冷戦後日本外交の軌跡

真価問われるアジア太平洋外交

政治・外交

1970年代に入りアジアの経済は重層的な発展を遂げ、日本外交もアジア太平洋地域の重要性に着目し始める。そして冷戦の終焉。日米中の3国間関係に注目が集まる中、日本のアジア太平洋外交はどう推移していったのか。

冷戦後の日本のアジア太平洋外交という主題について論じるには、(1)「冷戦後」という明らかにグローバルな意味合いを持つ1つの時代意識があることを前提として、その「時代」の中で、日本外交において「アジア太平洋」がどのような位置を持つものとして認識されていたのかという問題と、(2)時代を超えて、明治初期以来の、あるいは少なくとも「敗戦後」の、より長期にわたる日本人の対外意識の中に常にあったといえるであろう「アジア太平洋」についての認識(perception)の流れの中で何が「冷戦後」的と呼べるような特徴なのだろうかという問題の2つを念頭におきながら考えを 進めることが必要である。(※1)

一般に冷戦の終焉を端的に示す事件はベルリンの壁の崩壊(1989年)とされる。同じ年に発表された日本政府の『外交青書』第1章は、次のような書き出しで始まっている。「現在、国際社会は大きな変化の中にある。戦後世界を形づくってきた国際秩序は、この急激な変化を前にして,自らを適応させることを余儀なくされており、様々な模索が行われている」。(※2)ここで急激な変化への適応を迫られ模索をしているのは、今日の国際社会を構成するそれぞれの国家であり国民であるが、より直接には、日本外交であるのは言うまでもない。

日本の場合は、この冷戦の終焉が、たまたま、昭和から平成への移り変わりと重なったことも手伝って、新しい時代への希望と不安とが交じり合った、一種の「昂揚した」調子が、この年の『外交青書』にはうかがえる。お役所の文書にありがちの淡々と事実を述べるだけのスタイルの中にあっては、少し珍しい。

アジア太平洋地域の重要性の増大

では、具体的に何が新しい時代の日本外交の課題だというのか? アジア太平洋についてはどのような記述があるのか?『外交青書』の筆者はもとより1人ではなく、外務省だけをとってみても、多数の局や課がそれぞれの言い分を持ってその作成に関わっているし、その上、少なくとも理論上は内閣や国会の政治家たちの立場とか思惑への考慮も入ってくるだろうから、この種の政府の公式文書は多様な意見の寄せ集めであって、その中である特定のテーマが際立つようなことは期待できない。そのような留保をつけた上で読んでみると、この年の『外交青書』が、「アジア・太平洋地域の一国としての外交」に力を込めて述べているのが印象的である。

ベルリンの壁の崩壊をはじめとする中東欧の情勢やその背後にある米ソ関係の急激な変化がアジア太平洋地域にも少なからぬ影響を及ぼしつつあることに留意しながらも、例えば1985年を境として太平洋貿易が大西洋貿易を追い越したことに言及し、「昨今の国際情勢における特筆すべき1つの傾向として、アジア・太平洋地域の重要性の増大」があると述べている。このことから分かるように(※3)、狭義の冷戦の終焉に先立って、この地域の重要性の増大を示す諸事象が顕われていたことも忘れられていない。

言い換えれば、冷戦の終焉とともにアジア太平洋地域の重要性(への認識)が高まったと考えるのは、短絡的に過ぎよう。グローバル化した状況のもとで、欧州情勢からの影響は否定しきれないにしても、アジア太平洋には地域固有の内在的な動きがあり、アジア太平洋の重要性に着目した日本の外交的取り組みは、遅くとも1980年代初頭までには、始まっていたのである。例えば福田赳夫首相の「マニラ演説」(1977年)や大平正芳首相の「環太平洋連帯構想」(1980年)などがある。(※4)

つまり、日本のアジア太平洋外交の軌跡を十分に観察するには、最近の20年(田中明彦氏の言う「新しい危機の20年」)に限定せずに、少なくともさらに10年ほど遡って、最近の30年間に視野を広げる必要がある。

だからといって、あるアメリカの学者が書いているように、「冷戦の終焉以後、アジア太平洋地域の諸問題や将来性が国際政治や外交政策の研究者たちの関心をより多く惹き付けるようになった」ことを否定するつもりはない。(※5)

