鎮魂のヒロシマ・ナガサキ

今も続く核脅威とヒロシマの役割

政治・外交 社会

「核時代の扉」を開いた米国による広島・長崎への原爆投下から68年余。今年もまた、広島市の平和記念公園で行われた8月6日の平和記念式典には、広島市民をはじめ内外から約5万人が参列、犠牲者への慰霊と核兵器廃絶への誓いを立てた。

冷戦時代より高まっている核兵器使用の可能性

平均年齢78歳を超えた老いゆく被爆者たち。彼らの式典参列は、徐々に少なくなりつつあるが、逆に若い世代や外国人の姿が年々目立つようになってきた。その中には、初めて広島を訪問した米アカデミー賞受賞監督のオリバー・ストーン氏の姿もあった。米国、ロシア、英国、フランスをはじめ70カ国の政府代表、欧州連合(EU)や国連の代表も参列、1日も早い核廃絶を願う「ヒロシマ」の訴えに耳を傾けた。

70年近くを経ても、被爆地広島・長崎に国際的な関心が注がれるのには理由がある。米ソ冷戦後の今もなお、人類は自らの破滅につながりかねない核戦争の脅威の下に生存しているからである。地球上には、米ロを中心に約1万7千発の核兵器が存在する。核拡散防止条約(NPT)に未加盟のまま核を保有するインド、パキスタン、イスラエル、NPTから抜け出した北朝鮮に加え、イランなどへの核拡散の懸念もぬぐえない。

核エネルギーの「平和利用」が進めば進むほど、核物質や核技術は各国に広がり、それらはすでに軍事目的に転用されてもきた。一部の武装集団による核テロの可能性も、決して否定できなくなった。限定核戦争という意味では、意図的、偶発的であれ、米ソ冷戦時代よりも核兵器が使用される可能性が高まっているといえよう。

2009年5月に発せられた「ヒロシマ・ナガサキ宣言」

1952年5月、平和記念公園に建設中の原爆慰霊碑。周りにはバラックの民家が立ち並ぶ。遠くに見えるのは原爆ドーム。

そうした危機感の一つの表れだろう。2009年5月には、今は亡きケニアのワンガリ・マータイ氏、韓国の金大中元大統領らノーベル平和賞受賞者17人が連名で、広島に本社を置く中国新聞紙上と同社が運営する原爆・平和・核専用の英語と日本語のウェブサイト「ヒロシマ平和メディアセンター」を通じて、「ノーベル平和賞受賞者ヒロシマ・ナガサキ宣言」を、世界の政治指導者、市民に向けて発表したのだ。北アイルランドの平和運動家で、1976年にノーベル平和賞を受賞したメイリード・マグアイア氏のイニシアチブで実現したものだが、被爆地からの宣言発表に特に意義を見いだし、多くの受賞者が快く協力してくれた。

宣言では、「私たちは拡散をくい止め、廃絶への道を歩むか、さもなければヒロシマ・ナガサキの惨禍が繰り返されるのを待つかのどちらかです」と訴え、物理学者のアルバート・アインシュタイン氏が1946年に発した次の言葉を引く。「解き放たれた原子の力はすべてを変えてしまったが、唯一変わらないのはわれわれの考え方である。それゆえ、われわれは未曾有の破滅的状況へと流されていく。もし人類が生き残ろうとするならば、われわれはまったく新しい考え方を身につける必要がある」。そして最後に「核兵器廃絶は可能です。(略)私たちは結束して、この構想を現実のものとしなければなりません」と、世界の市民に行動を呼び掛けた。

「ヒロシマ・ナガサキ宣言」は、国内の多くの地方・ブロック紙で転載されたり、米国の有力インターネット新聞ハフィントン・ポストで紹介されたりするなど、内外で反響を呼んだ。

廃虚に「文明の終末」を直感した被爆者

被爆者(右手前)から取材するチェコ、デンマークなど欧州4カ国のジャーナリスト。あの日の体験や核廃絶を願う被爆者の思いは、海外メディアを通じても広がっている(2012年11月撮影)。

