ロシア極東の中古日本車市場:黄金時代の後に来るのは?

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ロシア極東の中古日本車輸入ビジネスは、2008年秋のリーマンショックと2009年1月の輸入関税引き上げで、壊滅的な打撃を受けたと思われた。しかし、その後も粘り強く中古車輸入は続き、近年は盛り返す気配を見せている。日本から見た対ロシア中古車ビジネスについて考察する。

ロシア極東における“中古日本車文化圏”の始まりは、1970年代後半のソ連“停滞時代”にまでさかのぼるとされている。ウラジオストクの若手ジャーナリスト、ワシーリー・アフチェンコ氏が、ノンフィクション小説『右ハンドル』(初版2009年、増補版2012年)で、中古日本車市場の実情をしっかり描いている。同書は日本車と郷土ウラジオストクへのシニカルでありながらも熱い思いに貫かれた稀有な文学作品であり、同時に極東の中古日本車の“黄金時代”を伝える歴史的証言にもなっている。日本語への翻訳が待たれるばかりだ。

日本人の立場から見た対ロシア中古車ビジネスについて、最近の動向を交えて説明を加えてみたい。

年間50万台から4万台へ激減のショック

極東で中古日本車の輸入が広まり始めたのは1980年代後半からだ。ロシアの木材船や貨物船の乗組員が携行手荷物として安い中古車を持ち帰り、自動車入手が難しかった当時のソ連で評判になったのが始まりだった。日本車は中古であってもロシア国産の新車よりはるかに性能がよく、欧米の自動車はロシア極東では入手しがたかったため、たちまち庶民の人気を集めることになった。

悪路が多く、冬季には自動車の故障が生命の危険につながるロシアでは、日本車は高級なぜいたく品というより生活を支える“家財道具”のひとつだった。また、故障が少なく長期間使用できる日本車は、転売ビジネスやアフターマーケットを生み出し、困難な90年代を生き抜くための糧を極東のロシア人たちに与えることになった。日本車を「日本娘(ヤポンカ)」と呼んでほれ込んだクルマ乗りたちは、日本車に関する独特の隠語を生み出すなど、独立独歩の極東人らしい自動車文化を育てていった。

中古日本車の輸出台数は、90年代には年間15万台前後で推移し、2000年代には20万台に達した。日本側での正式な統計調査が始まる2005年には24万台、リーマンショック前の2008年には過去最高の51万7000台を記録した(濱野剛他編著『ロシア極東ハンドブック』、東洋書店、2012年)。

 

出荷地は富山港、伏木港、新潟港など日本海側の港湾が多く、地方自治体の対岸交流が活発化し、買い付けに来るロシア人を当て込んだビジネスも生まれた。新潟空港では日本の家電や食品、さらにはタイヤまでも土産として持ち帰るロシア人たちで賑(にぎ)わった。

しかし、2008年秋のリーマンショックと2009年の輸入関税引き上げ措置により、中古日本車のビジネス環境は著しく悪化。年間輸出台数は10分の1以下の4万5000台にまで落ち込んだ。日本の各空港は極東路線を運休するようになり、ウラジオストクの中古車業者たちからは廃業や転職を口にする声も目立ち始めた。

切断、水没、放射能……日本車の受難が相次ぐ

 こうした中、高額の輸入関税を回避するために、自動車を解体して部品として輸入し国内登録するというグレーな方法が編み出され、当局と業者とのいたちごっこが始まった。解体された部品はロシアでは「コンストルクトルィ」(“組立玩具”)、日本では「マトリョーシカ」と呼ばれ、切断したボディはロシアでは「ラスピルィ」(“切断物”)、日本では「ハーフカット」と呼ばれることになった。解体した部品や切断したボディによる輸入は一時的に増加したものの、2011~12年頃から減少し始め、現在では純粋に部品としての使用を目的としたものが残る程度になっている。ちなみに、東南アジア向けの中古車では、まだ解体車による通関が行われている地域もあるといわれている。