では、冷戦の終焉後に識者(特に欧米の)がアジア太平洋地域への関心を増大させたのはいかなる理由によるのであろうか。冷戦時代に彼らの第一の関心事であった米ソ関係やヨーロッパ情勢が東西間の緊張緩和とともに後景に退き、それに代わって、日米中の3国間の関係を含むアジア太平洋の動向に多くの注目が向けられるようになったからである。そして、中国の国際政治・経済上の重要性は、1970年代に起こった米中接近と日中関係の修復とともに目立つようになったことを考えれば、アジア太平洋地域の重要性が増し、それへの外交当局者や識者の関心が高まりはじめたのが米ソ間の冷戦の終結に先だって生じていたという、前述の指摘も頷けるであろう。ただし、急いで付け加えておくが、中国だけでなく、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やアジアNIEs(新興工業経済地域)の経済的発展やそれに伴う政治的発言の活発化(これもまた1970年代から1980年代にかけて生じたことである)という事実も、この地域の重要性の増大に寄与したことを忘れてはならない。

1970年代以来のこのような趨勢に拍車をかけたのが、冷戦の終焉であった。その過程で、日本のアジア太平洋外交にどのような新しい面が加わったのであろうか、それについて以下に考察してみたい。

(※1) ^ 「アジア太平洋」と「アジア・太平洋」の二つの表記方法があるが、この論文では、引用文の場合を除いて「アジア太平洋」と書く。なお、長期の歴史的視野からの考察は、佐藤誠三郎他『近代日本の対外態度』(1974年、東京大学出版会)所収の渡邉昭夫「対外意識における『戦前』と『戦後』」を参照。なお、内容と文体の情報を用いて歴代首相の国会演説を分析した以下の論文も参照。Suzuki Takafumi, "Investigating macroscopic transitions in Japanese foreign policy using quantitative text analysis", in International Relations of the Asia-Pacific, Volume 11, Number 3(2011), pp.461~490.

(※2) ^ 『外交青書』第33号(1989)、1ページ。

(※3) ^ 同上、7ページ。

(※4) ^ 詳細は、渡邉昭夫編『アジア太平洋連帯構想』(NTT出版、2005); 同『アジア太平洋と新しい地域主義の展開』(千倉書房、2010)。

(※5) ^ G.John Ikenberry & Michael Mastanduno (eds), International Relations Theory and the Asia-Pacific, (New York: Columbia University Press, 2003), p.1.

APEC(アジア太平洋経済協力)の発展

1993年のAPEC(シアトル)から1995年のAPEC(大阪)にかけての数年が、多分この新しい傾向の最も際立った時期であろう。大平正芳首相の政策助言者たちが提唱した環太平洋協力の呼びかけをきっかけに始まった非政府レベルのPECC(太平洋経済協力会議)が数年後には,オーストラリア政府のイニシアチヴで政府レベルのAPECに発展し、その第1回会議がキャンベラで開催されたのは、奇しくもベルリンの壁の崩壊と同じ1989年11月のことであった。

東西のこの2つの出来事の間には、直接の因果関係はないのであろうが、冷戦終結後の新しい国際的雰囲気の中で、生まれたばかりのAPECが順調に生育し、第2回(シンガポール)、第3回(ソウル)、第4回(バンコク)を経て、アメリカがホスト役をつとめる第5回のシアトル会議となった。それまでは関係閣僚レベルの会合にとどまっていたAPECがこのとき初めて非公式ながら首脳会合も併せて開催されたのは、アメリカが本腰を入れてアジア太平洋外交に取り組み始めたことを象徴していた。冷戦の緊張から解放されたこと、経済が安全保障と並んで、あるいはそれ以上に重要だという認識が、このアメリカの動きの背後にあった。経済優先のこの新潮流は、APECの発展のためには好材料であった。

シアトル会議の翌1994年、インドネシア主催のAPEC会議でボゴール宣言が採択され、それを受けた1995年の大阪会議に日本外交が特別の力を入れたのは、当然の展開であった。アメリカ、インドネシア(東南アジアの主要国)、そして日本が順に主催国の役割を果たしたこの3年間が、APECが最も活気を呈した時期として歴史に記憶されるであろう。「アジア太平洋コミュニティ(地域経済社会)」という表現が初めて使われたのは、1993年のシアトルであったし、「APEC経済首脳の共通の決意の宣言」が採択されたのは、1994年のボゴール会合においてであり、翌1995年の大阪会合では、日本政府がPFP(前進のためのパートナー)を提唱し、「大阪行動指針」が採択された。貿易・投資の自由化と円滑化、経済・技術協力の推進のための戦略的枠組みが大阪行動指針の主な内容であった。

インドネシア・ボゴールで開催されたAPEC首脳会議に参加した村山富一首相、クリントン米大統領ら各国首脳(1994年11月、写真=AFP/時事)

