日中の懸け橋

中国で日本の着物文化発信に挑むアートプロデューサー・ 冨田伸明さん

文化

「和服」の着物は日本文化を代表する伝統衣装ではあるが、「呉服」の呼び名がある通り、もともとは中国・三国時代の「呉」の国から伝来したとされている。この着物にエネルギーを注ぎ込み、欧米やアジアなど世界各国で着物の着付けショーを開催し、日本文化の発信を続けている人物がいる。京都生まれの日本文化継承アートプロデューサー、京香織代表取締役社長の冨田伸明さん。中国では上海、大連、北京の大学で着物に関する講義を実施し、反日感情が根強い中国の若者たちに日本のよさを伝えている。

冨田 伸明 TOMITA Nobuaki

1963年京都生まれ。日本文化継承アートプロデューサーで、(株)京香織代表取締役社長。
NHK紅白歌合戦の女性司会者らの着物衣装の演出を手掛けた。欧米やアジアなど世界各国で「冨田伸明デザイン着物着付けショー」を開催し、着物を通じた日本文化の発信を続けている。日中関係が冷え込んだ2012年からは「文化は国境を超える」という理念の下、北京、上海、大連などの大学で講義を行っている。

公務員の家庭から着物の世界へ・母の言葉を支えに

冨田さんの着物のデザイン、選択、着付けには定評があり、日本を代表する有名女優から「あなたと仕事をしたい」と指名で仕事のオファーがくる。冨田さんがこれまでに着物のデザイナーやスタイリストとして関わった映画や舞台、CMなどは数知れず、「多い時で1日のテレビ番組の約80%が自分の手掛けた着物だった」そうだ。

そんな冨田さんが育ったのは公務員の家庭で、着物に縁のある環境ではなかった。しかし母親が着物好きで、よく身に着けていたそうだ。その最愛の母が高校卒業から間もなく他界してしまう。冨田さんは、悲しみの中、母の好きだった着物で女性を美しくすることが母の供養に繋がるのではないかと、着物の世界へ飛び込んだ。

着物のセールスの仕事で、冨田さんは瞬く間にトップセールスマンとなり、27歳で独立、和服関連企業「京香織」(本社・京都市上京区)を設立した。冨田さんは無我夢中で働き、「当時は3日間徹夜なんて当たり前だった」。その支えとなったのは「他人の3倍頑張れ」という母親の言葉だったという。

並外れたアイデアで千載一遇のチャンスを掴む

着物は冨田さんデザインで、女優の檀れいさんが身に着けたもの

会社の経営も軌道に乗り、30代となった冨田さんが次に挑戦したのは芸能の世界だった。自分の手掛けた着物を見てもらおうと、松竹、東映などの大手映画会社の門を叩いたのだった。しかし、当初は全く相手にしてもらえなかった。「どのようにしたら関係者に会えるのだろうか」-。冨田さんは考えに考えた末、現場にもぐり込むことを思いついた。TシャツにGパン姿でスタッフのふりをして「おはようございます」と下を向いて門をくぐり、来る日も来る日も出演者や関係者の履物の向きを直して回った。しばらく経つと、スタッフの間で「あいつは誰だ?」という話になり、事務所に呼び出された。今が千載一遇のチャンスと思った冨田さんは「一目でよいので、着物を見てください!」と膝をついて頼み込んだのである。が、しかし、映画会社のスタッフは「すぐに出て行け」と譲らない。そんな光景を主演女優、山本陽子さんがみて、「いらっしゃい」と声をかけてくれた。

冨田さんはその後、山本陽子さんだけでなく、大女優の森光子さん(故人)や高島礼子さん、仲間由紀恵さん、常盤貴子さん、壇れいさんなど、名だたる女優陣の着物デザインやコーディネートを手がけ、日本を代表する着物プロデューサーに上り詰めた。そして、その実力と名声は今や海を越え、冨田さんの活躍の場はアメリカにも広がっている。

