シリーズ 日本映画の未来を検証
「邦画の未来を託す映画人を生み出す」 日本映画大学学長・映画評論家 佐藤忠男インタビュー
[2012.07.17] 他の言語で読む : ENGLISH | FRANÇAIS | ESPAÑOL | العربية |

「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ国際映画祭最高賞を二度受賞した故・今村昌平監督が創設した横浜放送映画専門学院は、2011年に日本で唯一の映画単科大学「日本映画大学」となった。学長で映画評論家の佐藤忠男さんに同校の映画人育成と現在の日本映画界について聞いた。

佐藤忠男 SATOH Tadao
1930年新潟県生まれ。日本を代表する映画評論家。
アジア映画研究の先駆者。映画を中心に演劇・文学・大衆文化・教育など幅広い分野で半世紀以上にわたり評論活動を続けている。1956年に最初の著者『日本の映画』(三一書房)でキネマ旬報賞を受賞し、著書は100冊を超える。芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、勲四等旭日小緩賞、韓国王冠文化勲章、フランス芸術文化勲章シュバリエ章受賞、毎日出版文化賞、国際交流基金賞、神奈川文化賞など多数受賞。現在、日本映画大学学長。

プロが実地で技術を教える映画大学

「映画監督の今村昌平さんが同志を集め、自ら学長となって1975年に2年制の『横浜放送映画専門学院』を開校したのが始まりです。1985年に名称を『日本映画学校』に改め3年制の専門学校となりました。そのとき、川崎市の新百合ケ丘に移転。2011年4月『日本映画大学』として4年制に改組するために、白山校舎を新設。大学になるためには土地や建物などに規定が厳しく、川崎市が小学校の空き地を貸してくださってようやく4年制大学になることができたという経緯があります。

4年制の映画大学の実現は今村昌平さんの念願でもありました。社会全体が高学歴化し、専門学校では物足りないという面が以前から指摘されていたんですね。映画界もどんどん国際化され、海外の映画人たちと対等に議論できるような学識も必要とされています」

——今村昌平さんは映画に対してどのような教育理念をお持ちだったのでしょうか?

「日本の映画界は1970年代に助手の採用を中止しました。それは邦画が斜陽になって、撮影所のシステムが崩壊してしまったからです。かつての撮影所は上下関係も厳しく、助手で入った若い人が先輩に技術を習い、監督や撮影、編集、美術といったそれぞれの部署で5年から10年修業して、やっと一人前になれた。撮影所は学校みたいなものでした。そのシステムが失われたことで、映画界へ入る道が絶たれてしまった若い人たちがたくさんいました。同時に、撮影所がなくなって映画人も仕事がなくなった。ですから映画学校創設には、行き場所のない若い人と行き場のない映画人を引き合わせるという側面もありました。今村さんは『実地で映画の現場を経験したプロが映画の技術を学生に教える』という点にこだわっておられました。

また、今村さんは『授業を全て英語で行う』という構想もお持ちでした。最近は大手企業が英語の公用語化を行っていますよね。今村さんは教育においてかなり先見の明があったのだと思います」

卒業生には三池崇史、李相日監督ら

——日本映画大学は“映画工房”のような役目を果たしているのでしょうか?

「歴代の講師の多くが100%映画界の現場で仕事をしている一流の人たちだった、というのが非常に重要な特徴です。

今井正、吉村公三郎、浦山桐郎、篠田正浩といった巨匠たちも教壇に立ちました。これは映画現場への就職にも役に立ちました。やがて卒業生が一人前になると、今度は後輩の面倒を見てくれる。こうして映画人の新人育成の場として、本校は有効に機能するようになりました。

卒業生である「十三人の刺客」(2010)の三池崇史監督や「悪人」(2010)の李相日監督などはその代表ですが、監督だけでなく、撮影、照明、美術、録音などの技術者たちも数多く輩出しています。