第2次世界大戦末期に開発された原子爆弾は、これまで人類が体験したことのない未曾有の破壊を広島・長崎にもたらした。熱線、爆風、そして核兵器特有の放射線による被曝…。きのこ雲が立ち上るその下で、子どもやお年寄り、女性、日本兵や米国、英国、オランダの捕虜、在日朝鮮人ら国籍・民族・宗教の区別なく無差別の大量殺戮が行われた。

広島市の当時の人口は、推計32万7千人。軍関係者らを含め約35万人いたとみられている。うち、死没者は1945年末までに13万~15万人に達した。長崎では推計24万人のうち約7万4千人が犠牲になったとされる。

一発の原爆の破壊力を、身を持って知った被爆者も、廃虚の中に「文明の終末」を直感していた。今に続く歴代広島市長の「8・6平和宣言」。バラックの建物などが周辺に残る、復興も緒に就いたばかりの1947年の第1回平和祭(現在の平和記念式典)で発した浜井信三市長(1905~1968年)の平和宣言に、その思いが強くにじむ。

「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性とを確認せしめる『思想革命』を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は、人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を、世界の人びとに明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない」

容易ではなかった復興の道程

悲惨な原爆や戦争体験を通して、かつての軍都廣島は、平和都市広島に生まれ変わった。1949年に国会で特別法として制定され、広島市の住民投票で圧倒的支持を得て同年8月6日に公布された「広島平和記念都市建設法」。この法を基に原爆慰霊碑や原爆資料館の建設など現在の平和記念公園が整備され、やがて「国際平和文化都市」を街づくりの目標に掲げて歩んでいった。もっとも、1970年代に入っても原爆ドーム北側の川沿いには多くのバラックが残るなど、復興の道程は容易ではなかった。

「まるで生き地獄だった」―。こう言い表すほか言葉が見つからない惨状を生き延びた多くの被爆者。彼らが負った体や心の傷は、物理的な回復とは違って、今も癒えることなく続く。「放射線後障害によって、いつ病気が発症するかもしれない…」。そんな不安を抱えながらの日々。しかも、その不安は自身の体だけでなく、生まれてくる子どもたちにもおよんだ。就職や結婚時などに受けた差別や偏見、生活苦や病苦…。多くの被爆者は、長い時間の経過の中で、苦しみや原爆投下国への憎しみを克服し、やがて「私たちと同じ思いを世界中のだれにもさせたくない」との強い思いを抱くようになっていった。

広島・長崎の悲惨な原爆体験は、日本人の間に核アレルギーを植え付けた。1954年の米水爆実験で、太平洋で操業中のマグロ漁船「第5福竜丸」の乗組員らが大量の「死の灰」を浴びた「ビキニ事件」は、核兵器に対する日本人の反対意識を一層強めた。

ところが、ビキニ事件と時を同じくして始まった、核エネルギーの「平和利用」と喧伝された原子力発電所の導入には、ほとんどアレルギー反応を示すことはなかった。物理学者ら専門家の多くも、私たちメディアも、人類の未来に平和と繁栄をもたらす「夢のエネルギー」として肯定的に受け止めた。放射線の人体への影響を肌身で知る被爆者も例外ではなかった。「安価でクリーンで安全」。米国などによる原発推進キャンペーンに対して、「軍事利用は許せないが、しっかりとした倫理観をもって平和目的に限定して利用するなら良いだろう」というのが大方の反応だった。

福島原発事故にやり場のない怒りと無念

東京電力福島第1原発での炉心溶融事故から1カ月後の2011年4月、福島県飯舘村で、牛舎内の乳牛にエサを与える原田貞則さんと妻の公子さん。原発から約40キロ離れていたが、放射能汚染がひどく間もなく村を挙げて離村を余儀なくされた。精魂込めて育てた牛とも別れ、夫妻の暮らしは根こそぎ奪われた。

2011年3月11日、東京電力福島第1原発で炉心溶融を伴う過酷事故が起きた。それまでは、ごく一部の被爆者を除き、自らの被爆証言活動の中で、原発について触れることはなかった。放射性物質を大量に環境に放出し、「地球被曝」とさえ形容された1986年の旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故でさえ、遠い出来事ゆえに危険を実感できなかったという。だが、福島原発事故は違った。語り部活動に関わる知人の被爆者の多くは「核兵器と原発は別のもの」と考え、原発に反対の声を上げてこなかったことを悔いた。