こうしたAPEC活動の活発な展開を踏まえて書かれた『外交青書』の1996年版が、その副題に「新たな国際秩序の萌芽と日本外交の進路——重層的な枠組みの構築」を謳ったことが印象的であった(『外交青書』がこのような副題を持つこと自体が異例であった)。少し長くなるが、その『外交青書』から引用すれば、「このようなアジア太平洋の発展は、古い南北関係の構図から脱却するものとして世界史的な意義を持っており、発展を維持するため多様なメンバーが協力するAPECは新しい国際協力のモデルを提供するものである」と格調高く述べ、それに続いて、(1)日本経済の長期的な発展の確保、(2)アジアとの信頼関係の一層の強化、(3)アジア太平洋の経済成長の確保を通じた域内の政治的安定への貢献、(4)アジア太平洋への米国の積極的取り組みの環境整備、(5)国際協力の枠組みへの中国の円滑な参加の促進、(6)豪州、ニュージーランドと東アジア諸国との関係の強化、(7)中南米諸国との連携の強化の7つが、APECの意義として日本が期待するものであり、そのような意義を有する「APECにおける協力の推進は、日本の対アジア太平洋外交の重要な柱の1つ」であると述べている。(※6)

東アジア経済の奇跡が動因

ここで挙げられている7つのポイントはいずれもより詳細な考察に価するが、なかでも特に注目すべきは、第4のアメリカと第5の中国であり、この2つの大国間の関係、そしてそれぞれの行動が、以後の日本のアジア太平洋外交の在り方に大きな影響を与えることになる。そのことに進む前に、次のことを再度確認しておく必要があろう。PECC および APECにアジア太平洋地域の諸国を糾合する力が何よりも経済であったことは明らかで、1987から1996年まで続いた東アジア経済の「奇跡的成長」がこの時期の日本のアジア太平洋外交に活気を与える基本的な動因であったという事実である。ビル・クリントン政権の経済重視政策の下でアメリカが、これまでになく、積極的にアジア太平洋の地域主義に関与し始めたのも、この事実の反映であったし、クリントン大統領の提唱で、初めて首脳会議が1993年のシアトルAPECにおいて開催され、やがてそれが恒例化されるのは、その結果であった。

1997年のアジア通貨危機を契機に、一時勢いを失うが、全体としては好調なアジア経済が、アジア太平洋の地域主義の発展のための基礎的条件を提供した。その好調なアジア経済の牽引力となってきたのは日本の経済成長であったという自負が、この時期の日本のアジア太平洋外交を活気づけていた。と同時に、水産物と林産物の自由化を容易に受け入れない日本に対するアメリカのいら立ちが次第に高まっていき、日米の経済関係における不協和音が前途に暗い影を投げかけていた(そのことは、やがてTPP[環太平洋パートナーシップ]協定参加問題への日本の不決断という形で今日にも残っている)。より一般的には、「欧米」(西)と「アジア」(東)の心理的距離が、東西の架け橋たらんとする日本外交の意気込みにもかかわらず、折に触れて顔を出し、APEC を一つにまとめあげる作業の難しさを物語っていた。(※7)

アジア外交を長年手がけてきた中江要介元中国大使は、あるインタビューの中で、佐藤栄作政権末期の対ソ、対ベトナム外交に触れて、それは日中関係を意識した動きではなかったと言い、「こういうものを関連づけるほど,日本の外交は立派ではなかった。それほど地域的あるいはグローバルに外交を有機的に動かすような、そういう姿勢や態度が身についている政治家・外交官はいなかった」と日本外交に辛い点をつけている。その中江氏でも、かつては「戦争と革命、貧困におおわれた東アジアは、世界で最も経済的に活力に満ちた地域となり、その経済発展と相互依存の進展により、『アジア太平洋地域』という概念がより実態的なものになりつつあった」と述べている。福田ドクトリンを自己の誇れる成果と言う中江氏にして、初めてこの言ありといえようか。(※8)

(※6) ^ 『外交青書』第39号(1996)、15ページ。外から見た場合、日本側が自負するのとは反対に、むしろ大阪会議における日本の消極性が、APECの前進を妨げるブレーキとなったという厳しい評価さえある。John Ravenhill, "A three bloc world? The new East Asian regionalism", International Relations of the Asia-Pacific, Vol 2, Number 2 (2002), p177.

(※7) ^ 古くは日本の国連加盟に当って重光葵外相が国連総会で行った演説で、東西の架け橋たらんと語り、同じ文句は鳩山由紀夫首相の国連総会での演説でも繰り返し言及された。

(※8) ^ 中江要介『アジア外交:動と静』 蒼天社、2010年、123, および 230ページ。

底流に横たわる対中政策

しかし、日本のアジア太平洋外交の前途に横たわる根本的な問題は、対中関係であった。ベルリンの壁の崩壊とAPECの発足を見た1989年は,天安門事件が世界の注目を集めた年でもあった。中国共産党の指導者による人権抑圧の非民主的暴挙として先進民主主義国家による非難が高まる中で,日本外交は、中国の孤立を招く厳しい対中制裁は得策でないという考えから、中国と欧米諸国との間に立って事態の収拾に腐心した。経済面では改革・開放政策に踏み切り順調に経済成長を続けながら、政治面では依然民主化に背を向け続ける中国という「新しいタイプの大国」にどう対処するべきかという難問がここに既に頭を見せていた。しかも、経済力においてやがて中国が日本を追い越し、近隣諸国への影響力を増す一方、アメリカその他の先進国経済が行き詰まるなかで、日本のアジア太平洋外交は、かつての活力を失っていった。

