝臓の芽”の作製に成功している。

新薬開発にもiPS細胞活用の動き

当初から2本柱とされた創薬にも期待がかかる。

薬の候補物質が医薬品になる成功確率は、数万分の1とも言われ、途中で重い副作用が発覚するなどして、開発が断念されるケースも多い。iPS細胞は、この副作用をあらかじめ予測するためのツールになり得る。例えばヒトiPS細胞から誘導した肝臓細胞を用いれば、肝臓毒性が予測できる。また、薬の副作用には命取りになりかねない不整脈もあるが、これもiPS細胞から誘導した心筋細胞により予測可能になっている。

期待が大きいのは、難病だ。文科省と厚労省は2012年、iPS細胞を活用した難病研究のための産学連携プロジェクトを立ち上げた。これは難病患者から皮膚や血液などの体細胞を提供してもらい、京大など5つの共同研究拠点で疾患特異的iPS細胞を作製し、患部の細胞へと分化させることで病態を解明し、創薬につなげようというものだ。50の厚労省の難病の研究班と連携し、製薬企業7社も参加している。京大と慶大では、他の病気の治療に使われている医薬品の中から、「進行性骨化性線維異形成症」など6疾患の治療薬の候補を見つけており、臨床試験などを経て実用化を目指す予定だ。

iPS細胞を用いた治療法の実用化には、国から数100億円規模が支出されるが、なお人材育成面などで課題がある。日本再生医療学会では「再生医療認定医」と「臨床培養士」の認定制度を開始し、細胞の培養や加工を手がける技術者の養成にも本腰を入れ始めた。

この10年で、iPS細胞の臨床研究が開始されたとは言え、誰もがそれを享受できる日までは、まだ長い道のりがある。しかしiPS細胞の可能性を信じて、パイオニアである山中氏を筆頭に、安全性とスピード、リスクとベネフィットのバランスを図りながら、世界中で多くの科学者たちがたゆまぬ努力で研究を前に進めている。

バナー写真:京都大学iPS細胞研究所のオープンラボで実験を行う研究員(同研究所提供)

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