人間のコントロールが利かない原発事故が起きれば、人間はもとより動植物などあらゆる生物、環境にとって取り返しのつかない甚大な被害が起きる。仮に事故が起きなくても、増え続ける使用済み核燃料や高レベル放射性廃液など「核のごみ」を何万年も安全に貯蔵する場所がない。原発労働者は、常に被曝の危険から逃れられない。

福島の被災地を歩き、根こそぎ暮らしを奪われた農民や漁民らから取材した。彼らが発した言葉が、今も私の脳裏から離れない。「終戦直後の日本は『国破れて山河あり』と言われたが、今は『国栄えて山河なし』ですよ」「本当は補償金など要らない。漁師は海に出て魚を捕ることこそが生きがい。これでは夢も希望もない」

放射能汚染で離村を余儀なくされた福島の農民や、事故以来2年半も漁に出られない漁民のやり場のない怒りと無念に、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを体験してきた私たち日本人は、「過去の歴史から何を学んだのか」と鋭く問われているのである。

「世界のヒバクシャ」の悲惨な実態を通して訴えた原爆建設停止

「被曝して髪が抜けても最初は理由が分からなかった。産業医は検診すらしてくれなかった」―米エネルギー省との公聴会で、酸素吸入器をつけたままサバンナ・リバー・サイト核施設での体験を訴える元労働者(サウスカロライナ州エイケン市/2001年撮影)。

核の軍事・平和利用を問わず、ウラン採掘から放射性廃棄物処理に至る核燃料サイクルのあらゆる過程で、放射能汚染が広がり、放射線被害者、すなわちヒバクシャが生まれた。原爆で従業員の約3分の1に当たる114人を失った中国新聞が、その現実に目を向けたのは、チェルノブイリ原発事故から3年後の1989年のことである。米国、旧ソ連など15カ国21地域での取材を基に、「世界のヒバクシャ」と題して1年余にわたり記事を連載、その中で私たちは、核依存社会の危険な実態をリポートし、原発建設の停止を訴えた。

安らかに眠って下さい

過ちは

繰返しませぬから

平和記念公園内の原爆慰霊碑に刻まれた碑文には、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ウォー」とともに、「ノーモア・ヒバクシャ」の誓いも込められている。

被爆地でジャーナリズム活動に携わる私たちは、核兵器を威力としてではなく、人々に限りない惨禍をもたらす非人道兵器の象徴としてとらえてきた。こうした視点から、被爆者一人ひとりに寄り添いながら、多くの記事や写真で「ヒロシマ」を記録してきた。核兵器開発であれ、原発事故であれ、その他の核関連事故によるものであれ、世界中に生まれているヒバクシャの実態を取り上げる際も、常に同じ視点で追跡してきた。

次世代に押しつけてはならない核時代の“負の遺産”

放射能汚染がひどいため、チェルノブイリ原発事故翌年の1987年にブルドーザーで民家が埋められたベラルーシ・ゴメリ州の村。「67軒・185人が住んでいた」との2つの標識だけが、村の存在を示す唯一の証しだ(2001年撮影)。

核兵器を「威力」としてではなく、「悲惨」「絶対悪」とみなす人々の数は、確実に世界中に増えている。長年にわたる被爆者や世界の多くの市民の訴えの成果であろう。危険な核エネルギーではなく、持続可能な再生可能エネルギーへの転換を求める声も強まっている。核時代が生み出した「負の遺産」を、これ以上次世代や地球に押し付けることは許されないだろう。

過剰な軍事力や武力による問題解決に依拠せず、人類の共生や自然との調和、一人ひとりの命を大切にし、多様な価値を認め合おうとする生き方にこそ、核時代の負の遺産をはじめ、人類が直面する困難な課題を克服し、未来を切り開く「現実的な道」があると言えないだろうか。日本の憲法に体現された平和思想。それこそが、悲惨な原爆体験の中から被爆者らがはぐくんできたヒロシマ・ナガサキの思想でもある。広島を拠点に報道活動を続ける私たちも、その思想をしっかりと受け継ぎ、核のない、平和な世界の実現のために微力を尽くしたいと思う。

写真提供=中国新聞社
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