シリーズ 現代日本政治の動向
選挙制度改革後の自民党

上神 貴佳【Profile】

[2013.11.12]

1994年の選挙制度改革を経て導入された小選挙区比例代表並立制により、自由民主党の組織や行動がどのように変化したのか。高知大学の上神貴佳准教授が検証・分析した。

本論文は、1994年の選挙制度改革によって自民党の組織や行動に変化は見られたのか、簡潔に説明する。そのためには、かつて用いられてきた中選挙区制が自民党に及ぼしてきた影響を明らかにした上で、小選挙区比例代表並立制が自民党をどのように変えるのか、そのロジックと実際を検証しなければならない。

以下では、まず、新旧の選挙制度の違いを説明する。ついで、選挙制度改革の前後における自民党の組織と行動を比較検討する。結論から述べると、党が選挙の中心となり、総裁の影響力も拡大したが、選挙区レベルの活動はいまだに候補者個人に依存しているといえる。

中選挙区制と小選挙区比例代表並立制の違い

1994年に公職選挙法が改正され、衆議院の選挙制度は小選挙区比例代表並立制に変更された。それまで用いられていた制度は、中選挙区制といわれるものであった。日本の議院内閣制においては、衆議院と参議院が国会を構成するが、憲法は衆議院の優越を定めている。従って、衆議院の選挙制度は日本政治を理解する上で極めて重要なポイントといえる。

まず、中選挙区制のメカニズムについて説明しよう。この制度はいわゆる「単記非委譲投票制(single non-transferable vote, SNTV)」の一種であり、日本では一つの選挙区から3~5人の議員を選出する制度を指す。130の選挙区が日本全国にあり、合計511人の衆議院議員が選ばれていた(中選挙区制最後の1993年総選挙)。有権者は複数の候補者から誰か一人に投票し、候補者は得票順に議席を獲得する。有権者はもっとも好ましいと思う候補者に一票を投じるのみであり、候補者の好みの順序を示す必要はない。従って、候補者間で得票の調整は行われなかった。

中選挙区制に代わって導入された小選挙区制では、一つの選挙区から一人の議員を選出する。有権者は候補者の名前を一人だけ投票用紙に記入し、もっとも多くの票を得た候補者が議席を獲得する。300の小選挙区が存在するので、全体では300人の議員が選ばれることになる。比例代表制では、有権者が政党名を投票用紙に記入し、各党は獲得した票に応じて議席を得る。政党に与えられた議席は、原則として政党が事前に用意しておいた「名簿」の順位に従って候補者に割り当てられるが、小選挙区と重複して立候補した候補者の場合はその限りではない。全国は11のブロックに分割され、全体では180人の議員が選ばれる(2000年の改正前は200人)。政党はそれぞれのブロックに名簿を用意する。小選挙区制も比例代表制もオーソドックスなものであるが、両者の組み合わせ方に日本の独自性がある(その詳細は紙幅の都合で省略する)。

中選挙区制と自民党

中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選出されるため、過半数の議席の獲得を目指す政党は同じ選挙区に何人も候補者を擁立しなければならなかった。その結果、自民党は下記のような困難に直面した。

まず、その選挙区における自民党支持の強さを考慮に入れて、最適な数の候補者を公認しなければならない。候補者が多すぎると、彼らは共倒れになるであろう。反対に候補者が少なすぎると、獲得できるはずの議席を諦めることになる。従って、何人まで候補者を擁立するのかという公認戦略は、自民党にとって常に悩みの種であった。

また、選挙区における自民党支持を計算した上で、最適な数の候補者を公認できたとしても、それで終わりではない。有権者は党ではなくて候補者に投票するのであり、中選挙区制には候補者間の得票調整の仕組みはない。自民党支持者の票が特定の候補者に集中すると、そのほかの候補者は当選に必要な票を獲得できず、他の政党の候補者に負けてしまうのである。従って、自民党の候補者は均等に得票しなくてはならない。こうした選挙区における「票割り」は、選挙戦略上、極めて重要であった。