ウラジオストク港には通関前の解体車が置かれていた(2011年1月撮影)。

続いて、中古車輸出が息を吹き返し始めた2011年には、日本で東日本大震災が起こった。大量の自動車が津波に押し流されるさまは、ロシアでもニュースやネット動画で盛んに伝えられた。隣国の被災地への支援が極東各地でも呼びかけられる一方で、中古車業界では日本から大量の「土左衛門」(ウトプレンニク)、すなわち水没車がカモフラージュされて送られてくるとの懸念が広まった。

しかし実際には、日本国内の自動車需給が逼迫(ひっぱく)して輸出が後回しにされた結果、中古車輸出の回復が遅れることになったと見る方が適切だろう。また、福島第一原発事故の影響で、放射能汚染車がロシアに上陸し、税関検査に引っかかってシップバックされる事例も現在に至るまで散発的に発生している。日本側は出港前にしかるべき検査を行っているとしているが、放射性物質の付着を完全に防ぐのは技術的に困難なのかもしれない。

現在の関税率では、以前のように経年数が多い中古車を安く輸入することは困難になっている。最も安く通関できるのはそれほど古くない小型車だが、ミャンマーなど他国の需要が伸びているため、こうした小型車を日本の中古車オークションなどで安価で大量に調達できるかは不明だ。今後、日本中古車はこれまでより高価なものとして再認識されていく可能性がある。対ロ中古車輸出は、2012年に続いて2013年上半期も好調だった。しかし、ウラジオストクでは売れ行きが鈍化して在庫が積み上がっているとの情報も出ている。長期的にはルーブルの為替レートが下落していく傾向の中で、どこまで輸出が回復していくか注目される。

ネット時代のクルマ選びで見えてきた日本車の底力

ウラジオストクの中古車業界では、郊外の「グリーンコーナー」と呼ばれる丘陵地に開設された広大な屋外市場がシンボル的な場所となってきた。ここでは極東の他の都市や遠路シベリアからやってきたバイヤーや一般客が、海千山千のディーラーを相手に売買交渉を行う。しかし最近では、交渉の場としてのグリーンコーナーの存在感はいくらか薄れてきたという。グリーンコーナーを通さずに、直接ネットのオークション代行業者を通じて買い付けに関わり、貨物がウラジオストク税関で通関を切り次第、引き取るユーザーが増えてきているためだという。

「グリーンコーナー」と呼ばれる屋外市場(2010年4月撮影)。

背景には、ネット上での情報の公開や蓄積が進み、売買のハードルを下げるプラットホームが整備されたことがある。中古日本車の愛好者らが集まる大手自動車ポータルサイトDrom.ruでは毎日約5000台の売買契約が成立しており、今年2月には通算1000万台目の自動車(2008年製の日産ノート、40万ルーブル)が出品された。

ウラジオストクでは2012年にマツダ車、2013年にトヨタ車のノックダウン生産が始まった。これは画期的な出来事だったが、中古日本車に乗る「一般市民」の手には届かないぜいたく品だと見る向きも多い。ノックダウン生産ならば、「地元の解体車溶接業者の方がよほど技術レベルが高い」と強がる声も聞かれた。

また、近年、韓国の中古車がウラジオストクでブームになりかけたことがあった。しかし、税関が韓国車のアンダーバリュー通関(過少申告の通関)の取り締まりを強化するとともに、韓国車はやはり性能が日本車に及ばないとの評価が固まり、2012年秋には人気が収束した。現在は不良在庫としてウラジオストクで積み上がっているという。

日本車を専門に扱うパーツ屋(2013年8月撮影)。

このように、経済的にはそれほど裕福ではないが目が肥えているロシア人にとって、日本の中古車は今後も頼れる存在であり続けるのではなかろうか。また、日本人にとっては、これほど日本車を愛する欧州人が日本海の対岸に住んでいると認識することは、自らの視野を広げる上で有益なことだろう。

(2013年8月 記)

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