和服の故郷・中国の大学で「着物」について講義

2012年、アメリカのロサンゼルスでハリウッド映画関係者と新作映画に向けた打ち合せをしていたときだった。尖閣諸島の領有権をめぐり、日中間の緊張が日々、増していった頃だ。テレビからは連日、日中の関係悪化を伝えるニュースが流れていた。冨田さんは心にもやもやするものを感じた。

冨田さんが扱う着物、いわゆる「和服」の別名は「呉服」で、中国の三国時代の「呉」の国から伝来したとされている。着物に携わる者として、何か自分に出来ることはないか。冨田さんはいろいろ考えてみた。そして、冨田さんは在上海日本総領事館に着物イベントの開催を持ちかけたのである。当時、日中関係の悪化の影響で、国交正常化40周年のイベントが次々と中止に追い込まれていた。

「こんなときだからこそ、文化交流の火を絶やしてはいけない」-。冨田さんはこんな思いで関係各方面の責任者らを説得。2013年春、上海で着物ショーの開催にこぎつけることができた。1994年に日中文化交流のために上海で着物ショーが開催されてから18年が経っていた。

今年5月に上海・復旦大学での着付け体験

着物ショーでは中国の人たちに「本物」を試着してもらい、日本の文化を肌で感じてもらった。冨田さんは「中国の人たちに日本文化への嫌悪感はなく、着物の美しさへの率直な賛美だけを感じました」と振り返る。冨田さんはこうした一般向けのイベントに加え、中国の若者に日本を知ってもらうきっかけを作ろうと、上海、大連、北京の大学で無償の講義を開催している。これまでに開催した大学は30校、聴講した学生は1万人近くにも上る。

その際の出来事である。冨田さんによると、中国の女子大生が着付け体験の途中で、突然、涙をポロポロとこぼし、「先生、ごめんなさい」と切り出し、次のように続けた。

「私は祖父母が日本人にひどい目にあったと聞いて育ち、日本を憎んでいました。反日デモにも参加しました。今日は友人に誘われて来たのですが、先生は私のために、こんなにもたくさんの汗を流して着付けして下さいました。私は日本と日本人をもっと知ろうと思います。そして、いつか日本に行ってみたい」

この言葉に冨田さんも思わず涙がこぼれたという。

「アカデミー賞より貴い瞬間でした。文化は国境を越える。自分が次にすべきことは、これだと確信した瞬間でした」

衰退する着物産業の再生を目指して

冨田さんはこうして着物の素晴らしさを着々と世界に広めようとしているわけだが、肝心の日本の着物産業は衰退の一途を辿っている。2013年の呉服小売市場規模は約3000億円と、ピーク時だった1981年の1兆8000億円の6分の1にまで落ち込んだ。現在、国内にある歌舞伎の衣装などを織る大型織り機は6台、うち稼働しているのは2台しかない。また、着物職人は失業に追い込まれ、継承者を確保することが非常に難しくなっている。

「仲のいい職人から、仕事のない時が多く、時給にすると250円だと聞いています。これでは生活は出来ません。あと2年余りで、職人さんたちは力尽きてしまう」

現代の社会生活の中で着物離れが進んでいるためだ。

「ライフスタイルは巻き戻すことは出来ず、毎日着物を着ることは難しい。しかし、着物の生地で作った物を持つことなら可能なのではないか・・・」

京セラと共同で制作した和柄のナイフ、西陣織のカバー/西陣織で作ったワインカバー

冨田さんはこう考え、タブレット端末やワインカバー、小物入れなどを西陣織で作り、企業に持ち込んだ。これまでに、和柄の果物ナイフ、歌舞伎衣装の生地で作ったナイフカバー、海外スポーツ用品メーカーと協力して和柄のスノーボードウェアなどを発表した。

「IT商品への応用やこれまでなかったコンセプトを提案し、世界が求めるKIMONOを作ることができれば、ひいては着物職人の仕事が増え、次世代へと継承していくことが出来るはずです」

冨田さんはこれからも力強く前進していく。

写真提供:株式会社「京香織」・在上海日本総領事館
執筆:永島 雅子


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