国政レベルにおける自民党は、何人かの指導的な政治家を中心とする議員集団、すなわち「派閥」に分裂していた。派閥の存在理由の一つは中選挙区制にある。選挙区において競合している自民党の候補者たちは、それぞれ派閥のリーダーから支援を受けていた。派閥のリーダーは候補者のために公認を獲得し、政治資金や役職の世話をする代わりに、総裁選挙の際には彼らの支持を求めたのである。自民党は支持者の数に見合った最適な数の候補者を擁立しなければならなかったが、候補者間の競争が派閥間の競争と連動したことにより、公認戦略はいつも難しいものとなった。

「後援会」と「族議員」による候補者すみ分け

選挙戦略上は自民党支持者の票が特定の候補に集中しないよう、票割りしなければならないことを述べたが、候補者たちは地域的ないし政策的にすみ分けながら、自らの選挙地盤を形成することで、この課題に対応した。地域的なすみ分けが「後援会」であり、政策的なすみ分けが「族議員」である。

後援会とは、特定の政治家を応援する人々の集まりといった意味であるが、現実には政治家が有権者を囲い込むためにさまざまな便益を提供しなければならず、莫大な費用がかかることになった。後援会の組織のされ方はさまざまである。国会議員と有権者が結びつくこともあったし、国会議員を支持する地方議員が後援会の幹部となり(系列関係という)、それを媒介に国会議員と有権者が結びつくこともあった。また、後援会は選挙区における特定の地域を重点的に組織する場合もあったし、年齢や性別、特定産業の従事者、そのほか団体のメンバーなどを組織することもあった。いかなる方法であれ、自民党候補者たちは個人的な「選挙マシーン」を形成し、選挙区内の異なる支持者を組織することにより、中選挙区制における票割りの要請を満たしてきたといえる。

選挙区における自民党候補者間の差別化競争は、国政(政府および国会、党本部)レベルでは「族議員」現象となってあらわれた。族議員とは、特定の政策領域について専門知識と人脈を蓄えることにより、政策過程に影響を及ぼす議員のことである(農業や商工業、建設業などが人気のある政策分野であった)。自民党の政務調査会は政策領域ごとに部会という下位組織を持っており、議員たちは各部会に所属することで、自らの政策的な専門性を高めていった。

つまり、中選挙区制における自民党候補者間の票割りの必要性は、中央においては政務調査会、地方においては後援会の組織原理となっていたのである。

リクルート事件を機に高まった政治改革の動き

1988年に発覚したリクルート事件を契機として、自民党に対する国民の批判が大いに盛り上がり、超党派的な政治改革運動に結実していった。その際、批判のやり玉に挙がったのが中選挙区制である。すでに説明したように、自民党政治が腐敗するのは選挙制度に原因があり、個人的な選挙区サービスではなく、政党の政策中心の選挙運動を実現するような選挙制度に変更すべきと考えられた。また、中選挙区制においては、自民党のような候補者間のすみ分けメカニズムを持たない野党が結集するのは困難であり、政権交代が起こらない原因の一つとみなされた。小選挙区制はこれらの問題を解決する格好の処方箋と期待されたのである。

紆余曲折の末、1994年に小選挙区比例代表並立制が導入された。自民党は大政党に有利な小選挙区制のみの採用を主張していたが、少数政党の支持を取り付けるため、彼らに有利な比例代表制と組み合わされた制度となった。

小選挙区比例代表並立制と自民党

新しい選挙制度の下で、自民党の組織はどのように変わると考えられたのであろうか。かつての中選挙区制が自民党に課していた条件の変化として考えると、分かりやすい。小選挙区制においては、一つの選挙区から選出される議員は一人であるから、同じ政党から複数の候補者が出馬するという事態はあり得ない。つまり、同一政党内の競争が発生しなくなることにより、自民党の公認戦略はシンプルなものになり、選挙戦略も大きく変わるはずである。