その上、9.11事件後アメリカがテロとの闘いに忙殺され、イラクやアフガニスタンの問題にエネルギーをとられてアジア外交をおろそかにし始めると、日米協力の基盤の上に形成されつつあった均衡のとれたアジア太平洋の秩序を維持するのが、困難になるのは避けられなかった。日中間は、経済的相互依存関係が次第に深まりいく一方で、靖国問題、東シナ海の海底資源問題などをめぐる政治的緊張が緩和する気配は見られないというジレンマを抱え込んだ。力強い日米協調と健全な日中関係の両立が、日本のアジア太平洋外交の拠って立つ基礎的条件でもあり、達成するべき帰結でもあるはずなのだが、決してこのことは容易ではない。

こうした難しい状況の中で、2国間または少数のメンバーだけで貿易自由化を目指すいわゆるminilateralismが現れる一方(日本も重い腰を上げ2002年にはシンガポールとの2国間協定に踏み切った)、他方広域では、東アジア地域主義とアジア太平洋地域主義というニュアンスの異なる二つの考え方が、引き合う中で、日本外交の模索が続いた。制度的には、ARF(ASEAN地域フォーラム)、ASEAN+3などが前者、APEC、TPPが後者を代表している。理念的には、自由と人権、民主主義などの普遍的価値の共有を目指すか、それらの諸価値を欧米本位のものと見て受け入れを拒否するか、そこまではいかないにしても内心では反発するかの違いがある。 最近10年の日本政府の動きを見れば、小泉純一郎首相のシンガポール演説(2002年1月)では、地理的意味のアジアを超えたアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどを中核メンバーとして含むアジア太平洋の地域を構想するものから、この点には触れない福田康夫首相のアジア太平洋外交、鳩山由紀夫首相の東アジア共同体(中国寄りか、ただし内容は不明)に至るまで、揺れ動いていて腰が定まらない。

経済的相互依存と政治的乖離の2面性

このような不決断振りの理由を、官僚主義的惰性や政治的リーダーシップの欠如など内在的要因に求める議論には、一理はあるが、より根底には、アジア太平洋の現実が、経済的相互依存と政治的乖離との2面を併せ持つ捻れた相互依存(twisted interdependence)状況を呈していることに理由がある。(※9)

ある時期の日中関係を「政冷経熱」と呼んだジャーナリストがいたが、今日では、その上、軍事力(特に海軍力)の増加にこの経済大国が異常な熱を入れるようになっているために、アメリカを含むアジア太平洋諸国と中国との関係全体が、経済関係は深まる一方、安全保障関係は不安に満ちたものに留まるという大変歪んだ状態になっている。経済的相互依存とは、日米、日欧などの例を見ても分かるように、政治的理念を共有する国々の間でもなかなか操縦が難しいが、日本やアメリカと中国の間のように、政治理念を異にし、安全保障上の不安を抱えたままでは、「共同体」と形容できるような関係を構築するのは、至難である。ここで「経済的利益の共通性の絆は案外弱いものであり、従って経済的利益の共同体は、文化や政治を含む共同体とされなくてはならない。そのなかでもっとも基本的なものが安全保障をともにするという意識である」と故高坂正嶤氏のことばを想起するべきである。(※10)

冷戦終焉後の日本のアジア太平洋外交は、APECという枠組みを得たことにより、単なる2国間関係を束ねたもの以上の何者かになっていった。日米関係も、そうした多角的な地域外交との関連での「基軸」として新しい意義を与えられた。また、経済的次元を超えた、政治的関係と安全保障への関心に応える必要が生じてきた。中江氏が指摘するように、「地域的、またグローバルに外交を有機的に動かす」ことの苦手な日本にしては、かなり良く振る舞ってきたといえそうである。真価が問われるのは、21世紀である。

写真提供=時事通信社

(※9) ^ 「捻れた相互依存」とは、今のところ筆者個人の私的用語に過ぎない。なお、日本の冷戦後外交が国際環境の激変に応じて変化せず反応が鈍いという見方については、以下の論文を参照。William W. Grimes, "Institutionalized Inertia: Japanese Foreign Policy in the Post-Cold War world" in G. John Ikenberry and Michael Mastanduno , op cit, 353 ff.

(※10) ^ 高坂正堯「経済安全保障の意義と課題」、『国際問題』1978年4月号

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