日本アカデミー賞の技術系の受賞者の多くは日本映画学校の出身者です。この学校がこれだけ長く続いたのは、映画界へ巣立った卒業生の人脈があったからだと考えています」

テーマを見失った日本映画

——近年、若い人の作る映画は「半径5メートル以内の出来事しか描けていない」と揶揄され、社会的なメッセージが欠落していると指摘されがちです。

「学生やプロの作品を問わず、日本映画が全体として直面している最大の問題は“何を作ったら良いか分からず悩んでいる”ということでしょう。日本映画の黄金時代と呼ばれた時代には、誰もが納得するテーマがいくつかありました。貧困の克服や民主主義の確立、女性の権利拡大。これらは誰もが賛同するテーマで、国際的にも評価される作品が登場しました。ところがこういうシリアスなテーマを、現代では真顔で作れなくなってしまった。

同時に“大きな物語が作られなくなった”とも言われています。今の社会には、革命や社会の変革、モラルの転換など、みんなどこか疑わしくて確信を持って言えないという傾向がありますよね。黒澤明監督などは、誰でも判るモラルを大声で堂々と訴えていた。ところがその“普通のモラル”を声高にできなくなった時から、黒澤さんの作品自体が悩み始めたような印象を私などは受けたものです。

——テレビ局が主体となる共同企業体が出資した『製作委員会方式』と呼ばれる形での映画製作についてはどのようにお考えですか?

「撮影所システムが安定していた時代の映画界では、儲かる映画を作るシステムと、その儲かる映画によってもたらされた余裕によって、巨匠たちが自由に作る芸術作品が両立していました。小津安二郎(1903-1963)や溝口健二(1898–1956)は、このシステムの上で偉大な作品を作っていたのです。映画界の斜陽で儲かる映画がなくなり、偉大な作品を作る条件が壊れました。

第一線にいる若い映画人にとって、最近のテレビ局が作る製作委員会方式の映画には不満があると思います。しかし“儲かる映画の作り方を回復した”という功績があるのも確かです。

ただ “儲かる映画の利益で会社の名誉になる映画を作る”というシステムの復活には至っていません。

未熟な若者の悩みは未熟な若者にしか描けない

——今後の日本映画界に対する課題はどのようなことでしょうか?

「映画学校の学生というのは10年後一人前になればいいわけです。だから、学生のうちは商売になる作品を作る必要はありません。私は批評家なので、学生の作った作品は必ず全部見る、そしてコメントをする、ということを自分に課してきました。

そして気付いたのは、“未熟な若者の悩みは未熟な若者にしか描けない”ということでした。親との不和・自傷・引きこもり等のテーマを大人が描くと、上からの目線になり過ぎるきらいがあります。プロの映画にはない若者特有の悩みの描き方があると知ったことは私にとって大きな収穫で、同時に『教育者になって良かった』と思いました。

今は誰でも映画が作れます。昔に比べればチャンスはあるし、よっぽど自由だと思います。ただ、映画黄金時代のような傑作が生まれているかと言えば、それは難しい状況にあります。

かつて日本映画が世界的にも躍進した時代があり、当時は『世界の先頭に立っているな』という感覚がありました。再びそうした機運が高まるためには、意を共にする者たちが論議できる場が必要です。昔の撮影所というのは、まさにそういう場でもあった。その中から才能が生まれる訳ですが、それは才能ある人たちがそこに集まったというだけでなく、そこで育てられたという面もあるはずです。その役割を日本映画大学が担えないだろうか、という希望を持って今は取り組んでいるところです」

構成=松﨑 健夫(映画ジャーナリスト)
インタビュー撮影=谷口 雅彦

【日本映画大学】

大手映画会社の資本に依らない映画製作を続けていた今村昌平監督が、1975年に創設した横浜放送映画専門学院が前身。「既設のレールを走りたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけ、現場で活躍する一流の映画人を講師に迎えて授業を行ってきた。映画製作のプロセスを企画から作品の完成まで、プロの現場と同じ機材を使用した少人数教育にこだわり、在学中に磨かれた技術によって卒業生の多くが映画界へと羽ばたいて行った。2011年より日本で唯一の4年制映画単科大学となる日本映画大学に改組。脚本演出コース、撮影照明コース、録音コース、編集コース、ドキュメンタリーコース、理論コースに分かれ、専門的な技術や知識を学ぶだけでなく、地域社会と映像を通した交流を図っている。現在日本映画界で監督として活躍する卒業生に、三池崇史、佐々部清、本広克行、李相日、山口雄大、松江哲明らがいる。

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