公認戦略と選挙戦略の変化

まずは公認戦略であるが、かつてのように、選挙区内の自民党支持者に見合った最適な数の候補者を予想しなければならない、という複雑さは不要となった。他党との関係において、もっとも勝てそうな候補者を擁立すればよいだけである。むしろ強調すべきことは、党の公認が持つ重要性の変化である。中選挙区制においては、党の公認が得られなかった保守系の無所属候補者でも当選すれば、自民党に入ることを許された。一方、小選挙区制における当選者は一人だけであり、公認を得ずに出馬すること自体、党の分裂を招き、公認候補者を危機に陥れる反党行為となる。従って、党の公認の重みは格段に大きくなり、公認権を握る党執行部の権力が増大すると考えられる。

次に選挙戦略であるが、中選挙区制における票割りはもう必要なくなった。その結果、後援会や族議員による差別化も必要なくなり、選挙は候補者個人の選挙キャンペーンから政党の政策や党首のイメージが中心となるものへと変わると期待されたのである。個人的な選挙キャンペーンを実施する必要がなくなれば、金のかかる後援会を維持しなくてもよくなり、政治腐敗を根絶できるはずである。また、候補者個人の後援会から党の地方組織に活動の重心が移るだけではなく、族議員のような個人的な政策活動から党の政策づくりに関心が集まることにもなるであろう。

小泉「郵政選挙」では党公認が議員生命を左右

こうした制度変化の影響は、2005年の衆議院議員総選挙における自民党の公認戦略に見て取ることができる。当時の首相であり、自民党総裁の小泉純一郎は国営であった郵便局の民営化を主張していたが、郵便局の支援を受ける族議員の激しい抵抗に直面していた。自民党執行部が所属議員に党議拘束をかけたにもかかわらず、国会に提出された郵政民営化法案には反対者が続出し、参議院では否決された。

そのため、小泉首相は衆議院を解散し、郵政民営化を選挙の最大の争点とした。その際、自民党執行部は法案に反対した議員に党の公認を与えず、党の公認候補者を新たに擁立した。選挙の結果、自民党は大勝利を収め、党から追放された反対派の多くが議席を失い、辛うじて議席を確保した者も困難な状況に追い込まれることになった。

この事例は公認の重要性にとどまらず、総裁がその気になれば、議員の政治生命を左右できることを明らかにした典型的な事例といえる。

政党公約と党首イメージ重視の選挙戦略へ

選挙戦略については、どうであろうか。もっとも大きな変化は、政党の公約が重要となったことである。ただし、この変化はもう一つの大政党である民主党からもたらされた。2003年の衆議院議員総選挙に際して、民主党は「マニフェスト」を掲げることにより、党を前面に押し出した選挙運動を開始した。それにつられるように、自民党を含む他の政党も党の政策を掲載したパンフレットを作成して、配布するようになった。自民党や民主党のパンフレットを見ると、党首の写真が大きく掲載されているなど、党首のイメージが重視されていることも特徴である。その後の国政選挙においても、政党の公約は非常に重要な選挙運動の手段となっている。

その一方で、選挙制度改革によって政党の地方組織の充実が予想されたが、これは期待外れであった。依然として、候補者個人の後援会が選挙区レベルの活動では中心的な役割を果たしている。無党派層の増大に象徴されるように、政党に対する有権者の忠誠心の低下が背景にあると考えられる。選挙制度は政党中心の公認戦略や選挙戦略を求めるものであり、政治家はそれに適応せざるを得ないが、有権者の対応はそれに追いついていないともいえよう。また、後援会の幹部である地方議員を選出する選挙制度には変更がなく、衆議院の選挙制度改革の影響力には限界があることも指摘しておかねばならない。

党内権力関係の変化

選挙制度改革は、二つのルートを経て、党内権力関係にも影響を及ぼす。一つは派閥の弱体化、もう一つは総裁の重要化である。派閥の存在理由の一つは、中選挙区における自民党候補者同士の競争にあった。小選挙区制の導入によって自民党の候補者が一人に絞られ、党内の選挙競争が起こらなくなると、選挙区での候補者間の対立関係を利用して、派閥の結束を図ることはできなくなった。こうした派閥の求心力の低下は、派閥の人事機能や政治資金の集配機能の低下を招き、それが派閥の魅力をさらに損なうと考えられる。

かつて、首相は派閥のリーダーからの推薦に基づいて閣僚を選任していた。自民党の場合、議員の昇進は当選回数に基づいており、大臣となるためには5回の当選回数が必要とされていたが、有資格者の中から誰を選んで、どのポストに就けるかは、派閥のリーダーの推薦がものをいった。しかし、選挙制度改革以降は派閥の影響力が低下し、小泉首相が派閥の推薦を無視して人事を行ったことは有名である。また、選挙制度改革と同時に行われた政治資金規正法の改正や政党助成法の導入により、政治資金の集配が政党を経由するものへと変わっていった。こうした制度改革も派閥の資金力を削ぎ、その役割を低下させることに寄与したといえる。結局、若手を中心に派閥に属さない議員が激増した。

派閥が衰退する一方、相対的に影響力を拡大したのは総裁である。その選ばれ方も大きく変わると予想される。かつての自民党における総裁選びは派閥を中心とするものであった。1978年の総裁選挙から一般の党員も参加する事例がたびたび見られるようになったが、一般党員は後援会を通じて、党の地方組織を構成する地方議員たちは系列関係を通じて、それぞれ特定の国会議員による動員の対象となっていた。その国会議員は所属する派閥のリーダーの意向に従っていたから、一般党員や地方議員も派閥中心の総裁選びに巻き込まれていたといえる。

小選挙区制の導入によって、党首が選挙の帰趨に影響を及ぼすようになるなら、総裁選びに対する一般党員や地方議員の意識も変わるはずである。かつては誰が総裁であっても大して変わらないと思われていたが、新選挙制度の下では誰が総裁になるのかによって、選挙の結果は大きく左右される可能性がある。有権者の支持を得られそうな人物の方が好ましいため、党員による投票で人気を証明することが候補者に求められるようになる。また、中選挙区制の廃止によって、系列間の競争関係が失われ、国会議員と地方議員のつながりは緊密なものではなくなる。後援会を通じた動員はかつてほどの効果を失い、党員や地方議員の自立的な投票判断を可能にするはずである。

上記の予想は事実によって裏付けられるのであろうか。2000年代以降の自民党総裁選挙における顕著な変化は、党員投票を伴う事例の増加である。総裁が任期途中で辞任する場合、規定上は党員投票を実施しなくてもよかった。1980年代や90年代までは、この規定どおりに運用されてきたが、転換点となったのが、2001年4月の総裁選挙である。

森喜朗総裁は任期途中での辞任であったが、各地の地方組織が自主的に党員投票を実施し、党本部もそれを認めざるを得なくなった。その結果、誕生したのが小泉純一郎総裁である。選挙区のローカルな利益を擁護する国会議員に対して、小泉が厳しく接してきた理由の一つとして、日本全国の党員から支持を獲得して総裁に選ばれたという経緯があることを無視できない。

その後、毎回、党員投票が実施されるようになり、派閥中心であった総裁選挙における党員や地方議員の役割が大きくなった。また、小泉のように派閥の支持を十分に得られなくても、党員の支持を当てにして立候補する者が増え、候補者のタイプも変化したといえる。

結論

本論文では、小選挙区比例代表並立制が自民党をどう変えると考えられたのか、実際にどう変わったのか、かつての中選挙区制と比較しつつ検証した。結論としては、選挙制度改革には政党中心の選挙を促進し、総裁の影響力を拡大する効果があり、実際に派閥は衰退しているといえる。しかし、制度の十分な活用は政治家次第であり、有権者の政党離れが地方における組織化を妨げている可能性も無視できないのである。

この記事につけられたタグ:
  • [2013.11.12]

高知大学人文学部准教授。専門は現代日本政治論、政治制度・政党研究。2002年、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得満期退学。東京大学より博士(法学)取得。東京大学社会科学研究所助手を経て、2008年から現職。著書に『政党政治と不均一な選挙制度―国政・地方政治・党首選出過程―』(東京大学出版会/2013年)など。

関連記事
このシリーズの他の記事

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告